4 好きになった人は生徒
初めてクラスを受け持つことになって、すっごく緊張してたけど、そんなの全部吹っ飛ぶくらいのショックだった。
できるだけ自然に振る舞って過ごしたし、多分ちゃんとできてたと思うけど、まだドキドキが収まらない。
マンションに入る時なんか、雄樹くんがいないか見回してしまったほどだ。
雄樹くん…大学生だと思っていたのに、まさか高校2年だったなんて。しかも、あたしの受け持ちのクラスの生徒だなんて。
高校生ってどういうことよ! 「学生さん?」って訊いたら、そうだって答えたじゃん!
なんで高校生なのよぉ…。
6歳くらい違っても、なんとかなるかなって思ってた。もう一度会えたら、付き合えるんじゃないかって思ってた。
なのに…よりによって、あたしの教え子だなんて!
これじゃあたし、淫行教師じゃない! まだペーペーなのに。それこそ吹けば飛んじゃうのに。
高校2年ってことは、まだ16よね。あたし、今年で26よ。9歳も下じゃない。
…はっ! マジで淫行に引っかかるんじゃないの、あたし!? 16歳ってことは、育成条例の対象じゃない。そうよ、倫理的にどうこうってレベルじゃなくて、法的にもヤバいんじゃないの!?
…セーフ。
ネットで調べた限りじゃ、育条の処罰対象になるのは“18歳未満と知って行為に及んだ場合”ってことみたい。
少なくともあたしは、彼を19歳の大学生だと思ってたわけだから、この前のは大丈夫ね。次はないけど。
う゛~~~…。そうね、“次はない”のよね。
だって、彼は16歳。
9歳も下で、高校生で、受け持ちのクラスの子よ。もう詰んでるじゃない。
もし、彼と今度いたしたら、クビになった挙げ句、前科者だわ。
あの朝、逃げてなかったら、付き合えてたのかな。でも、付き合うってなった後で、雄樹くんが高校生って知っちゃったら、どうなっちゃってたんだろう。
考えても仕方ないことではあるけど、考えずにはいられない。
どのみち9歳も離れてたら、うまくいきそうにないけど。雄樹くんだって、若い女の方がいいよね、きっと。
あ~あ、4年ぶりに人を好きになったのになぁ。あっという間に失恋しちゃった。
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「キョー先生、英語教えて~」
社会科準備室なる陸の孤島にいるあたしのところには、遠慮という言葉を知らないらしい女子生徒が入れ替わり立ち替わりでやってくる。親しまれていると言えば聞こえはいいけど、一歩間違うと舐められてしまうから、どこかで線引きしないといけなくて、それが難しい。
前任の高校では、生徒にフレンドリーに接しすぎて“生徒の人気取りをしている”なんて他の先生方に睨まれた同僚もいた。あれは恐ろしい。先輩・同僚が敵に回ると、困った時に誰も助けてくれないという地獄に陥る。
「あ~、言っておくが私は歴史の教師だぞ? 地理とか社会科枠で質問が来るならともかく、どうして英語なんだ」
あたしは、職場では一人称を「私」にして、口調もかなり硬めにしている。社会人としての嗜みということもあるけど、なにより、プライベートと切り離すために、区切りが必要なのだ。
「だって、センセーに聞いた方がよくわかるんだもん」
こういうリップサービスを鵜呑みにしちゃいけない。彼女らは、単に周りに他の教師がいない社会科準備室で、比較的年齢の近いあたしに質問する方が楽だから来ているに過ぎない。
まぁ、あたしが担当教科以外もそれなりに教えられるから、という面もあるにはあるんだろうけど。
あたしはまだ大学出て3年。高校レベルの英語なら教えられる。
「……この辺りは、教科書のここのところをよく理解した方がいい。
定期考査の基準は、教科書の理解だ。定期考査に関する限り、教科書をきちんと押さえておけばそれなりの点数は取れるようにできている」
「ありがとー、キョーセンセー。また来るね~」
「きょう先生はやめろ。私は京だ」
「だって京センセー でしょー」
彼女らは笑いながら帰って行った。全く直す気はないらしい。
どうも、あたしは「きょう先生」で定着しつつあるみたいだ。さすがに本気であたしの名を知らない生徒はいないと思うけど、音読みで「きょう」と呼ばれることがほとんど。前の学校ではそういうことはなかったんだけどなぁ。
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コンコン
「どうぞ」
「失礼しま~す」
あたしは、授業で使うプリントを、事前に生徒に持って行ってもらっている。
誰が来るかはクラスの方に任せているから、毎回同じ子が来るクラスもあれば、順番を決めてくるクラスもある。
「そこのプリントを配っておいてくれるか」
準備室の入口近くに積んでおいたプリントを示すために振り向くと、入ってきたのは雄樹くんだった。
「え!? あ…そう、次は私のクラスだったわね…。お疲れ様、富井くん」
動揺を悟られなかったかな?
まさか、雄樹くんが来るなんて。
「いつも思うけどさ、キョーセンセー、よくこんなに毎回プリント作れるよね。全部のクラスでしょ?」
プリント配られるのが嫌…って意味じゃないよね? 労ってくれてるんだよね?
「君たちの理解が深まる一助になってくれれば、作った甲斐があるというものだ。
歴史というのは、人の営みだ。
年表として覚えようとすれば苦痛だが、人の織りなす物語と思えば興味も湧くだろう。
三国志など、教科書の記述ではほんの数行でしかないのに、壮大な物語として描かれ、長い間読み続けられているだろう。
まぁ、君達は、受験のために必要な範囲を流れとして捉えられるくらいに理解してくれればそれでいい。
大学に進んだ後で、歴史そのものに興味を持ってくれる生徒が1人でも出れば僥倖だ」
あ…ヤバ、つい熱く語っちゃった。“京先生”としては、語りすぎね。
「ああ、すまないな、手を止めさせてしまって。
では、プリントを頼んだぞ」
「ああ、はい」
あたしの勢いに呑まれて呆然としていた雄樹くんは、何をしに来たか思い出したようにプリントを持って出ていった。
…やってしまった。
雄樹くんに労われたもんだから、つい熱が入っちゃって…。口調、大丈夫だったよね? こんな、歴史の教師になった動機みたいな話、しないようにしてるんだけどなぁ。青臭いから。
先輩教師とかにうっかり言うと、“おー、理想に燃えてていいね”なんて生暖かい目で見られて舐められるんだよね。
教師がやるべきことは、“生徒が大学に受かるよう力を付けさせつつ、確実性の高い大学を受けるよう誘導する”こと。
教育に燃えた熱血教師なんてお呼びじゃない。
あたしだって、理想を押しつける気はないし。
少なくとも、流れとして歴史を理解することは、受験のための勉強としても有効だ。丸暗記できれば一番効率がいいんだろうけど、できない生徒には次善の策だろうと思う。
さ、切り替えなきゃ。
まず、ちゃんと先生することだよ。
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「はい、じゃあ今日はここまで」
自分の受け持ちだというのに、一番緊張する。理由は考えるまでもない、雄樹くんがいるからだ。
特に今日は緊張した。なんか雄樹くん、熱心にあたしの方を見てる気がしたから。
ああ、もう! いいかげん吹っ切らないといけないのに。
毎日顔を見てるから、全然忘れられないんだもん。
準備室に戻って深呼吸してたら、突然「失礼します」ってドアが開いた。
それは、雄樹くんの声で。心臓が止まるかと思った。変な声を出さなかった自分を褒めてあげたい。
「と、富井くんか。どうした? 何かわからないところでも…」
振り向くと、雄樹くんはプリントを数枚持って来ていた。
「プリント、余ったんで持って来ました」
ああ、余部を多少入れているから、余りが出るのはいつものことだ。普通は返しになど来ないでクラスで処分するんだけど。
「わざわざ返しに来てくれたのか、ありがとう」
「先生、俺らのために一生懸命作ったんだろ。なんか、捨てるの悪いじゃん」
!
「そうか、気を遣ってくれてありがとう。
とても嬉しいよ。
さ、次の授業に遅れないように早く戻った方がいい」
ありがとう、雄樹くん。すっごく嬉しいよ。涙が出そうだ。涙がこぼれる前に、部屋を出てよ。
「キョーセンセーって、すげえよ」
ドアを閉めながら、雄樹くんが呟くのが聞こえた。
すごいのはキミだよ。なんでこんなにあたしを温かくしてくれるの?
忘れるなんて、できないよ…。