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父がいなくなっても、ユエラのすることは変わらない。
リファルディの園の薔薇に心血を注ぎ、王子殿下に青薔薇を捧げるのがユエラの『花咲か娘』としてのお役目だ。
腕利きの王宮庭師であった父の後ろ盾がなくなれば、自分も職を追われることになるかもしれないと危機感を抱いたが、幸いなことに、そうはならなかった。王子殿下の象徴である青薔薇を咲かせることができるのがユエラだけであったおかげだろう。
王子殿下の尊き癒しの魔力や、他の貴族が持つさまざまな魔力と比べるのもおこがましい『花咲か娘』の魔力なんて、大した役にも立たないと思い続けてきたけれど、今回ばかりはそれに感謝せずにはいられなかった。
そして、今日も今日とて、ユエラはリファルディの園の薔薇の手入れに余念がない。もっともその株が美しくなるためには、余分なつぼみの剪定は欠かせない。単純に魔力だけで花を咲かせればいいという話ではないのだ。
父の教えてくれた技術に感謝しながら、ぱちん、と、日陰で育ちの悪い花芽を摘み取る。そのときだった。
「おい」
「はい?」
聞き覚えのない声をかけられて、摘み取ったばかりの花芽をカゴに放り込みつつ振り返れば、そこには見覚えのない美少年が立っていた。
今年十六歳になるユエラと同じ年頃に見える、月影のごとき銀の髪と、緑蔭を映したかのような深い緑の瞳を持つ、涼やかな面持ちの美少年である。
王子殿下は陽の光の元で朝露に濡れて輝く薔薇と表すならば、この美少年は月明かりの下で夜露を滴らせて咲き誇る百合といった風情だ。
このリファルディの園に足を踏み入れることを許されている者はごくごく限られている。以前は庭園の主人である王妃殿下が、国王陛下とともに散策しにいらっしゃることも時々あったのだが、最近はちっともいらっしゃらず、かわりに王子殿下が、おともの一人もつけずに、ことあるごとにやっていらっしゃる。おかげで最近まともに言葉を交わしているのが王子殿下だけであるという、光栄極まりない事態に陥っている。頭が痛い。
それはさておき、この銀の美少年はいったい何なのだろう。
いつぞやと同じく、また面倒ごととか厄介ごとの臭いがぷんぷんする。リファルディの園に立ち入る権利をこの美少年は待ち合わせているのだろうか。とりあえず身なりからして相当の身分にあることはまず間違いがなさそうなので、ユエラはその場に膝をつき礼を取った。長いものには巻かれるべき、というのが、ユエラがこの十六年間で学んだ処世術のひとつである。
そんなユエラを満足げに見下ろして、銀の美少年は居丈高に問いかけてきた。
「エリクシルに青薔薇を用意してるのは、お前だな?」
エリクシル。それは王子殿下の尊き御名前である。
この美少年は、その名前を、こんな風に気安く呼び捨てにできるようなご身分である訳だ。
これは下手な真似はしない方がいいだろう。
「はい。然様にございますが」
「俺にも用意しろ」
「……と、仰いますと?」
「察しの悪い女だな。俺にも薔薇を用意しろと言っているんだ」
他に何があるとでも言いたげなご様子である。ええええ、と、ユエラは頭を伏せたままうろんげに半目になった。
この美少年は何を仰っているのだろう。王妃殿下のリファルディの園の薔薇がどんなものであるのか、知らないはずはないだろうに。
「大変申し訳ないのですが、青薔薇は王子殿下のためだけに、と、国王陛下からお達しを受けております。あなた様がどなたかは存じ上げませんが、わたくしが勝手に……」
「俺のことを知らないだと!?」
言葉を探しながらなんとかお断りしようとしたら、その台詞に被さるようにして怒鳴られてしまった。
楚々とした美貌に相応しからぬ怒りをにじませて美少年はこちらを睨み付けてくるけれど、知らないものは知らないのだからどうしようもない。
申し訳ございません、と更に深く下げようとした頭の、頭頂部の髪を掴まれ、ぐいっと顔を上げさせられる。冗談じゃなく普通に痛い。
「俺は、ヒューズベル・エナ・ラゥ・ガーネス! エリクシルの従兄弟だ!」
ガーネス、と言えば、国王陛下の妹君の嫁ぎ先の侯爵家だ。
なるほど、この銀の美少年と王子殿下のつながりはそこから来ているらしい。ようやく解放されたものの、髪は思い切り乱れてしまった。直したくても、おそらく……いや、確実にこのタイミングでそれをしたらまた怒鳴られるに違いない。
そのためユエラは、大人しく美少年、もといヒューズベルの言葉の続きを待った。
「大体、誰があんな奴のための青薔薇なんて欲しがるものか。俺が欲しいのは、俺のための、俺だけの薔薇だ!」
「はあ……」
「あいつが青なら……そうだな、俺には七色の花弁を持つ薔薇を用意しろ。虹色の薔薇なら、あいつの青薔薇よりももっと美しく、目立つだろうからな」
「虹色の薔薇、でございますか」
「ああ。できないとは言わせないぞ。これは命令だ!」
ビシィッ! と人差し指を鼻先に突き付けられて宣言、もとい、命令されてしまった。
これだけ自信たっぷりで、悪びれる様子もないのだから、このヒューズベルという美少年は、ちゃんと王妃殿下、あるいは国王陛下から、許可を得てこの庭園にやってきたのだろう。
言葉のはしばしから察するに、どうやら王子殿下に並々ならぬ対抗心を燃やしていらっしゃるご様子である。
青薔薇に対抗するために、虹色の薔薇。
なるほどなるほど、悪い選択ではないだろう。だが、しかし。
「ご用意できないことはございません。ですが、私がご用意できる薔薇は、白薔薇に色水を吸わせて花弁を人工的に染めたものになります」
虹色の薔薇なんて、自然に咲かせることはできない。ユエラの魔力で咲かせることができる新たな色の薔薇は、青薔薇だけだ。
それでも虹色の薔薇を求めるというならば、魔力に頼らず、ユエラの知識が求められる。白薔薇の花弁を染めるのは、古くから伝わる手法だ。この方法ならば、虹色の薔薇だって用意できる。
だがこのおぼっちゃんは、そんなユエラの答えがいたくお気に召さなかったらしい。
「そんなまがいものの花がこの俺に相応しいと言いたいのか!?」
「まがいものなどではございません。花弁を染めて新たな色の薔薇を生み出すのは、れっきとした……」
「庭師風情が、口答えをするな!」
乾いた音が大きく高らかに庭園に響き渡る。力いっぱい、思いっきり頬を張られたユエラは、その勢いのまま地面に膝をつく。
ジンジンと頬が熱く痛い。唇の端が切れたらしく、鉄錆の味が舌から伝わってくる。
立ち上がることもできずに、頬を押さえてうずくまるユエラのことを、フンと鼻を鳴らしてヒューズベルは見下ろしてくる。
新たな足音が慌ただしく近づいてきたのは、その時だった。
「ユエラ!」
聴き慣れた声に反射的に顔を上げると、王子殿下が顔色を真っ青にしながら駆け寄ってくるところだった。
おうじでんか、と、小さく呟くユエラのことなどもう興味はないと言いたげに一瞥してから、ヒューズベルがにこやかに肩を竦めてみせる。
「なんだ、ようやく王子サマのご登場か」
「ヒューズベル、きみ、ユエラに何を……!」
「側女の教育がなってないな。そんなのだから、庭師ごときに舐められるんじゃないか? 慈悲深き王子殿下」
いや私は側女だなんてそんな御大層なものではないんですが、と、ユエラは内心で呟いた。
そんなユエラの元まで駆け寄ってきた王子殿下が、ユエラの真っ赤になった頬を見つめる。真っ青だった顔色から、ますます血の気が引いた。
お優しい王子殿下には刺激が強すぎただろうかと心配になるユエラの目の前で、ゆらり、と。
王子殿下が、ゆっくりと、立ち上がる。
そして。
「――言いたいことはそれだけか、ヒューズベル?」
それはユエラが初めて聞く、地を這うかのごとく低い声音だった。
あのどもり症で緊張しいで弱気な物腰の王子殿下が、こんな……大きな怒りを孕んだ声を発することがあるなんて、思いもしなかった。
だからユエラは、反応が遅れた。
気付けば王子殿下が地面を蹴り、まずは一発、ヒューズベルの頬に拳を入れていた。勢いのままに、受け身も取れずにヒューズベルは地面に転がる。そこで終わるかと思いきや、王子殿下は更に彼の上に馬乗りになり、拳を振り上げる。
幾度となく、鈍い音が繰り返し聞こえてくる。それから、言葉にならないヒューズベルの悲鳴も。
呆然とその様子を見つめていたユエラは、それからようやく、ハッと息を飲んだ。
ぼんやりしている間に、事態がとんでもないことになっている。これはまずい。
「お、王子、王子殿下! おやめくださいませ、それ以上はなりません! どうか、どうか……!」
このまま放っておいたら、おぼっちゃんが死んでしまう――とまではいかないのだろうが、ユエラにそんな危機感を抱かせるほど、今の王子殿下のご様子には、鬼気迫る迫力があった。
一言で言ってヤバい。無表情、かつ無言で、ヒューズベルをひたすらボッコボコにしている王子殿下の姿は、ぶっちゃけこわい。見なかったことにして薔薇の世話を再開したい。
おぼっちゃんのことなんてユエラの知ったことではないのだから、このまま好きなだけ、王子殿下の気が済むまで殴ってくださいませ、というのが実のところの本音だが、そういう訳にはいかないことも、とてもよく解っている。解りきっていた。
だからユエラは、王子殿下の身体に飛びついて、なんとかヒューズベルからその身体を引き剥がす。
「エリクシル王子殿下!!」
ユエラの悲鳴のような呼び声に、ようやく、王子殿下のアクアマリンの瞳に、いつものきらめく輝きが戻る。
そのままユエラとともに尻餅をつくように地面に座り込む王子の下から這い出したヒューズベルは、よたよたと立ち上がると、「覚えていろ!」と涙声で吐き捨てて走り去っていった。
あれだけ殴られて、それでも捨て台詞が吐けるなら大丈夫だろう。
ほう、と安堵の溜息を吐くと、ふいに未だジンジンと熱を放つ頬に、やさしいぬくもりがあてがわれる。
王子殿下の手だ。驚くユエラを間近で見つめたまま、彼の薄い唇が開かれる。
「『恩寵あれ』」
その唱えとともに、頬から痛みが引いていく。私なんかにわざわざ癒しの魔力を行使しなくても、と思えども、それは口にはできなかった。どこまでも澄んだアクアマリンの瞳に見つめられて、言葉が出てこない。
昔は見下ろしていた王子殿下の目線は、今では同じ高さにある。それがなんだかとても不思議だった。
やがて、王子殿下はそっとその手を下ろされた。離れていったぬくもりが、不思議と名残惜しい。そんな自分が気恥ずかしくて、ごまかすようにユエラは呟く。
「王子殿下の御手は、誰かを殴るためではなく、誰かを癒すためにあるべきです」
「……うん。ごめん」
「何を謝られるのですか。助けてくださり、そして、癒してくださり、本当にありがとうございます」
とても嬉しかった、とは、恥ずかしすぎて言えやしないけれど。
この王子殿下は、本当に『王子様』なのだなぁと思うと、なんだか笑いがこみ上げてくる。
つい笑みを浮かべると、王子殿下の顔色が、いつものように真っ赤に染まった。
「ど、どういたしまして! あ、あの、ユエラ」
「はい」
「さっき、僕の名前、呼んでくれたよね」
「……大変無礼な真似をしてしまったこと、心よりお詫び申し上げます」
「そうじゃなくて!」
庭師風情に気安く名前を呼ばれて不快に思われたならば謝罪を、というユエラの考えを、王子殿下はなぜだかいつにない勢いで一刀両断にされてしまった。
どうしたと仰るのだろうと瞳を瞬かせるユエラに、王子殿下は何やら懸命に言い募る。
「そ、そう、そうじゃなくて、あの、その、こ、ここ、これからも、僕のこと、名前で呼んでくれないかな?」
「……エリクシル王子殿下と?」
「王子殿下はいらない。あと、その……できれば、エリクって……」
呼んで、ほしいんだけど。
そうもにょもにょと続ける王子殿下に、ユエラは頭を下げた。
「誠に光栄にございます。善処致します」
「それ呼ぶ気ないよね!?」
今にも泣き出しそうな顔で叫ぶ王子殿下に気付かれないように、ユエラは本当に小さく笑った。
身分の差も考えないでいい気なものだ。いくら本人からのご許可を頂いているとしても、実際に一国の王子を庭師ごときが愛称で呼べるはずもないのに。
優秀であるらしいのに、肝心なところが抜けている『王子様』。だからこそ誰からも愛されるのだろう、と、ユエラは深く納得した。
その日以来、王子殿下はしばらくの間、リファルディの園にやってこなかった。
二週間後、ようやく現れたご本人曰く、「父上から謹慎を頂いてしまって。やりすぎだってさ」とのことだ。
照れ臭そうに微笑む王子殿下に、そりゃそうだろう、と同意しつつ、同時に、この王子殿下は怒らせないようにしようと、ユエラはかたく誓ったのだった。