第7話「生を真似て無を創る」
部屋の窓から夜の東京を見下ろした樋口は、手に持ったグラスに注がれたワインを口に流し込む。
部屋の隅に置かれた蓄音器から流れる音楽が、ぼんやりと照らされた部屋を包み込む。
「何か良いことでもあったのか?」
部屋の奥の暗闇から姿を現した人物がそう言う。その輪郭は鎧をまとっているようだった。
「別に。少し気分が良いだけだ。そういうお前も気分がよさそうだが?」
「そうか?俺はいつも通りだと思うが」
その人影が首を傾げる。
「例の件はどうなっているのかな?」
「安心しろ。順調に進んでいるよ。……少なくとも今はな」
影の中にうっすら浮かび上がったシルエットが樋口に背を向ける。
「だからもう少し時間をかけるさ。僅か一ミリの誤差を整えるために」
そう言い残すと、シルエットは影の中に消えていった。
樋口は静かに笑い、グラスを揺らす。
「流石だな」
ワインの液面に映った月が歪んだ。
◇ ◇ ◇
東京駅の地下五階、総武線のホーム。スマホを弄る宝条と、目を閉じて静かにしている影山が横に並んで電車を待っていた。ホームには他にも電車を待つ人が多く居る。
「お母さん、電車まだ?」
離れた場所にいる小さな子供が手を繋いだ母親にそう尋ねている。
宝条が小さくあくびをする。
「影山ー」
「電車ならまだだぞ」
「起きてるか確認したかっただけだよ」
宝条の口調が少し強くなる。
「立ったまま寝るやつが何処に居る」
「お前だったら有り得る」
「俺をなんだと思ってるんだ」
「立ったまま寝る奴」
「殴るぞ」
影山が静かな怒りを込めてそう言うと、閉じていた目を開く。
「少し考え事をしていた」
「今回の仕事の?」
「いや、工藤さんのことで」
「葵だぁ?」
宝条があからさまに嫌そうな顔をする。
「仕事で都外に行くことを伝えたら―――」
「え、千葉行くの?お土産よろしくね~!」
「―――と言われた」
「あー……俺じゃなくて良かった」
「あの人出身千葉じゃなかったか?」
「知らね。興味もねぇ。そういうの一ノ瀬詳しそうだけど。そういえば一ノ瀬は?」
「バイトらしい」
「なんの?」
「さぁ?ビラ配りか飲食店、それか―――」
その時、ホーム全体を何かが通り過ぎたように空気が揺れる。影山の視線が左右に動く。
「あ、どうした?」
「今、何かが……」
すると、離れた場所で子供が倒れる。子供の母親がしゃがんで子供の身体を揺すっていると、母親もホームに倒れこむ。周りにいた他の人達が倒れた親子に近寄っていく。
「なんだ?貧血か?」
「いや、これは……」
影山が親子の倒れている場所を暫く凝視していると、黄緑色の煙がうっすら漂っているのに気付く。ホーム全体を見渡すと、床一面を煙が覆い尽くしており、少しずつ上に上がってきている。
「海斗、上に行くぞ」
「は?電車は?」
「いいから行くぞ」
影山の手が宝条の首の後ろの襟を掴んで強引に引っ張っていき、エスカレーターで地下四階に上がる。影山の足元から僅かに湧き出した霧の中から骨の腕が現れる。影山はその手に握られたガスマスクを取ると、一つを宝条に渡す。
「一応これを付けておけ」
「はぁ?」
「さっきの親子みたいになりたくなければ付けろ」
「……」
宝条は渋々口元にガスマスクを付ける。同じくガスマスクを付けた影山はポケットからスマホを取り出して画面を睨む。スマホの画面には「圏外」という文字が表示されている。影山は短く舌打ちをし、スマホを持った手をポケットに突っ込む。
「海斗」
「あ?」
「何もこれが初めてというわけじゃない。もう気付いてるだろ」
「……」
「悪いが、認める以外の選択肢は無いぞ。“東京駅がノアだということを”」
「……はぁ」
宝条は首の後ろを右手で押さえて溜め息をつく。
「根拠は?」
「ない。だが、強いて言えば勘だ」
「よし。じゃあ間違いない」
宝条の目つきが変わる。
「優先すべきは外に出ること。核の破壊は二の次だ」
◇ ◇ ◇
「あれ?総武線のホームって何処から行くんだっけ?」
東京駅の地下一階を、一ノ瀬はきょろきょろしながら迷っていた。
「急がないと先輩達電車に乗っちゃう」
そう言いながら肩に提げた鞄に触れる。一ノ瀬は歩く速さを上げて先に進んでいく。
しばらく歩いていくと、少しずつ一ノ瀬の歩く速さが遅くなっていき、やがて立ち止まる。
「……あれ?」
周りを見回してから歩いてきた道を振り返る。
「此処、さっきも通らなかったっけ?」
少し考え込んでから、小さく息をつく。
「気のせいか」
そう言うと、一ノ瀬は再び歩き出した。
―――数分後。
「……」
呆然と立ち尽くした一ノ瀬の首筋を一筋の汗が伝う。
一ノ瀬が立っている場所は、間違いなく何度も通った場所だった。何度も見た店、何度も踏んだ床、何度も嗅いだ匂い。これらの情報が一ノ瀬の頭の中に流れ込んでくる。
「気のせいじゃない……。階段もエスカレーターも使ったのに……」
ふと、天井を見上げた一ノ瀬は身体を硬直させる。その視線は一点に注がれていた。
「……え?」
◇ ◇ ◇
「……」
地下三階、影山と宝条は立ち尽くしていた。
「影山」
「なんだ?」
「道迷ったろ」
「迷ってない」
「いや迷ってるだろ」
「迷ってない」
影山がきっぱりと言い切ると、宝条は呆れたように溜め息をつく。
「しゃーねぇな。ほら、ついてこい」
そう言って宝条がずかずかと歩き始め、影山もその後をついていく。
エスカレーターを歩いて上り、数分歩いた後、宝条は足を止める。其処はついさっきまで居た場所と酷似……いや、全く同じ場所だった。
「いや、こっちからだったかもしれない」
宝条が再び歩き出し、影山がその後に続く。数分後、宝条は立ち止まって深呼吸をする。また同じ場所に戻ってきてしまっていた。
「いや、やっぱこっちが」
「待て」
影山がまたまた歩き出そうとした宝条の首の後ろの襟を掴む。
「いや!道は絶対合ってる筈なんだよ!」
「それはどうでもいい」
「どうでも……ッ」
「いいから見ろ」
影山の視線の先にある柱には、何かが切り裂いたような傷跡が数本付いていた。
「此処を通る度に能力で傷を付けていた」
「通る度?」
「俺が3回、お前が2回だ。駅の能力なのか、俺達は何度も此処を通っている。だから俺は迷ってないし、むしろ検証していたんだが、何か言うことは?」
「う、悪かったな……」
宝条がそう言うと、影山は言葉を続ける。
「地下四階から地下三階までは何事も無く来れた。だが地下二階に上がろうとすると同じ場所に戻ってくる。多分、地下二階に何か原因があるのかもしれない。そして、その原因は恐らく……」
「此処の核だろ?」
宝条は大きく伸びをしながら影山の言葉を遮る。
「あぁ。核はノアの中心にある。東京駅は中二階を除いて地上二階、地下五階の七階構造。現状を踏まえても、核は地下二階の中心、あるいはその周辺にある可能性が高い」
「じゃあ、なんとかして上に上がんねぇとな。しっかし、どうしたもんかなぁ……」
―――ピチャン。
突然、水滴が落ちる音が響く。影山と宝条は同時に振り返り、視線を天井に上げる。
天井には白く濁った球体が、植物の根のようなものに絡まった状態でぶら下がっている。球体の表面は濡れていて、一定の間隔で液体が滴り、床に小さな水溜りを作っている。
「……は?」
すると、球体がドクンと膨張し、絡まっていた根が緩くなる。球体は重力に従って床に落ちると、ぶくぶくと形状を変化させていく。縦に伸び、影山達の身長と同じ程までになる。真ん中から下は二つに割れ、物体の頂点は三つに割れる。その見た目は、人間に酷似していた。
化け物の、人間でいう顔に当たる場所には目が縦に三つ並び、縦に付いた口が痙攣しながら開く。
「しごと、まだ、まだ、おわら、せせせせせせ」
閉じていた三つの目が同時に開く。
「―――ッ」
影山と宝条は言葉を失う。次の瞬間、影山の足元から霧が噴き出し、その中から現れた骨の腕が化け物を貫く。
「おい影山!」
辺りを見回した宝条が叫ぶ。至る所に同様の球体が天井からぶら下がっており、次々と球体が床に落ち、人間の形に変わっていく。顔のパーツの配置や数は一体一体異なっている。
「なんだぁ?今度はバケモンかよ!」
影山の骨の腕に貫かれた生物が骨を掴み、首を不気味に傾ける。
「影山、一旦引いた方が……!」
「いや、むやみに動くのはかえって危険だ」
「じゃあ……」
宝条が嫌そうな顔をする。影山の足元からさらに霧が噴き出すと、数本の骨の腕が現れる。
「此処で全部潰す」
骨の腕はよろめきながら小走りで影山に迫ってくる三体の化け物に向かっていく。二体の身体を貫き、残りの一体を掴んで持ち上げる。背後から化け物が二体飛び掛かるが、宝条の撃った銃弾が化け物の後頭部に命中する。
宝条の手の中から拳銃がぱっと消えると、襲い掛かってきた化け物の手首を掴み、合気道で投げ飛ばす。再び右手に現れた拳銃を握ると、他の化け物に向かって撃つ。足元に倒れた化け物が起き上がろうとするが、その頭にも銃弾を撃ち込む。
すると、骨の腕に持ち上げられた化け物が首を小刻みに震わせながら言葉を発する。
「お、おか……おかぁ、さん……」
影山は化け物を見上げ、その目を細めた。
「でんしゃ……ま、まだ?」
「電車……?」
影山が訝しみながら呟く。しばらくして、影山の脳内で記憶が蘇る。
―――『お母さん、電車まだ?』
化け物が口にした言葉は、地下五階の総武線ホームで子供が母親に対して発した言葉と同じだった。
「海斗」
「あ?」
化け物の首を腕で締めあげていた宝条が振り返る。
「犠牲を出す方法と出さない方法、どっちが良い?」
「後者」
「なら銃は使うな。使っても急所は外せ。此奴ら、恐らく煙を吸った人間が元になっている」
「じゃあ、此奴ら殺したら元になった奴も死ぬかもしれないって?」
「あくまで可能性の話だ。俺はどっちでも良いが、お前は違うだろ」
「そりゃあ……なッ!」
宝条が首を絞めていた化け物を蹴り飛ばす。骨の腕が化け物達を一斉に放り捨てる。
「だったら尚更核を潰さねぇとな」
その時だった。宝条の頭上の天井から例の根が生え、新たな化け物が姿を現した。その口は頭の半分を占めており、人の顔は簡単に丸呑みできるであろう程だ。化け物はその口を大きく開き、根の隙間から宝条に向かって飛び掛かろうとした。
「……!海斗!」
影山が声を上げる。だが、化け物の開いた口は既に宝条に迫っていた。化け物の口が宝条の顔に嚙みつこうとした、その時だった。
「宝条さんごめんなさい!」
全速力で走ってきた一ノ瀬が宝条を横から蹴り飛ばした。
「ごはッ!」
化け物の口は空を噛み、そのまま頭から床に落ちる。宝条を蹴り飛ばした一ノ瀬は受け身を取ると、深く深呼吸をした。
「……あ、宝条さん!」
慌てて横を向いた一ノ瀬は、隣にうつ伏せで伸びている宝条を見ると悲鳴を上げる。
「クソッ、あの白タイツめ、よくも宝条さんを……!」
「お前のせいだよアホノ瀬……」
宝条が腰を擦りながら身体を起こす。安心して息を漏らした一ノ瀬の顔の横を骨の腕が通り、一ノ瀬の後ろに居た化け物を突き飛ばす。
「一ノ瀬、なんで此処に居る?」
影山が周りを警戒しながら尋ねる。
「なんでって……てか、聞いてくださいよ!道に迷うわ、よく分かんない奴に追われるわで大変だったんですから!先輩達と合流できると思って必死で此処まで駆け下りてきたんですよ!」
「質問に答えろ。……待て、駆け下りてきた?」
「はい。地下一階から」
「地下二階を通ってきたのか?」
「え?そうだと思いますけど」
すると、影山は化け物の方を見ながら一ノ瀬の傍まで下がり、一ノ瀬の腕を掴んで立ち上がらせる。
「来た道は覚えてるな?」
「お、覚えてます……」
「よし。案内しろ」
「はい、分かりました……?」
理解が追い付かない様子で一ノ瀬が返事をする。
「おい海斗。早く立て」
そう言うと、影山は一ノ瀬の後を付いていく。
「少しは人を労われっての……」
ブツブツと文句を言いながら宝条は立ち上がり、すぐに二人の後を追う。三人は地下三階を駆け抜け、上に続く階段を上っていく。階段を登り切った先に広がっていたのは、先程までいた地下三階ではなく、地下二階の景色だった。
目の前には、天井まで届く程の高さの樹木に酷似したものが生えている。その樹木に張り巡らされた黄緑色の筋がどくどくと脈打っている。
「見つけた……!」
影山が急停止すると、その足元から黒い霧が噴き出し、三本の骨の腕が凄まじい勢いで伸びていく。骨の腕が樹木にぶつかると、フロア全体の空気が振動する。だが、樹木には傷一つ付いていない。
樹木の黄緑色の筋が一際強く脈打つ。樹木の周囲の天井、床、柱の壁から大量の木の根が一斉に現れ、絡まった白い球体がごろごろと床に落ちて転がる。たちまちその形を変化させ、化け物達の目が三人を捉える。
「うわ!いっぱい出てきた!?」
「下がってろ一ノ瀬」
一ノ瀬が数歩後退る。影山は骨の腕を戻すと、一ノ瀬の周囲を骨の腕で囲む。
「海斗。分かってるな?」
「安心しろ。今回が初めてじゃねぇ」
化け物達が一斉に向かってくる。
影山が目を大きく開いた。黒い霧が床一面に広がり、化け物達の足元を覆い尽くす。
「“朧月”―――“剣山”!」
霧の中から先端が鋭く尖り湾曲した大量の骨が一斉に現れ、化け物達の身体を貫き、その動きを止める。
「海斗!」
「分かってらぁ!」
宝条は化け物達の間を走り抜け、樹木に向かって突き進んでいく。樹木の目の前で動きを封じられていた化け物の肩を踏み台にして飛び上がる。
宝条の右手が樹木の枝を力強く握る。
「“宝石泥棒”!」
宝条の右手が淡い光を纏う。宝条の身体は飛び上がった勢いで宙に放り出される。その右手には、蒼く鈍い光を放つ石が握られている。
「影山!」
宝条は影山に向かって石を投げる。化け物達を貫いていた骨が一斉に消滅する。床一面に広がっていた霧が影山の足元に集まり、膨張する。影山は空中の石に向かって右手を伸ばす。
「“朧月”―――“突槍”!」
霧の中から槍のように尖った一本の骨が石に向かって飛んでいく。骨が石を貫くと、石は粉々に砕け散った。
すると、化け物達の身体はドロドロと溶けるように崩れ落ち、蒸発するように消滅した。床に飛び散った石の破片は一瞬で霧のように消える。
一ノ瀬の周りを囲んでいた骨の腕が消える。黒い霧は影山の影の中に吸い込まれていく。
「おい、結局普通にブッ刺してんじゃねぇかよ」
「安心しろ。急所は外した」
「そういう問題じゃねぇよ」
宝条は呆れたように溜め息をつく。
「それで、この後どうする?」
「核は破壊したから、駅の外に出られる筈だ。一応、この後樋口さんに今回の件を報告しに行く」
「じゃあ千葉行きは明日以降か。……チケット払い戻しできるかなぁ」
「窓口で日付と時間を変えればいいだろ。あと……」
影山の視線が一ノ瀬に向けられる。
「お前はなんで此処に来たんだ?」
「……あ、そうだった!」
すると一ノ瀬は鞄の中から巾着袋を二つ取り出す。
「先輩達が千葉行きの電車の中で食べる用のお弁当を作ってきたんです。ほら、お腹空くと思いまして」
「……前に俺の分はいらないと言った筈だが?」
「でも、先輩がちゃんとご飯食べてるのか心配なんですよ。だから今回はちゃんと食べてください」
一ノ瀬が影山に巾着袋を押し付け、影山が仕方なく受け取る。
「じゃあ、後で食べておく」
「はい!お願いします!」
一ノ瀬は嬉しそうな表情を顔に浮かべた。その表情には誇らしげな感情も籠っているようだった。
◇ ◇ ◇
三人の居る場所から離れたところにある壁の傍に、掌に乗る程の大きさの正方形の箱が置いてあった。箱は上下に開いていて、その中では小さな結晶のようなものがクルクルと不規則に回転している。
物陰から現れた手が、その箱を拾い上げた。その人物は全身をスクラップを堅めて作ったような鎧に包まていて、胸部には正面から見た蠍を模したような、紫色のエンブレムが埋め込まれている。エンブレムの蠍の尻尾は左肩に向かって伸びている。鎧を纏った人物が拾い上げた箱を両手で閉じると、箱が放っていた光が収まる。
「ノアの同時起動による相互干渉はなし、か。まぁ、思った通りだな」
その声は何重にも重なっているかのように独特な響き方をしていた。
「今日は検証だけするつもりだったが……」
マスク越しの視線が影山達に向けられる。
「思わぬ収穫もあったな」
マスクの下の顔がどのような表情をしているのかは分からないが、恐らく笑っているのだろう。鎧を纏った人物はそう言い残すと、物陰に消えていった。
◇ ◇ ◇
能力保有物質:東京駅
発生させた霧を吸い込んだ生物の意識を奪い、その情報を元に新たな生命を産み出すと予測されているが、詳細は不明である。