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ユエラ・シーヴィスが、彼とはじめて出会ったのは、十二歳になったばかりのころだった。
既に立派な庭師であると、少なくとも自分ではそう思っていた当時、いつものように王宮の庭園で咲き誇る花々の世話をしていると、何やら怪しい人物を見つけたのである。
いや人物と言っていいのか、そのときは判断がつきかねた。何せその人物……もとい、『ソレ』は、泥にまみれたシーツのかたまりだったのだから。
はじめてソレを見つけたとき、正直ユエラはドン引きした。なんだアレ。
おそらくは頭からすっぽりとシーツを被った小柄な子供と思われるソレは、ずりずりと本来ならば真っ白な、滑らかな光沢がまぶしい絹地のそのシーツを泥で汚しながら、ユエラが整えたばかりの花壇の前でウロウロ歩き回っていた。
どっからどう見ても怪しい。あまりにも怪しすぎて、逆に自分が真っ昼間から幽霊にでも遭遇したのかと思えたほどだ。
王宮の庭園に現れる幽霊なんて、どこの怪奇小説の導入だろう。とりあえず三流であることは間違いない。
あ、そうこう考えている間に幽霊(仮)がシーツを踏んで頭から転んだ。
水を撒いたばかりの地面にべしゃっ! と思い切り転んだ幽霊(仮)は、泥まみれになったシーツの中で懸命にもがいている。
ますます泥にまみれていくシーツの合間から、慌てふためく声が聞こえてきた。
やがてその声はぐすぐすとしゃくり上げる涙声へと変わっていく。
「こんなはずじゃ……」「どうしよう出れない」「あれ? あれっ?」「だれかたすけて」
水気を吸って重たくなったシーツにまとわりつかれ、にっちもさっちもいかなくなってしまったらしい。なんだアレもういっそこわい。どんくさいにもほどがある。
正直関わりたくなかったが、この庭園を任されている身の上で、アレをこのまま放置しておく訳にはいかなかった。まだ十二歳と言えども、ユエラはれっきとしたこの庭園の管理人なのだから。まったくもって雇われの身の辛いところである。
持っていたジョウロをその場に置いて、ユエラは幽霊もどきの元に歩み寄り、そしておもむろに手を伸ばした。
「ここを国王陛下御成婚祝いの庭園、『リファルディの園』とご存知の上での狼藉でいらっしゃる?」
「うわああああっ!」
泥まみれのシーツを問答無用ではぎ取った瞬間、ほとばしった悲鳴。その絹を引き裂くような悲鳴にも確かに驚かされたが、それよりももっとずっと、ユエラのことを驚かせたのは、シーツの下から現れた存在そのものだった。
日の光にきらきらときらめく、まばゆい金の髪。透明なしずくがいっぱいに湛えられた大きな瞳は極上のアクアマリン。目鼻立ちははっと息を飲まずにはいられないほどに愛らしく、そして美しい。天上に住まう天使とはかくあるべきである、と評するべき美少年が、泥まみれでぐっちゃぐちゃのシーツの下から現れたのだ。
なるほどこれは予想外。
ついつい美少年に見惚れて硬直するユエラの前で、彼はわたわたと慌てたように立ち上がった。白磁のかんばせや上等な衣服のあちこちが泥に汚れていたが、本当に美しいものはそれでもなお美しいものらしい。
立ち上がった少年は、ユエラよりも頭ひとつ分、背が低かった。年の頃は十歳ほどかと思われる彼は、じっと自身のことを見つめてくるユエラの視線にとうとう耐え兼ねたのか、「あ、ありが、とう」と、おずおずと蚊の鳴くような声でお礼を言ってきた。
「礼を言われるほどのことはしておりません。それよりも、早急に退去なさることをおすすめ致します。あなたがどこのどなたか存じ上げませんが、さぞ身分あるお方であらせられましょう。この庭園に足を踏み入れることが許されているのは、国王陛下と王妃殿下にお許しをいただいた者だけです」
後は言わなくとも解るだろう。
賢王と誉れ高い国王陛下と、その国王陛下に誰よりも相応しいとされるお優しい王妃殿下ならば、このどこぞの貴族のおぼっちゃんと思われる美少年に無体な罰は与えないだろうが、それでも侵入者は侵入者である。悪いことは悪いことだ。
そんなユエラの意図に気付いたのか、美少年はしょんぼりと肩を落として、気まずそうに忙しなく、かつ落ち着かなさげに、何度も両手の指を組んだりほどいたりし始めた。
アクアマリンの瞳が涙をごまかすようにうろうろと宙をさまよう。長く濃い、まるで黄金の王冠をいただいたかのような睫毛がばっさばっさと瞬きを繰り返す。
どれもこれもなんとも情けない仕草だが、美少年がやると実に胸に、なんというかこう、グ……ッ! と迫るものがある。こうグ……ッ! と。
ユエラとて、ここがリファルディの園ではなかったら、「どうぞお好きになさってくださいませ」とでも言って頭を下げていたかもしれない。
だがしかし、残念なことにここはリファルディの園であり、ユエラはその管理人だ。侵入者はすべからく排除せねばならない。
さあさあ解ったらさっさと出て行ってくださいませ、というユエラの無言の圧力に対し、美少年はきょどきょどと臆したようにしながらも、それでも踵を返そうとはしない。
これは最後通牒をきっちり突きつけねばならないか、とユエラはいざ口を開こうとしたが、その言葉が音になるよりも先に、「でも!」と美少年が叫んだ。
何が「でも」だ、何が。思わず半目になるユエラを潤む瞳で見上げてくる美少年がまぶしい。うっかり目が潰れそう。
半目になっていてよかった、なんて内心でうそぶくユエラの胸中などちっとも知らない様子で、美少年は懸命に言葉を紡ぐ。
「その、ええと、きょ、今日は、母上の、た、誕生日だからっ! だから、花を贈りたくて」
「だからおともの方も付けずに無断で侵入されたと?」
「ご、護衛に頼っていたら、プレゼントにならないと思ったから。だ、だから、だから変装して、目立たないように……その、ええと……」
それ以上は言葉にならなかったらしく、もにょもにょと何かを口の中で呟いた美少年は、そのまま沈黙した。
変装とは、この泥まみれのシーツを被った幽霊もどきのあの姿のことか。それはちょっとどころでなくずれてないか。目立たないようにって、逆に思い切り悪目立ちしてましたけど。
突っ込んでいいところなのか、ユエラはしばし悩んだ。悩んだ末に、自分にとって問題なのはそこではないと判断した。
変装とはなんたるものかについていちいち教えてさしあげるほどユエラは暇ではないし親切でもない。
「母君のことを思っての行動は素晴らしいものですが、あなた様が撒いたと仰る護衛の方や、この庭園の管理を任されている私が、最終的に罪に問われるかもしれないとはお考えになりましたか?」
「……っ!」
アクアマリンの瞳が大きく見開かれた。その拍子に、ぽろりと大粒の涙がまなじりからこぼれ落ちる。
この美少年、見た目は極上だけれども、おつむはてんで残念でいらっしゃるらしい。
美少年がさらした唖然とした間抜け面は、ユエラが問いかけた内容など、考えもしなかったということを、言葉よりもよほど雄弁に物語っている。
「だ、だだだって、こ、ここなら、ぜ、絶対に母上のお好きな花があると思って、だから、その」
愛らしく聴き心地のよいソプラノボイスをどもらせながら、懸命に自己弁護する美少年を、ユエラは呆れ切った目で見下ろした。
この庭園――リファルディの園は、現国王陛下が王妃殿下のために、御成婚の際にわざわざ造らせた庭園である。
ここにある花は、すべて薔薇だ。愛してやまない王妃殿下のために、その愛の証として、世界中の薔薇を集められている。季節を問わずに美しく咲き誇る薔薇の園は、国の宝のひとつと称えられる。
花盗人は罪にはならない? とんでもない。リファルディの園の薔薇は至極の宝石と等しく扱われる。
いくら国王陛下が大層寛容でいらっしゃり、王妃殿下がお優しくとも、まあそれなりに厳しいお叱りのお言葉のひとつやふたつを頂戴することになるだろう。
だが、それでも得たいと思えるほどに、この庭園の薔薇は美しいと有名だ。母君の誕生日に贈りたいという気持ちは解る。目の前の美少年の言い分も解らないでもない。ユエラが丹精込めて世話をしている薔薇達はみな、そういうものだ。
だがしかし、やっていいことと悪いことがあるのが世の中の現実というやつである。
なんだかだんだん面倒くさくなってきたので、もう見なかったことにしてさしあげるからとっとと出て行ってほしい――と、ユエラが溜息を噛み殺す。
だがしかし、そんなユエラのささやかかつ切実な願いに反して、美少年はその場にとどまったままだ。
俯いてしまった金色の頭のつむじを中心に、天使の輪が陽光によって描かれている。うーん、まぶしい。つい手を伸ばしてその頭を撫でたくなってしまうが、そうすると余計に面倒なことになりそうだったので諦めた。
天使なら天使らしく、その慈悲深い御心でこちらの意を汲み取っていただきたいのだが、この美少年ときたら黙りこくったまま動こうととしない。もういい加減に衛兵を呼――……
「…………ごめん」
「はい?」
小さく、本当に小さく。ささやくように、吐息のようにこぼされたその言葉がよくきこえす、ユエラは首を傾げた。
下を向いていたはずの金色の頭が勢いよく持ち上げられる。その勢いに思わず気圧されるユエラをまっすぐ見上げて、美少年は口を開いた。
「本当にごめん。きみや護衛が罰せられるかもしれないなんて思わなかった。僕は考えなしだ」
それは素直な、そして真摯な謝罪だった。
何の含みもない、まっすぐな言葉は、驚くほどすんなりとユエラの心に届き、そのままじんわりと染み渡っていく。
だからだろうか。普段ならば問答無用で衛兵に引き渡していたに違いないのに、何故かこのときばかりは、ユエラは、がっくりと肩を落として見るからに落ち込んでいる美少年に、手を貸してあげたくなってしまった。
「……少し、お待ちください」
見事に選定された花壇の薔薇を見渡して、その中でもひときわ大輪の花を咲かせている、高貴な紫の薔薇を一輪、ハサミでぱちんと摘み取る。
美少年が驚きに目を瞠り言葉を失っているのをよそに、誰の手も傷つかないように、薔薇のとげをぱちん、ぱちんと、丁寧に切り落とす。途中でうっかり自分の指先を刺してしまったが、このくらいいつものことだ。既に傷だらけのこの手に今更もう一つ傷が増えたとしても気にすることはない。まあ痛いものは痛いけれど、慣れているから別にいい。
美少年がおろおろとこちらを見つめている。かわいそうになるくらいに戸惑っているのが見て取れる。そんなに焦らなくてもいいのにと思いつつ、最後のとげを切り落とす。こ
れで完成……とする前に、ふと思い至って、ユエラは長く伸ばした髪を一つにまとめていたリボンをほどいた。
小さな頃から愛用している、深い紅色が美しい、とっておきのビロードのリボンだ。それを紫の薔薇の茎に、蝶結びする。思った通り、ぴったりだ。
「どうぞ」
「え」
そのまま、紅色のリボンで飾られた一輪の紫の薔薇を美少年に差し出すと、彼の大きなアクアマリンの瞳が、ますますまんまるになり、何度も薔薇とユエラの顔を見比べる。
ちっとも手を伸ばしてこない美少年の手を取り、ユエラは問答無用で薔薇を握らせた。
「お母上様のお誕生日の彩りになれましたら幸いでございます」
紫の薔薇の花言葉は、誇り、気品、尊敬。貴族であるに違いない少年が、その母君に贈るにはぴったりだろう。
今朝咲いたばかりの大輪の薔薇は、まるで麗しの貴婦人のごとく誇らしげに美少年の手の中で咲き誇る。我ながらいい仕事をしたものだ。
だが、そんなユエラの胸中などちっとも解らないと言いたげに、美少年は途方に暮れたような表情になる。そんな憂いに満ちた表情もまたグ……ッ! と来るのだから、本当に美しさとは力だ。あるいは罪とでも言うべきか。
何か言いたげにしている美少年を促すように首を傾げてみせると、ようやく彼は恐る恐る口を開く。
「気持ちはありがたいけど、でも、それじゃきみが……」
おや、ここにきてようやく周りに目を向けてくれたらしい。ユエラの言葉は、やはりちゃんとこの美少年の耳に、そして心に届いていてくれたようだ。
ならばこれ以上責める気にはなれない。美少年が困り果てている様子をいつまでも眺めているのを趣味にするほど悪趣味ではないので、さっさと手の内を明かすことにしよう。
「問題がない……とは言えませんが、ご心配なく。ご覧ください」
「え……?」
不思議そうに首を傾げる美少年をよそに、ユエラは、先程摘んだばかり紫の薔薇と同じ株の、まだ固いつぼみに、包み込むように両手をかざす。
「『さあ、どうか目覚めて』」
ユエラの吐息のようなささやきに導かれるようにして、つぼみが膨らみ、その固く閉ざされていたはずの花びらがほどけ、そして美しくまた紫の薔薇が咲き誇る。美少年の手の中の薔薇に負けず劣らずの立派な大輪だ。
唖然としている美少年の、その美貌がもったいなくなるような間抜け面に、ユエラはついつい笑みをこぼしつつ、芝居がかった仕草で一礼してみせる。
「はい。この通りです」
――誰が呼んだか花咲か娘。
これこそが、ユエラが十二歳にして王宮の庭園の中でも特に尊ばれるリファルディの園を任されている理由だった。
ユエラは魔力持ちだ。その魔力は『花を咲かせること』に特化されたものであり、だからこそユエラは『花咲か娘』と他者に呼ばれる。
花咲か娘、もとい庭師としてのそのお役目は、文字通り花を咲かせることなのである。
無断でこのリファルディの園の薔薇を私物化した挙句、侵入者にその薔薇を譲ったなどと知れたら、王宮付き庭師である父から大目玉をくらうだろう。
下手をすれば、国王陛下や王妃殿下の不興を買うことになり、物理的に首が飛ぶ……ことはないだろうが、お役御免という意味合いでのクビは飛ぶかもしれない。
いつものユエラだったら、そんなことは冗談ではないと、侵入者を追い出していただろう。
けれど、今回そうしなかったのは、ただなんとなくだ。美少年が美少年だったからかもしれない。
そのまばゆいばかりの美しさに目が眩んだ末のいっときの気の迷いだ。やはり美しさとは力であり罪なものであるらしい。
「それでは、衛兵に見つかる前に……そうですね、あちらに裏口がありますから、そこから……ッ!」
人差し指で、普段は身分が低い者が出入りする庭園の裏口を指差そうとすると、ちくりと痛みが走った。思わず言葉を切って顔をしかめると、美少年がサッと顔色を変える。
「さっきの怪我……!」
「このくらい、いつものことです。すぐに治ります。さ、お早く」
「駄目だ! どんな小さな傷だって馬鹿にしてはいけないんだ。ほら、見せて」
それまでの頼りなく可憐なばかりの様子から一転した、凛々しく有無を言わせない様子で、美少年はユエラの反応を待たずに、ユエラの手を取った。
柔らかくも剣だこが既にできている白い手が、傷だらけの手を驚くほど丁寧に触れる。そして、美少年のアクアマリンの瞳が、きらりと輝いた。
「『恩寵あれ』」
優しい青の光がユエラの手を包み込む。ユエラか驚きに目を見開いている間に、あまりにも美しい光はそのまま消え失せる。
そうして、すっかり傷が消えたユエラの手の甲にそっと口づけを落として、美少年はそれはそれは、美しく微笑んだ。
「ほら、これでもうだいじょう…………ッ!?!?」
ボンッ! と美少年の雪花石膏のように白いかんばせが、びっくりするほど一気に真っ赤に染まる。
いやいや、それ、私がすべき反応なんじゃないですかね。
そうユエラが先程の美少年の天使のような微笑みに感動するのも忘れて半目になるのを後目に、顔を赤く染めたまま美少年は涙目で叫ぶ。
「あ、ご、ごめん! 初対面のレディに対して失礼な真似をっ! そそそそそれじゃ、ぼ、僕はこれで失礼する!!」
紫の薔薇を片手に、美少年は踵を返して走っていってしまう。あ、そっちは正門だから衛兵に捕まってしまうのに……って、あーあ、また転んだ。
幸いなことに薔薇は無事らしいが、その分本人へのダメージは大きいことだろう。
助け起こしにいくべきか、とユエラが迷っている間に、美少年はよろよろと立ち上がり、また一目散に走っていってしまった。
残されたのはユエラと、美少年が被っていた泥まみれのシーツ、そして静寂だけだ。
最後の最後で決まらなかったが絵物語の中の『王子様』なる存在が現実に出てきたら、きっとあの美少年のような姿になるのだろう。
「庭師に、レディだなんて」
口付けられた手の甲がなんだか熱い気がしたけれど、それよりもとりあえずこのシーツをどうすべきなのかということが、ユエラにとっての目下の問題だった。