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そうしてそれからも、変わらず王子殿下はリファルディの園にやってきた。何度季節が巡ろうとも、変わらずに王子殿下はやってくる。
気付けばユエラは十八歳。花も恥じらうお年頃になってしまった。
リファルディの園にすべてを捧げて過ごしてきたユエラは『花咲か娘』として、求められるがままに青薔薇を咲かせるばかりでなく、あろうことかことあるごとに王子殿下の相談に乗ることになった。
花咲か娘のお役目とするには荷が重すぎやしないかと思えども、周りは「別にいいんじゃない? 青薔薇王子のお望みのまま!」と楽観視してくれる。どいつもこいつもつくづく王子殿下に甘い。甘すぎる。大丈夫かこの国は。
そしてその王子殿下は、本日、十六歳になられる。本日は王子殿下の、十六歳の誕生式典が催されるのだ。
青薔薇王子の誕生祭に、王宮ばかりか国中が浮き足立っている。
そしてその中心人物、本日の主役であるべき王子殿下は、それでもなぜかリファルディの園にやってきていた。
誕生式典のために近頃その身を忙しくされていたらしいのだが、本日、その式典のための青薔薇を取りに来ることだけはなんとか許してもらえたのだという。
事前に「最高の青薔薇を」というお達しを受けていたユエラは、その命令通りに、考えうる限りでの最高の青薔薇を用意していた。
それを王子殿下に差し出すと、きょとりとアクアマリンの瞳が大きく瞬く。
「つぼみ……?」
ユエラが王子殿下に渡したのは、つぼみの薔薇だった。
いつもであれば見事な大輪の青薔薇が用意されていることをよくよくご存知でいらっしゃる王子殿下は、いかにも不思議そうに首を傾げられる。そんな仕草すら絵になるのだから美形は得だ。
戸惑いもあらわにこちらを見つめてくるアクアマリンの瞳から目を逸らし、ユエラはぺこりと頭を下げる。
「時が来れば必ずお解りになります」
「わ、解った」
ユエラの要領を得ない言葉について追及はせず、あっさりと頷いて、王子殿下は今日のために誂えられた大層ご立派なお衣装の、その胸ポケットに薔薇のつぼみをさす。
さてこれでユエラにとっての本日の最大の業務は終了だ。王子殿下にとっては、これが本日の公務のはじまりだろう。
まだまだ他にも準備があるだろうし、早く戻られた方がいいのでは、と視線で促すユエラに、踵を返そうとなさっていたはずの王子殿下は「あ、あの!」となぜか向き直ってくる。
「そ、そういえば、ユエラは?」
「はい?」
「その、ええと、きみ、今年で十八だろう? どんなお祝いを……」
「特に何もございません」
「え」
きょとん、と。かつては愛らしく可憐で儚げとまで言われ、最近はそこに精悍さと凛々しさが加わり、世の女性陣の心を鷲掴みにしているという美貌に、幼げな色が宿る。こんな表情もまた、女性達の心をくすぐるのだろう。
「だ、だってそんな、きみ、今年がデビュタントなんじゃ……」
「私は貴族ではありませんし、そもそも両親もおりませんから」
十八になった貴族の子女は、白いドレスを身にまとい、きらめくティアラを頭上にいただいて、社交界デビューを果たす。そして一人のレディとして認められるのだ。
だがしかしそれは、ユエラが住む世界の話ではない。ユエラの世界は、このリファルディの園なのだ。
社交界にまったく興味がないと言えば嘘になるけれど、人には向き不向きがある。ユエラにとっては後者であり、そもそもユエラは社交界にデビューする資格など最初から持ち合わせていない。
そういうものだと理解しているから、何一つ気にしてなどいないというのに、この王子殿下ときたら、ユエラの方が申し訳なくなるような、とても悲しげなお顔をなさるのだ。
「ごめん。無神経だった」
「いいえ。どうかお気になさらず。私のことなどよりも、王子殿下は明日のご自分のことをお考えください。マントの裾を踏んで転んだりなんてしないでくださいね」
「し、しないよ! ……たぶん」
ここで『たぶん』と付け足してしまうからだめなんですよ、とは思っても言わなかった。沈黙は金である。
そんなユエラをどう思ったのか、王子殿下は、気を取り直すように「それから!」と続けた。
「そ、それ、それから、僕のことは、エ、エ、エリクって呼んでって、その、ずっと言ってるのに」
「ご命令でしたら従いますが」
「……やっぱりいい」
がっくりと肩を落として、王子殿下はこうべを垂れた。
しょんぼりなさってるお姿をお慰めしたいと望む乙女は世の中にごまんといるに違いない。だが生憎のことに、ユエラはその中には含まれないのである。
世の中はよくできている。それなのに王子殿下は、ちっとも諦めてくださらない。
「でも、いつかでいいから、ユエラ。どうか自分の意思で、僕のことをエリクと呼んでほしい」
その『いつか』は永遠に来ない。それが解っているから、ユエラは深く頭を下げるだけで、それ以上王子殿下の言葉に答えるような真似はしなかった。
そのまま名残惜しげに立ち去っていった王子殿下の誕生式典は、それは盛大に執り行われた。
いつも通りにリファルディの園で薔薇の世話していたユエラの耳にも、その盛況ぶりは聞こえてきた。
差し入れだと言って、馴染みのメイドが式典のご馳走の詰め合わせを持ってきてくれたのだが、彼女曰く、王子殿下が国王陛下から授けられた、祝いの宝剣を掲げた瞬間、その胸ポケットにさされていたつぼみはほころび、見事な大輪の青薔薇を咲かせたのだそうだ。
「すんっごく、お美しくて、凛々しくて、本当に素敵だったんだから! まさに青薔薇王子の御名に相応しいお姿だったわ! あんた、いい仕事するじゃない!」と熱弁する彼女にバシバシと背中を叩かれて咽せたユエラは、自分の企みが功を奏したことにほっとした。
王子殿下に渡した薔薇のつぼみは、もっとも相応しいタイミングで花開くようにと、たっぷり魔力を込めておいたものだ。どうやらそのユエラの企みは、大成功だったらしい。ああよかった、とほっとユエラは胸を撫で下ろすことになった。
そして、その夜のことだ。
「ユ、ユエラ! ユエラ!! まだいるかい!?」
「王子殿下?」
青空に漆黒のとばりが落ちて、月が輝き、星がまたたくころ、盛装に身を包んだ王子殿下が、何故かリファルディの園にやってきた。
王子殿下の誕生式典を飾り立てるために、リファルディの園からも薔薇の花を提供するために奔走していたユエラが、ようやく一息吐けた頃合いだった。
きらびやかなお姿は月明かりの下ですら、いっそ神々しいとすら評すべきほどに麗しくまばゆい。
無意識に目を細めながら、ユエラはいつものように一礼してみせた。
「夜会のお時間でしょう。本日の主役であらせられるあなた様がなぜ……」
「抜け出してきたんだ。どうしてもきみに会いたくて」
「私に?」
それはまたどうして。えっ、これ、後で私がお叱りを受けることになるのでは。
嫌な予感がユエラの脳裏を過ぎる。けれど、王子殿下のことを追い返すような真似はできなかった。月影に浮かび上がる彼の頬が、リファルディの園に咲き誇る赤薔薇に負けず劣らずのご様子だったからだ。
いつものことなのだけれども、そんなご様子を見せつけられると、ユエラはどうにも強く出れなくなってしまう。
「ま、まずは、薔薇をありがとう! まさかつぼみがあのタイミングで花開くとは思わなかった。父上も母上も、それはお喜びになってくれた」
「それはよろしゅうございました」
式典の正装から、夜会の盛装に着替えても、その胸では変わらず青薔薇が咲き誇っている。ユエラが今日のために精魂込めて育て上げたとっておきの青薔薇だ。ユエラの魔力により、夜闇の中でも、青薔薇は美しく輝いている。
ユエラに唯一許された、王子殿下への贈り物。我ながらよくやったと自分を褒めてやりたくなった。
「あ、あああ、あの、あのさ!」
「はい」
「その、僕からも、きみにプレゼントがあるんだけど、う、受け取って、もらえないかな」
王子殿下が懸命に紡がれたその言葉に、ユエラは珍しくも驚かされる羽目になった。誕生日なのはあなた様ではないですか。ユエラには、そんな……
「きみは、受け取る理由がないって言うだろうけど、その、僕からの、デビュタントのお祝いってことで、だから、あの、その、えっと」
……そう、受け取る理由がない。そう言おうとしたのに、先手を打たれてしまった。
どう断ろうかと考えている間に、王子殿下はあれこれと必死に言い募ってくる。そのどれもが意味を成した言葉になっていないが、彼がどうしてもユエラに何かを受け取ってもらいたがっているらしいことは痛いほど解る。解ってしまったから、ユエラは溜息を吐いた。
びっくぅ! と大きく体を震わせる王子殿下に対し、ユエラは一礼してみせる。
「そういうことでしたら、恐れ多いことですが、ありがたく受け取らせていただきたく存じます」
「あ、ありがとう!」
なぜプレゼントを渡す側がお礼を言うのだろう。本当に変わり者の王子様だ。
そう呆れるユエラの目の前で、王子殿下はポケットから何かを取り出された。
「これ、なんだけど」
それは、見事な細工が施された小さな箱だ。庶民が気安く手に取れるようなものではないことくらいすぐに解った。
受け取るのを逡巡していると、王子殿下はおもむろに、蝶番でとめられている蓋を開ける。
「……オルゴール?」
星がまたたくかのような音が三拍子を奏でる。ワルツだ。愛らしくもきらびやかやその音が、リファルディの園の夜を彩っていく。
やがて王子殿下は、そのオルゴールを、蓋を開けたまま、花壇を組み立てているレンガの上に置いた。そして何を思ったか、ユエラの前に片膝をついてひざまずく。
えっなにどうした、いきなり複雑骨折でもしたのか。
そうあり得ないことを思うユエラを見上げ、王子殿下はそっと手を差し出してくる。
「――踊っていただけますか、レディ」
アクアマリンの瞳が、緊張と、不安と、そして隠し切れない期待に輝いていた。
呆然としながらも、ユエラはふるふるとかぶりを振る。
「私、ワルツなんて踊れません」
「大丈夫、僕がリードするから」
こんな風に! と、ユエラの返答も聞かずに、王子殿下はユエラの手を取り、立ち上がってオルゴールが奏でるワルツのリズムに合わせてステップを踏み始める。
片手は掴まれているし、気付けば腰にも手が回されている。こうなってしまったらもう、ユエラは抵抗なんてできず、大人しくステップを踏むしかない。
『大丈夫』のお言葉通り、王子殿下のリードは、本当にお上手だった。それこそいっそ、腹が立つくらいに。
当初は慣れないステップに四苦八苦していたユエラだったが、大人しく王子殿下に寄り添い、そのリードに身を任せてしまうのが一番得策であると気づいてしまった。誠に遺憾である。
王子殿下は楽しそうに、嬉しそうに笑っている。月明かりの下で金の髪が光をはじき、アクアマリンの瞳がきらきらと星影に負けない光を放つ。
いつのまに、この王子殿下は、こんなにも背が高くなられたのだろう。昔は天使の輪を描くつむじを見下ろしていたのに、今はもうつま先立ちになったってそのつむじを見ることは叶わない。逆にユエラの方が見下ろされている。
「……王子殿下」
「なんだい?」
「お誕生日、おめでとうございます」
その言葉に、王子殿下は、胸で咲き誇る青薔薇よりももっとずっと美しく、嬉しそうに笑った。
そのかんばせに見惚れてしまった自分が信じられない。慌てて目を逸らして俯いても、王子殿下は相変わらずユエラを解放してくださらない。
そして二人は、国王陛下の命令により王子殿下を呼びにきた従者に声をかけられるまで、ステップを踏み続けたのだった。