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その日は、突然やってきた。
「ユエラ!」
血相を変えてリファルディの園に飛び込んできた王子殿下を、ユエラはいつものように深く一礼して迎え入れた。
息を切らしてやっていらしたこの王子殿下は、また新たな公務に頭を悩ませていらっしゃるのだろうか。
ユエラにできるのは話を聞くことと、青薔薇を咲かせることくらいなのに、それでもこの物好きな王子殿下は頻繁にリファルディの園にやってくる。さて今回は何だというのだろう。
雑草を駆除するために付けていた軍手を外して、さぁなんでもどうぞ、という体勢になるユエラの顔をじっと見つめてくるアクアマリンの瞳は、見たこともないような悲しみに濡れていた。
「きみの、お父上が亡くなったって」
「ああ、そんなことですか」
「そんなことって……!」
王宮付き庭師であったユエラの父は、つい先日、城下町で馬車に轢かれて死んだ。一瞬の出来事であり、手の施しようはなく、苦しまずにあっけなく死ねたことだけが救いだろう、というのが医師の判断だった。
日がな一日、王宮の庭園の世話に追われて、他者との交友関係が大層狭かった父の葬儀は滞りなく終わった。
父が死んでも、ユエラのすることは変わらない。いつも通りに、このリファルディの園の世話をするだけだ。
「父上が仰っていた。本当に腕の良い庭師だったって。だからこそ残念だと」
「ありがとうございます。陛下にそう言っていただけたならば、父もきっと喜びます」
「……ユエラは大丈夫?」
「何がですか?」
「な、何がって、その、ええと……」
淡々と問い返すと、王子殿下は、うろうろと視線をさまよわせて、そのまま口籠ってしまわれた。
その様子を見て、少しだけ胸がすく思いがした自分は、本当に意地が悪い人間なのだろうとユエラは思う。
王子殿下の言いたいことなど、わざわざ問い返さなくても解ることだ。父親が死んだ哀れな娘。それが今のユエラなのだから。
でも、自分は大丈夫なのだ。だって。
「私は拾い子でした。親に捨てられた私を、王宮付き庭師である父は、後継にするために育ててくれました」
「……!」
アクアマリンの瞳が驚きに瞠られる。けれど構わずにユエラは続けた。
「子供がいなかった父は、私を利用をしていただけです。そして私も、居場所を得るために父を利用しました」
そうして互いに利用しあった結果が今だ。
父はきちんと後継を育て上げたし、ユエラは欲しかった居場所を得た。素晴らしい。ウィンウィンだ。
父には心から感謝している。これ以上は望むべくもない。
自分は大丈夫だ。だから死した父は、もう何も心配することはない。大丈夫。それなのに。
「どうなさいました、王子殿下。何故そんなお顔をなさるのですか?」
それなのに、どうして目の前の王子殿下は、今にも泣き出しそうなお顔をしていらっしゃるのだろう?
転んで怪我をしたときよりもよっぽど痛そうな顔をして、じっとこちらを見つめてくる。悲しみをいっぱいに湛えたアクアマリンの瞳は、何もかもを見透そうとするかのようで、なんだか妙にユエラは落ち着かない。
そんな自分が無性に腹立たしくて、無意識に拳を握り締めるユエラの手を、剣だこのできた白い手がすくい上げる。
「きみが」
ユエラの拳を、王子殿下は、ことさら丁寧に、大層優しくほどく。
「ユエラが泣かないからだよ」
「私……?」
思わずこぼした声が自分のものであると気付くのに、ユエラは少しばかり時間がかかった。
王子殿下は何を仰っているのだろう。泣くなんてありえない。だってユエラは悲しくなんてないのだから。
父は、『父親』というよりも、『上司』、あるいは『師』と呼ぶ方が相応しいような人間だった。たわむれに『娘』と呼んでくれることもあったけれど、それ以上に一人の庭師としてユエラが一刻も早く独立できるようにと厳しくさまざまな手法を仕込んでくれた。
花咲か娘の呼び名の元である魔力の扱い方を教えてくれたのも父だ。だから感謝はしている。父のおかげでユエラは十二歳の若さでリファルディの園を任されるまでに至った。
ユエラは父の願いを叶えたし、父はユエラの願いを叶えてくれた。だからもう、いつ縁が切れてもおかしくないような関係だったのだ。
父の訃報を知らされたとき、ユエラは驚くほどあっさりとその事実を認めた。父を轢いた馬車に乗っていたのは豪商であり、心からユエラと父に謝罪してくれたし、賠償金も弾んでくれたし、葬儀の準備も整えてくれた。
最後の最後まで父は、何一つユエラに迷惑をかけなかったどころか、むしろユエラの利となるばかりのことをしでかしてくれた。
父の死を喜ぶ訳ではもちろんない。けれど、心のどこかで安堵した。
だって、これでもうユエラは――……。
そうして気付いてしまった事実に、感情に、ユエラは呆然とする。その顔をまっすぐに見上げて、王子殿下はなぜだか一生懸命になって言葉を連ねてくる。
「大丈夫だよ。ここには僕しかいない。きみがどれだけ泣いたって僕以外の誰にも気付かれない。そして僕は誰にも言わないって約束する。薔薇の下で交わした約束は秘匿されるものだから。だから、大丈夫」
きゅ、とあたたかなぬくもりがユエラの手を包み込む。
優しい悲しみに満ちた声音が、鼓膜を穏やかに震わせる。
「大丈夫なんだよ、ユエラ」
「……あ」
その瞬間だった。ぽろりとユエラのまなじりから、涙が一粒こぼれ落ちた。
そんな自分が信じられなくて呆然としているうちに、次から次へと、とめどなく涙があふれてくる。
立っていられなくなって、その場に崩れ落ちるように膝をつけば、同じように膝をついた王子殿下が、ユエラの手を解放して、その代わりに両腕をユエラの背に回す。
抱き締められているのだと気付いても、抗えなかった。涙が、止まらない。
「――――ッ!」
声なき慟哭がほとぼしる。ユエラは泣いた。泣いて、泣いて、泣き続けた。
父は、『上司』であり『師』であった。けれど、確かに『父』だった。
たわむれに「流石俺の娘だな」と褒められるのが嬉しかった。頭を撫でられるのが好きだった。
だからこそ、いつか自分が本当の意味で独り立ちするその日に、捨てられるのが怖かった。
だからその日が来る前に父が死んでくれたことに安堵した。安堵してしまったのだ。
悲しむよりも先に安心するなんて、なんて自分は薄情な『娘』なのだろう。父は確かに『父』だったのに。
父はユエラのことを『娘』だなんて本気では思っていなかったのだろうけど、それでもユエラにとっての父は死んでしまったあの父しかいない。
「父上が言っていたよ。きみのお父上は、君のことを自慢げに話していたって。自分の誇りだって笑っていたって。素敵なお父上だね」
そんなの知らない。いつだって叱られてばかりだった。だからこそ時々褒めてもらえるのが本当に嬉しかった。
ちゃんと言ってくれればよかったのに。そうすればもっと甘えられた。わがままだって言えた。遠慮なんてしなければよかった。
父さん。私の父さん。ごめんなさい。
「大丈夫、大丈夫だよ、ユエラ」
なにが大丈夫だ。ちっとも大丈夫なんかじゃない。
大体、この王子殿下、いつものどもり癖をどこにやったのだろう。こんなときにそんな風に話されたら、余計に泣けてしまうではないか。
ユエラよりも二つも年下のくせに。背丈だって頭ひとつ分も小さいくせに。いつも挙動不審でどもってばかりいるくせに。なんだこのクソガキ。
ぐすぐすとしゃくり上げながら、周囲が聞けば「麗しの青薔薇王子になんてことを!」と憤り、王子殿下本人が聞けば「り、りり理不尽だよ……!」と涙目になりそうなことを思っているうちに、だんだん涙が落ち着いてきた。
ぐすん、と最後に鼻を鳴らすと、間近から王子殿下が顔を覗き込んでくる。ウッまぶしい。こんな涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔には辛いものがある。
それなのに王子殿下は、青薔薇王子の名に相応しい、美しい笑みを浮かべるのだ。
「……落ち着いた?」
「…………はい」
「それはよか………………うわぁっ!!」
バリッ!! と勢いよく身体を引き離される。つい一瞬前までの美しくも凛々しい面持ちが、いつもと同じ、いいや、それ以上に真っ赤に染まる。
「ごごごごごごごごめんっ!!!! って、あっ!?」
バランスを崩した王子殿下の身体が、後方へと傾ぐ。そのまま、ごつん! と後頭部をしたたかに地面に打ち付けた王子殿下は、ごろんごろんともんどり打っている。い゛だぁぁぁぁ、と、呻くその声がなんとも切ない。
せっかくの美貌がなんともお見苦し……もとい、大層もったいないご様子だ。
「……ふふ」
せっかく、さっきまで、あんなにも格好良かったのに。
「ふふふふふふふふっ!」
だめだ。やっと泣き止むことができたのに、今度は笑いが止まらない。
ユエラは腹を抱えて思い切り笑う。笑いすぎてまた涙が出てきた。ぽろぽろぽろぽろ、涙があふれる。
こんなところを他者に見られたら、無礼打ちされてしまうに違いないのに、それなのに笑いが止まらない。
「ふふ、ふ。……申し訳ありません、王子殿下。大丈夫ですか?」
地面の上に転がる王子殿下に手を差し伸べる。けれど、その手が握り返されることはない。
王子殿下は、ぽっかりと大口を開けて、こちらを見上げるばかりで微動だにしない。
「……王子殿下?」
「な、ななな、なん、なんでもないよ!」
ユエラが首を傾げると、王子殿下は慌てて立ち上がった。やっぱりその顔は真っ赤なもので、相変わらず……いやいつにも増して挙動不審。
なるほどいつもの王子殿下か、とユエラは納得したのだった。