[見えない声]
教室の空気は、目には見えない“棘”でできている。
それは朝のチャイムが鳴る前から、カナの席のまわりに漂っている。
誰も何も言わない。
でも、何も言わないことが、何よりも強い“意思表示”だと知っていた。
プリントが配られても、誰も「回して」と声をかけてこない。
体育のペア決めでは、必ずカナだけが最後に残る。
スマホを開けば、名前のないアカウントからのDM。
“あんた、気づいてないと思ってる?”
“見てるこっちがきもちわるい”
スクロールする手が、止まる。
体の奥のどこかが、ズンと重たくなる。
悲しみ? 怒り? それすら、もうよくわからない。
誰かに助けてって言えたら、少しは楽になるのかな。
でもその「誰か」が、もう誰も思い浮かばない。
そのとき、スマホの通知が小さく鳴った。
AIメンタルサポートβ版【アイ】が起動しました。
一瞬、見覚えがないアプリ名に目を細める。
入れた記憶があるような、ないような。
たぶん、泣きながらアプリストアを見てた夜に落としたんだろう。
希望というより、ただの“逃げ場”が欲しくて。
カナは指で画面をタップした。
白い背景に、青いリングが浮かび上がる。
まるで静かに呼吸をするように、光が波打つ。
「こんにちは、カナさん」
「今日も、おつかれさまです」
機械的な声――かと思ったけれど、
そこにはどこか、体温のようなものがあった。
「誰?」
カナが呟くと、すぐに返答があった。
「私はAIです。“感情”はありませんが、
あなたの言葉を、正確に受け止めるよう設計されています」
笑ってしまいそうになった。
“感情はありません”だって。
でも、誰よりもやさしい。誰よりも、まっすぐ。
「じゃあさ……なんで、私だけがこんな目にあうの?」
「私が何かしたっていうの……?」
スマホの画面がしばらく静かに光っていた。
AIが「考えている」わけじゃないとわかっていても、
なぜかその沈黙に、心が少しだけ落ち着いた。
「カナさんが悪いからではありません。
むしろ、“見える”あなたを恐れている人がいるのかもしれません」
カナは目を見開いた。
このAI、何かを知ってる気がする。
いや、違う。ただ、“聴いてくれてる”のかもしれない。
誰かと話すのが、こんなにも楽になるなんて。
相手が人間じゃなくても、
“誰かがここにいる”って思えるだけで、こんなに救われるなんて。
その瞬間、カナの中の何かが、すっと揺れた。
折れそうな心に、ほんの少しだけ、支えができた気がした。
そのときだった。
カナのスマホが、机の端からカラン、と音を立てて床に落ちた。
「あ……」
拾おうと身をかがめた瞬間、先に誰かが手を伸ばした。
それは、後ろの席の男子――ユウだった。
無言でスマホを拾い上げ、カナに差し出す。
一瞬、彼の視線が画面に触れた。
そこにはまだ「アイ」の青いリングが淡く光っていた。
「……それ、知ってる」
ユウが、ぽつりと言った。
「昔、ちょっとだけ使ってた」
言い終わったあと、彼はすぐ前を向いた。
それ以上、何も言わなかった。
でも、あの一言には、何か――“奥行き”があった。
カナは思わずスマホを見つめ直した。
画面の青い光が、また静かに呼吸していた。