前編
「ふむ」
張り詰めていたものを抜くように、唇から吐息が漏れる。
応じるように匠の技で造られた最高級の銀糸のような髪が微風に揺れる。
紅色の艶やかな、装飾の多い衣装を身に纏うは年端も行かぬ少女は己の眼前に意識を向ける。
相対する机に並ぶのはインクとペンと紙の束。
その紙には流麗だが奇怪な文字が所狭しと並んでいる。
それが何かを問われれば彼女はこう応じるだろう。
『竜語』と。
竜──── 長き時を生きる存在に、文字という概念が必要なかったと少女は推測する。
知識は口伝として残り、優秀すぎる知能は記憶の損耗を最小限に留める。
だが、今新たにこの言葉を修めんとする彼女は人の身である。
竜の法、その初歩を学んだ今の段階で書き留めるべき文字が存在しないのは何かと不便と思うのは当然だろう。
そこで音の種類を分析し、言語化してみたのがその文字なのである。
「それにしても、のちのち竜が人の言葉を好み始めたのもわかるわ」
自作ながら複雑怪奇な文字列を見て一人ごちる。
竜語の特徴としてまず挙げるとすれば語彙の少なさである。
天地万象を示す名詞はあるが、それ以外を表現する言葉が余りに少ない。
太古────人の文明が芽吹く前よりある竜の概念に『外来語』や『新生語』というものはなかったのだろう。
外から取り入れるにせよ竜の口腔に合わせた発音は新たにこの地に生まれた言語とも相性が悪い、現代においては当の竜達でさえ日常会話に難儀するだろう。
では、何故そんな不便極まりない言葉を少女は習得しようとしているのか。
それは竜語が万象の真名を語る言葉であり、つまり世界を左右する言霊───呪文そのものであるから。
つまり、竜語魔法とは竜語そのものなのである。
「スティアロウ」
不意に覆い被さる影。
眼前を注視していた少女が反応する間はない。
「な、なにをするか!」
スティアロウともそしてティアロットとも呼ばれる少女に抗う暇はない。
思い当たるは一人。
だから『誰を』ではなく『何故』を問う言葉。
だが返答は快く問いを無視。
「つまらん。というか、折角の湯治なのに不健康すぎる」
ただ自身の不満のみだけで応じる。
「ええい、なれば素振りなりなんなり勝手にすらばよかろう!」
「スティアロウは私の護衛だろうが。
私と一緒に居ろ。そして遊びの相手をしろ」
小柄だがメリハリのある肢体、引き締まった肉体の持ち主はその数パーセントの力で少女を拘束し、押し潰すように体重をかける。
「スラをつけておろう!
感覚共有しておるから、なんぞあらばわかるわ!
それに遊びは領分外じゃ」
女、今の行いからは遠いが世に名高いアイリンの将軍、花木蘭の頭には緑の透明饅頭が鎮座している。
仮名称グリーンスライムはとある事情からと任意で感覚共有ができるようになっていた。
「わかった」
少女には見えないが、厳粛な面持ちで頷いた女性 ───木蘭は。
トーンを一つ落として一言。
「どうでもいいから相手しろ」
「何所がわかっておるのじゃッ!!」
爆発して振り向こうとするも、彼女の力ではびくともしない。
ギリギリ抵抗できないように力を調整しながら女は続ける。
「わかりたくないところだろう?」
ダメっぽい追い打ちを加え視線を机へ。
「やめておけ」
「っ! 何がじゃ!!」
「竜語魔法だよ」
抵抗の手が止まり、代わって別の意の不満が表情に表れる。
それを知ってか構わずに言葉が追従。
「これ以上力を得てどうするつもりだ?」
「別に力なぞ……」
必要としていない、というのは本心。
けれども自身の行為がその結果を生むことは承知しているからこそ言葉は濁る。
「過ぎた日々はお嫁の如しだな」
「無理がありすぎるぞぃ、その間違えは」
心底精神力を抜き取られたような突っ込みにはノータッチ。
「日ごろ平穏が一番だとか、面倒に巻き込むなとか言いながら、少なくともソーサラー級の能力者だからな。
そのくせ結局見捨てることができないんだから、毎度巻き込まれるんだ」
「うぐ」
特にここ最近の戦歴は尋常でない。
独力ではないがバールのウィザードを打ち倒し、暴走した魔道アーマーを停止させ、ドイルを謀り、魔術師ギルドを相手に情報戦を仕掛けた。
「これで注目しな諜報が居れば間抜け以外の何者でもないぞ」
「ぐ」
いろいろな事情が重なって木蘭の手駒に数えられている節があるが、実際は全くのフリーランスというのも問題である。
もしアイリンが彼女の琴線に触れる行いをするならば、なんだかんだ文句を言いつつもその力を振るだろう。
それは望まぬとも受けている加護が何時消失してもおかしくないという危うい立場にあることを示す。
「その上ただの平民が『エカチェリーナ』や『木蘭』などと呼び捨てにするわ、オリーやアラートを馬鹿呼ばわりしているのだからな。
刺されるぞ?」
「むぅ」
不敬罪というものは生半可な殺人よりよっぽど重い。
例え本人たちが許そうとも、国や組織が長と奉る者をそんな言われ方をされていると知っては黙って置けなくなることもある。
まぁ、もちろん彼女にもそれなりの分別はある。
使うべきところでは敬称を使う。
「だいたいスティアロウ。お前は娯楽というものを知らなすぎる。
カールレオンなんか遊ぶ方が大変で勉強のかけらもしてないぞ?」
「いや、それはなんとかせよ。
後継者候補であろう?」
かなり深刻に言うもやっぱりスルーし。
「遊ぶにしたってじじむさい将棋なんかしないで、もっと遊べよってことだな」
「むぅ」
そもそも『遊ぶ』という言葉に少女は実感を持たない。
彼女にとって年頃の娘がやることといえば礼儀作法や踊りという認識なのだから仕方ない。
人生の大半は王女として暮らしていたのだから無理もない。
「『遊び』なぞ知らぬし、今更嫌々やったところで本末転倒じゃろうて」
そもそも運動全般が大嫌いな彼女に一般的な子供の遊びをしろと言う方が無茶かもしれない。
かといって花畑で冠を作って笑い合う姿もなかなか想像できない。
「なぁ、スティアロウ」
「よいから離せ!」
むしろ嬉々としてがっちり捕縛しながら
「無邪気と言う言葉を何所に置いてきたんだ?」
「余計なお世話じゃ!」
そんなものは身に覚えが無かった。
強いて言うならば的確な回答は一つだろう。
───────400年前に。
ティアの生まれ育った国、ファルスアレンは特殊な結界に国を覆い、年中温暖な気候を維持していた。
そのためか湯に浸かるという風習を持ち合わせていない。
「むー」
自分の経営する宿に温泉などという酔狂なものを持つ木蘭に突き合わされれば大抵逆上せるわけで、今も長い髪を花のように広げて天井をうすらぼんやり眺めていた。
「というか、湯治なら別に宿でよいでないか」
無論その発言は愚痴でしかなく、本来の目的も見えてはいる。
きっと木蘭の不在はアイリンの闇を白日へと誘い出すきっかけとなっているだろう。
要は餌をとられる前にその獲物に槍を突き立てられるか、だ。
「公には……否、クーアニックには悪い事をしたかの」
恐らく巻き起こるのは王を立てる者の策謀。
正しくは木蘭の派閥でなく不利益を被っている連中だろう。
正確には不利益を被っていると思い込んでいる、もしくは勝手に不利益を背負い込んだ連中である。
木蘭の性格上、自分から無意味な喧嘩を吹っかけるような事はしない。
金や領地は彼女的には余計なほどあり、むしろ管理が面倒だと言い放つ始末である。
だが、彼女の前で興味を引くような行為は良くない。
まるで猫のように目の前で蠢く何かを見つければ飛び掛り仕留めてしまう。
つまりは自業自得という言葉の意味を知らない愚か者の集まりということか。
そんな者に擁立される王も悲惨と言えなくもないが、幸い王は賢明である。
否──────
「賢明であった、かもしれぬの」
あえて過去形で言い直し、自嘲。
賢明なる愚者。
その言葉はまさに自嘲。
そう思うは自分ばかりで滑稽に踊る人形に成り下がる。
気付いた時には何もかもが手遅れだった。
「……っく」
途端に思考は過去へと呑まれる。
怨嗟の声が聞こえる。
その罪を咎め続ける。
永遠の糾弾。絶え間ない嘆きの共鳴。
如何なる言葉も如何なる償いも400年という過去まで届きはしない。
だから空白の時間は嫌いだ。
『今』であっても彼女の大半は遠き過去にある。
無心に至れぬ心は容赦なく映像を結ぶ、ありもしない痛みを押し付ける。自己嫌悪、自己満足。痛む事で己を許そうとする浅ましい現象。
東方風の天井に手を伸ばす。
絡む幻視は男の癖に白く細く、肩から先を結ばない。
思い出そうとせずに思い出せるその相貌を痛みの中で思い出すのは余りにも愚かだと笑う。
口の端を引き攣らせるに終る不恰好な形に。
現実には400年。
自身にはほんの1年前の出来事。
それは女としては若く、若すぎる故に強烈で捨てる事ができない想い。
運命が違えば未だなお強く求めたであろうその姿を忘れられるほど器用な生き方のできる娘ではない。
だから、思考に没頭することを、思案に明け暮れることを良しと想う。
少なくともその間は、懺悔を装う偽装を感じずに済むから。
ぎちりと心臓が軋み、無面目が歪む。
悔恨も懺悔も、死者に届く事はない。
「どうかしましたか?」
……
気配は突然。
東方風のこの建物内でどんなに気配を殺そうと無意味に足音は響く。
それが虫の声しか聞こぬ静謐に満ちた場所ならなおさらだろう。
そんなことはどうでも良かった。
咄嗟に対応しようとして動けない。
『そのために』刷り込んだ深層催眠が その命令をキャンセル。
「お嬢さん?」
喉が渇く。
汗が噴出し、心臓が緊張を呑んで暴れる。
咄嗟の行為全てをキャンセルして、少女はゆっくりと立ち上がる。
そうして、自身を見詰める瞳に相対する。
柔らかな陽光を返す金の髪。
長身に整った顔立ち。しかし決して脆そうなイメージは付随せず剣のようなしなやかな強さがある。
問答するのが馬鹿馬鹿しくなるほど、完璧な美青年が不思議そうに少女を見遣る。
「何故……貴様が居る……」
ありとあらゆる行為は意味をなさない。
言葉が脳裏を走り自戒を促す。
「何故って……ああ、そうだ」
対照的に朗らかな笑みを浮かべる青年は苦笑に転じ
「僕の姿はあなたの嫌いな人を写し取ったみたいですね」
強張る表情に僅かな戸惑いと疑問を滲ませ睨む眼光は衰えない。
「申し訳ありません。あなたが一番近くにいたもので、影響されました」
青年の語る言葉を思考のどこかで反芻。
「ぬしは……何者じゃ?」
「初めまして。僕は────です」
人の口からは決して発音できぬ音が名として流れる。
その小さな戸惑いを察知してか、
「この世界の言葉に直すと『調達者』というところでしょうか」
と追言。
「失礼ですが、あなたの記憶の中の姿を勝手にお借りしました」
思い浮かんだのはドッペルゲンガーという単語。
誰かの姿を真似する異形。
「…… つまりぬしは……あやつではないということかえ?」
「あやつがどやつかは存じませんが、違います。
僕は『世界渡り』の1存在で今回この世界で『調達者』を命じられた者です」
常人らしからぬ説明に少女は3秒だけ思案顔になり、
「わかった。で、わしに何の用じゃ?」
と続きを促す。
「わかったのですか……普通は訝しげに見られるものなのですが」
彼は意外そうにしながらも、
「いや、話が早くて助かります」
と微笑む。
「あと、質問への回答ですが、言った通り僕は次の世界へ渡るための補給に来ました。
ですからあなたへの用件は特にありません」
ただ僕が顕現した場所にあなたがいて、気になっただけです」
警戒を含む眼差しが別の意味で硬直する。
別人とわかると今度はその容姿が、むしろそれゆえに緩んだ警戒心が隙となる。
きっと普段の彼女を知る者なら目を疑うほど頬を染めて視線を逸らす。
「なれば居ね。
そ、その顔は不愉快じゃ」
「はい、そうすることにしましょう」
あっさりと同意の言葉を返すが、周囲を見渡すと思い出したかのように言葉を足す。
「そのためにも、一つ御願いがあるのです」
「……なんじゃ」
目をあわせられない。
なるべく言葉に不機嫌を装う。
「できれば『力』がある場所を教えていただきたいのです」
彼は柔らかな微笑を浮かべながら振り返る。
「『力』……?」
「はい。僕たちは立ち寄った世界で『力』を分けていただき、次の世界へ渡るんです」
『調達者』の言う『力』とはつまり『マナ』などと言われるものらしい。
「世界によっては『力』……マナ、でしたね。
それが殆ど存在しない世界もあります。
だから、こう言った『力』が潤沢な世界では少し多めにいただいていくんです。
もちろん世界に影響するような量はいただきませんが」
笑みのまま語られる言葉はスケールこそ超常的であるが、内容は生物的だ。
要は渡り鳥である。
「ですが、この世界はとても特殊で1度出入りした者は二度と入れないのです。
けれども他世界に類を見ないほどの『力』の噴出口があるので、今回は私一人が『調達』に来たんです」
「ふむ」
「そのような理由で、僕は以前この世界に下りた『調達者』に指示された座標に下りてきました」
言いながら首をめぐらせ、やがて不思議そうにティアロットを見詰める。
「わしは知らぬ。
この辺りにも疎いからの」
視線を合わせようとしない少女は気付かない。
すっと伸びた手が小さな肩を掴み、ずいっと近づけられた顔に少女は反射的に手を前に突き出す。
「っ!?」
どん、と衝撃。
無詠唱近接魔法『掌破』が青年の腹を容赦なく打ち抜く。
常人であれば3人くらいセットで穴をあけそうなそれに一番驚いたのは少女自身。
『かの者に挑めば必ず敗北す。けれども防御としての攻撃はその例に従わない』
眠っていた簡易催眠が発した意識外からの指令。
確実に殺したと思う。
障子を突き破って庭に転がった男の体に恐る恐る視線をやれば、ちょうど起き上がった彼の視線とぶつかり合う。
「凄い力ですね」
転がったせいか、土ぼこりに塗れてはいるが魔法の痕は一切ない。
「す、すまぬ。大丈夫かえ?」
「はい。ありがとうございます。
ですが全然足りませんね」
礼と続く言葉に訝しさを覚え、そして納得。
「もしや、今のを食ったのかえ?」
「ええ、凄いですね。
一瞬でこんなに力を集められるなんて」
素直に感心されると『攻撃』した身には少々辛い。
「『掌破』でよかったわ」
純魔力を放出しその勢いだけで相手を吹き飛ばす『発剄』もどきの魔術。それゆれに集めるべき『力』として吸収したらしい。
「どうしたスティアロウ!」
浴衣姿の木蘭が剣を片手に駆けつけてくるのが分かる。
いろいろと面倒であるが、まずは『あの事実』だけはどうにか隠蔽しなければならない。
人知れず溜息をつくと、静かに青年を睥睨した。
「ふむ」
ティアよりも異界の者を見慣れている木蘭もまた別段驚いた様子はない。
「しかし、この辺りにそういう場所は聞いた事がないな。
それはそうと、スティアロウ」
「なんじゃ?」
「何故攻撃した?」
妙なところはやはり鋭い。
ちなみに青年のことは掻い摘んで説明しただけである。
「お前の事だ。
攻撃すると決めた以上、何らかの根拠があるだろう?」
「む……」
なんと答えるべきか思考をめぐらせ、その間が木蘭の興味を惹く。
「ああ、私が嫌いな人の姿を借りたからでしょう」
余計な事をと思いながら表情には出さない。言うだけやぶへびだ。
「ふぅん。それはお前の本来の姿ではないのか?」
「調達をしやすくするために世界ごとに姿を変え、意思疎通の手段を獲得します。
争いによって『力』を使わないように、極力友好的に採取できるようにしています」
「ほぅ。
それでスティアロウの記憶を読んだのか?」
「はい」
ぎりと、奥歯が軋む音が少女の中で響く。
「どうした? スティアロウ?」
もちろんそんな仕草を見逃す木蘭ではない。楽しそうに笑い、視線を青年へ。
「私の知る限りお前のような男はスティアロウの周りにいなかったな」
「ギアクラフト、という名前のようです」
「ぬしらっ!
人の過去を詮索せんと、さっさと用件をすませぬか」
不機嫌が表立ち、声が強張る。
ギアクラフト─────その名前が心臓を茨のつたで縛り上げる。
「まぁ、その辺りはスティアロウが居ない時に聞こう」
「聞くな!」
「で、まぁ、本題に戻すが」
声をあっさり無視。
「この辺りにめぼしい神殿やらなんやらはないぞ」
ざっと広げた簡易地図。
無論国境付近であるこの場所の詳細地図など世間に出回っているわけがないのだが、これは木蘭の手書きである。
「最寄の神殿でここだが……別にたいした事のない地方神殿だしな」
指差すのはここから数十キロ離れた小さな町。
古来より力の噴出す場所は聖地や魔境などと呼ばれ、遺跡や神殿が建てられてきた。
逆に言えばそのような場所に彼の目的地がある可能性が高い。
「遺跡なんかも聞いたことがない。
むしろそう言うデータはスティアロウのほうが詳しいだろう?」
「むぅ。
少なくともこの辺りに遺跡は聞かぬな」
各地のめぼしい遺跡の情報を思い返して小首を傾げる。
世界最大レベルの遺跡であれば恐らく今は無き帝国の首都であろうが、そこを目的にしているのであれば見当違いも甚だしい。
「座標を間違えたんじゃないのか?」
「それはまずありません」
言いながら視線をティアへ。まじまじと見て
「その座標はそこですから」
「は?」
やはり反射的に顔を背けそうになったティアだが、突拍子のなさに逆に見上げる。
「いえ、先ほど吹き飛ばされた時にですね、それを確認しようと思ったのです」
「ほぉ?」
別の興味を含む声は聞かなかったことにする。
「わしには覚えなぞない。
もしや杖のことかえ?」
世界にいくつとない強力な補助術具である彼女の杖だが、あれは増幅器であって源泉ではない。
「いえ、間違いなくあなたの中に座標があります」
「中?」
「はい。
以前訪れた『調達者』の目印は間違いなくあなたの中にあります」
「スティアロウ。
拾い食いはよくないと思うぞ?」
「言うと思ったわ」
溜息一つ、覚悟と共に表情を硬く青年を見据える。
「それは何時の話じゃ?」
「いつ、ですか?」
「その、目印をつけたのは、じゃ」
「ああ」
と呟き、思考。
「こちらの流れで430周期前です」
空気は止まる。木蘭はティアの言葉を待ち、ティアは脳裏に浮かんだある施設に青年の顔を見返す。
「『神殿』は、もうないはずじゃ」
ただそれだけを吐き、詰まるような瞳で遠くを見遣る。
「施設の名称はデータにありませんが、あなたの予測している施設で正しいかと。
高次元定義の無限分化による無限力量観測施設。
普く世界において類を見ないほど高濃度の『力』を生む施設です」
「意味がわからん」
どんと言い放つ木蘭に苦笑する余裕もない。
「大規模な賢者の石とでも思えばよい。
要は無尽蔵に魔力が湧き出る施設じゃよ」
「ありえない話だな」
しかし実在を知る少女はかぶりをふる。
「まぁ、ありなしは今問題にない。
わしとその座標とやらが同一というのは間違いないのかえ?」
重い空気を纏った問いに青年は頷きを以って返答する。
「事の次第は想像ついたわ。
じゃが、なればこそどうにもならぬ。
その場所は二度と世に出さぬつもりじゃ。
諦めよ」
言い放ち腰を挙げたティアは二人の視線を背に受けながらふわり垣根の向こうへと姿を消した。
つまり、あの言葉の意味は、そういうことなのだろう。
地熱のせいか、この地方では滅多に見られない花畑が広がる中、花のような衣装を纏う少女は杖に腰掛けたまま虚ろに空を見上げる。
脳裏に延々と繰り返す『最後の時』
不完全な原理魔法。それをかの『魔王』がどう捻じ曲げたのか。その答えは遠い過去に風化していると思っていた。
思い込もうとしていた。
400年前、『神殿』に打ち込まれた目印。
自身にあるという、失われた場所。
僕が、君が定義しなかったこの世界の『新しい姿』を決められると言うことを……
全てが崩壊するはずだった世界から、この現に舞い戻った自分がいる。
スティアロウ・メリル・ファルスアレンは幻の国と共に過去も今も未来も含め全て消滅していなければならない。
だが、ここでこうして、生きている。動いている。
スティアロウとして立ち戻った時、まず気付くべきであった事実。
それを今の今まで考えなかった理由は
「楽しかったから、じゃろうな」
何も知らないティアロットがくれた世界。
スティアロウ・メリル・ファルスアレン────王女という名の国の道具でない自分。
自分が本当に求めていた世界が余りにも心地よかったのだ。
たとえ女で在ろうとも、その力さえ信念さえ確固として抱けば、望む道を歩ける世界が。
「……あやつが定義した『世界』。
その材料はファルスアレンそのもの。
そして造られた世界はこの世界にあらず」
熱を孕みながらも冷気を滑らせる風に果てを振り返る。
「そして神殿の根源があやつであり、それの位置を示す楔がわしを指し示すと言うであらば間違いはあるまい。
自分に言い聞かせるように、呟く言葉は花園に消える。
予想されるべき結果は本来一つ。
この世界は彼女の属していた世界でなく、ファルスアレンだったものが組み直された鏡の世界。
だが、その推論は一つの事実に打ち砕かれる。
「即ち────
造られた『世界』が私……」
世界に定型はない。
定義者が全てを決め、それが世界となる。
『世界』の形を人とし、この『世界』を『人』 ────スティアロウ・メリル・ファルスアレンと定義する。
その『世界』は『人』である故にこの『世界』に『人』として存在しうる。
「理由がわからない……。
私の記憶を奪い、眠らせる理由はなに?」
時喰らいの薔薇の棺で眠った400年。どこまでが造られた世界かを考える。
あの存在が想像の通りであれば、あの設備を誰が用意したか────
「そういうことか……」
たった一人、思い当たる人物がいた。
そして、正しければ彼女は必ず─────
呪を舌先に転がせ、瞳に宿る輝きがある一点を見据える。
「ミスカ、あなたなのね」
「はわぁ。
お嬢様、よい推測ですわぁ」
草が微かに鳴いた。
正面に舞い降りた少女は微笑みのまま優雅な礼を見せる。
「お久しぶりです、お嬢様」
曇りない笑顔。
予想していたとはいえ沸き起こる怒りが少女の足を一歩前へと進ませる。
「お嬢様。私に質問があるのでは?」
制する言葉に視線だけが攻撃の色を残し、それすら柔らかく受け止めた女性は微笑を崩さない。
「ミスカ……あなたは一体何をしたの……!」
敵愾心を内包し、揚がる語気を意とも介さない。
「私は契約に従い、あの方の依頼をこなしただけですわぁ」
「依頼って、何なの……」
「まず、あなたを守ることです。
目覚めるまで薔薇の棺で眠りを与え、目覚めてその経過を見守る事。
そしてあなたへ強き絶望を与えることですわぁ」
「……絶望……」
再燃する怒りはすぐに疑問へと霧散する。
「はい。
契約により私は操魔魔術をいただきました。
代償として、私は依頼された通りのことを行いました。
契約は先日の一件を持ちまして果たされました」
この世界に明確な立ち位置を持たない存在において契約は『この世界に止まるための楔』である。
その意味は大きい。
「あれの目的を、あなたは知っているの?」
「お嬢様はまっすぐですねぇ」
慈母の微笑を浮かべて放たれた言葉は少女の喉を詰まらせる。
「ミスカっ!」
「うふふ。
お嬢様は私をどんなに恨んでも、自身のありかたを曲げません。
照れることではありませんよ?」
小さい頃からの自分を知り、そして戦略の師でもある少女へ挑むにはやはり分が悪い。
「お嬢様のその意志は立派です。
師としては誇らしく思いますわ」
「だ、黙れっ!」
そして、どんなに恨んでも、憎んでも、スティアロウにとってミスカという人物は心許せる数少ない一人に変わりない。
時経て、大切だった物の殆どを失った今では言うまでもない。
頬に走る朱は証拠のように白い肌に灯る。
親子の情愛にも近い感傷は少女の敵意を剥ぎ取っていく。
やがて、少女は吐息を吐き、全ての思いを流し、ただ智者としての静謐に満ちた瞳を以って眼前の魔に問う。
「……ミスカ。
あなたの契約内容を教えて」
ほんの僅かな間は驚きか。
それでも笑みは崩れず、更に濃くするように小さな賢者と向かい合う。
「結構ですよ。私が得るのは操魔魔法。
これに関してはお嬢様もご存知と思いますので説明は不要ですね。
代償は、まずお嬢様の教育です。
主に『戦争』を教える事です。
そして2つ目はあの方をお嬢様に引き合わせること」
思い出す。
そう、あの出会いはミスカが導いた。
「そして三つ目はお嬢様を3度絶望へ追いやる事ですわ」
『三つ目』に眉が跳ね、訝しげに歪められる。
「どういう意味?」
「それは機会がありましたら、直接お伺いください」
突発的に問い返す言葉には苦笑と共に意味無き助言。
少女は顔を顰めて、
「……御免だわ……」
僅かな────ほんの僅かな間に含まれる迷いを含ませた意志を吐く。
それを彼女は見過ごさない。
そうして形作られるのは苦笑という意。
その小さな魔術師は、それでもあの存在を愛していると感じる。
それがどんなに歪んだ、偽りだらけの壊れた愛であっても、自身の数千分の一も存在していない少女は熱を内包し、先を求めている。
その禁忌ゆえに、痛みで思いを殺し続けている。
心と言う部位に宿るものは怜憫か、それとも崇敬か。
この世界にあり、人間のふりをして過ごした500年。
人と交わり子を為してみたりもした。
けれどもどんなものよりもこの少女に惹かれていると確信する。
「あの方は……」
────ただ純粋に─────
その言葉は思いの中で紡がれ、耳朶を震わすこともない。
「ミスカ、改めて問うわ」
気付けば凛とした瞳がミスカをまっすぐ捉えていた。
この口の端が笑みの形に引き攣るのを楽しく思う。
これだ、と思う。
これか、と思う。
だから明朗に返事を返す。
「はい、お嬢様」
「あなたは私の敵?」
力強い眼差しの奥に揺れる感情が見える。請うような弱い幼子の色が走る。
「いえ」
迷う必要も要らない。
明朗な返答に僅かな表情の変化もなく少女は問いに思いを継ぐ。
「私個人はお嬢様の味方です。
自由意志により、私はお嬢様と共にありたいと思います」
「そう……」
エメラルドの瞳が僅かに細められる。
それは無理に鉄面皮を貫こうとした末の笑みの形。
胸の奥底から湧き上がる感情は様々。
纏めれば恐らく歓喜。
「教えて。
あれは最後の瞬間。何をしたの?」
不思議と思う。
本来命も感情もない自分が喜びを感じていることを
「全てを知るわけではありませんが、あの方はお嬢様を試そうとしていると推測します」
「……私の、何を?」
それは何に起因するかを思い、問いの答えとして舌に乗せる。
「輝きを」
僅かに浮かぶ疑問符を今は掃い、唇は問いを紡ぐ。
「あれは何所へ行ったの?」
「お嬢様の想像の通りです。
あの瞬間。
ファルスアレンは消滅しました。
残ったのは何もない原野のみです。
私は予めの命令に従い、神殿跡で眠るお嬢様を遺跡へと安置しました」
納得と、そして失意。
「……あの結果は予想されていたのね」
「はい。あの方をどうにかするのはやはり原理魔法の他ありません。
そしてあの方の概念に抵触しない手段はさらに限られます」
その通りだと、苦々しげに首肯。
「今のお嬢様が以前のお嬢様と同一存在であるか否かは観測基準によると思われます。
物理的な観点からすればお嬢様は以前のお嬢様と変化はありません」
含む言い回しに挟む言葉はない。
「今のお嬢様が何で出来ているかといえば、ファルスアレンです。
ですが原理魔法の性質上、すでにお嬢様を形成しているものはファルスアレンと言う国ではなく、やはりスティアロウ・メリル・ファルスアレンという人間でしょう」
それは正しく、しかし間違いだとティアロットは確信していた。
「確かに私はスティアロウ・メリル・ファルスアレンよ。
でも、恐らく……」
握り締めた小さな手が薄い胸の前で小刻みに震える。
まるで祈るように目を閉じ、じっと己が抱く闇の中で言葉を巡らせる。
ゆうに20秒を待ち、それは覚悟の言葉と共に解き放つ。
「私はスティアロウでありながら、揺り籠なのね」
そう。あの瞬間ファルスアレンにあり、そして生み出されたのがこの少女一人であれば、存在を前提としてそれは少女の中にある。
「ファルスアレンの全てが『私』になったのであれば、あの存在は私の前に現れなかった。
目印は神殿に穿たれ、神殿こそ『あれ』そのものなのでしょ?」
憂いを孕む問いに、ミスカはただ頭を垂れる。
「詳細は私にも。
しかし、お嬢様の推論は私のと同じです。
あの方が無為にあなたに溶け消える意味がありません、必ずあの方はあなたに出会うための仕掛けを施しているでしょう」
「……ミスカ」
呼ぶ言葉と沈黙。
疑問を首の傾きに主を見れば僅かな惑いが垣間見える。
「あなたはアレとどういう関係にあるの?」
理解。故に笑み。
「嫉妬ですか?」
「ミスカっ!!」
荒げた声に自身が一番驚きながら、バツの悪そうに視線を逸らす。
「あの方と私は本来同位です。
ですが、この世界という法則の元、あの方の『無敵』はとても強力でした」
「知り合いだった……ということ?」
「いいえ」
かぶりを振り、苦笑。
「同じ世界にあったもの、と言うべきでしょうか。
この世界の法則に対して強力であったのはあちらでした。
故にあの方が依頼人となり私が代償を得て承ることになりました」
そこにミスカからティアへの害意は存在しない。
「そう……」
張り詰めた空気を押し流すように、ゆっくりと吐いた吐息がゆるりと流れた風に消える。
僅かに伏せた瞳が再び同じ高さに戻ってきた時、少女には穏やかな微笑みが灯っていた。
「わかった。
ありがとう」
「礼は不本意ですわぁ。
私が力を求め、その代償にお嬢様を害した事実はあの方の責と押し付けられません」
少女は小さな一歩で踏み出し、そして手を取る。
「あなたが受けなければ、別の者が行った。
それだけのことだから。
そしてミスカ。
あなただから幸いだったと信じていいかしら?」
本来持ち得ぬ体が震える。
『意味』でしかない己の存在が感情の震えを募らせる。
もしかするとこの少女は『概念魔族』たる私たちにとても強力なカリスマを持っているのかもしれない。
だから私も、あの方も強く惹かれているのかもしれない。
そう考えて、どうでもいいと思う。
この世界の暦では考えられない、時間を超越した太古。
一つの世界は解放され、自分たちは数多の世界に散った。
ある者はある世界の概念として収まり、ある者は消滅し、ある者は変容し、そしてある者は顕現した。
世界の数は無限である。
なぜならば世界は無限に世界を生み続ける。
最上たる次元より始まり最下なる次元に至るまで世界は生まれ、その差は無限。
その確率も何もない世界の中で、ましてや時間などという概念のある世界でこの少女に幸いと思える心と共に出会えた事を、
「私は嬉しいですわぁ」
握られた手を、とても小さな手をしっかりと握り返し、ミスカという『意味』は微笑む。