漆
オレも、鬼だった。頭に二本角のある、まさに絵にかいた様な鬼だ。
しかしなぜオレは鬼になってしまったのか? いや、オレが鬼である世界に迷い込んでしまったと言ったほうがいいのか? でもこの角はなんだ?
そしてオレはある事が頭に浮かんだのだ。
それはオレの父さんの話だ。もちろん、元の世界?の話。
オレの父さんは千葉県出身。野球の世界では中学生当時からかなり知られたピッチャーで、高校へ進学する段階では県内外の甲子園常連校から引く手あまたといった状況だった。
それでも、母子家庭だった父さんが選んだのは自宅から徒歩圏内の地元の公立の工業高校。そして、そこが〈東の雷鬼〉の伝説の始まりだった。
なにせ甲子園とは無縁の公立高校、チームメイトを戦力として全く頼れる状況ではなかった。それでも一年次、そして二年次にも甲子園まであと一歩という所まではいった。
負けた理由はいずれの試合も味方のエラーだったわけだが、その事について父さんは、一つとして愚痴をこぼさなかったという。
そしてついに三年次、地方予選を全て完封で勝利し甲子園の切符を手に入れると、その勢いのまま一度も点を取られる事なく、父さんのチームは決勝まで駒を進めた。
そして決勝戦、ホームランで一点を取られたものの、延長十八回まで決着がつかず引き分け。再試合でも延長十八回まで投げ切り、自らの決勝打で紫紺の優勝旗を手に入れた。
当然その年のプロ野球ドラフトの超目玉、全十二球団の重複指名という記録も伝説の一つだ。十二分の一の幸運の切符は、地元に近いマリーンズが手に入れる事になった。
プロ入り一年目からローテーションに入ると、負け無しの二十八勝0敗二十八完投二十七完封、防御率0.035、失点は僅か1点、全ての登板が完投という奇跡の記録を打ち立てる。
その輝かしい戦績はマリーンズをリーグ優勝、日本シリーズ優勝にも導き、沢村賞とMVPを受賞し奇跡の天才投手の名を欲しいままにした。
その年のオフには高校の同級生だった母さんと結婚し、すぐにオレを授かり、その先行きに誰しもが期待し、さらなる伝説を積み上げていくかと思われた矢先、父さんはその短すぎる人生のゲームセットを迎えてしまう。
二年目の春季キャンプを迎える前日の事だった。暴走する車に轢かれそうになった子供を救おうとし、父さんは車に飛びこんだ。十数メートルも跳ね飛ばされ、胸に抱えた子供は奇跡的に無傷だったが、父さんは頭部をアスファルトに叩きつけられ、脳を激しく損傷する。
鍛え上がられた体は打撲程度で、全く外傷の見当たらない見た目は、目を覚まさないのが不思議なくらいだった。
父さんはそんな昏睡状態のまま数か月の間生き続けていたが、オレの生まれた日、8月24日、我が子の誕生を見届けるかのように静かに息を引き取った。
稀代の天才ピッチャー木藤雷太、享年二十歳。
野球の神にはとことん愛された親父だったが、生命を司る神は全く無慈悲だった。
人は木藤雷太を〈東の雷鬼〉と呼んだ。
普段は優しく物静かであったらしいが、マウンドに立つと一変、まさに鬼の形相でバッターに立ち向かったという。唸りを上げる剛速球はまるで稲妻の如く、それが雷鬼の由来でもあったわけだが。
そんな木藤雷太が、その死後もずっと鬼と呼ばれた理由には、もう一つある。それは高校からプロに至る野球人生で、公式には自責点がたったの二点だった事だ。
02、オニ、鬼。
しかし、まさかその事と、オレがこの鬼の棲む世界に迷い込んだ事が関係があるのだろうか?
そんな昔の事を思い出している最中、オレはもう一つ、大事な事に気付いた。
父親が失った、たった二点。甲子園での決勝戦でホームランを打った男と、プロでも唯一の失点となるホームランを打った男、その男が同人物である事に。
その男の名は喜南炎介、広島出身、元カープの四番バッターだ。
キナミエンスケ、理事長がコウカに言った言葉、お前がキナミエンスケの娘だな……。
「ねぇ、君! 君のお父さんって、もしかしてカープの喜南炎介?」
「ほうじゃ。雷児はホンに、なーんも聞かされておらんかったみたいじゃのぉ」
おかしい。確か、喜南炎介選手は独身だったはず。
けれどこの世界の喜南炎介には子供がいて、その子供がこのキナミコウカという女の子。そしてその子がなんとオレの許嫁、というワケなのか?
「鬼南さんとお父さん、甲子園での対決が縁で親友になったのよ。それで、子供が生まれてその子が男の子と女の子だったら、将来絶対に結婚させようって、そんな約束をしたの。俺たちの子供同士が結婚して子供を産んだら、最高の野球選手になるだろうって」
「父さんと喜南選手が?」
「そう。そして鬼南さんはその約束を守ってくれたのよ」
この世界の喜南選手は、父親の死後、行き場を失ったオレたち親子に色々と助言をくれ、中学進学時に東京で暮らす事を勧め、住む家の手配から、オレの所属したリトルシニアの入団の手引きまでしてくれていたという事だ。
確かに元の世界のオレも、中学に上がるのを機に千葉県から母親と東京に引っ越してきたわけだが。けれど喜南選手に世話になったとは、聞いていない。
「実は鬼南さんから、せめて十六歳に上がるまでは雷児には黙っておこう、そう言われていたからなのよ。十六歳になれば煌火ちゃんも結婚できるからって」
「け、結婚?」
「許嫁とはそういうものでしょ? 勿論、今はお互いに野球に集中したいでしょうから、結婚については焦る事はないけど」
しかし、いくら異世界とはいえ、こんな父親同士だけで決めた身勝手な話、コウカのほうはどう思っているのかと顔を伺ってみると、顔をほんのりと赤らめ、満更でもない様子。
「父ちゃん言っとったわ。鬼東ほどのピッチャーはもう二度とこの世には現れんじゃろうって。じゃけんど、その血を引く子供じゃったら、もしかして鬼東を超えてくれるかもしれんともゆうちょってのぉ。ウチと雷児、二人で鬼東の叶えられんかった夢を叶えてやれ、それがウチの父ちゃんの遺言じゃったんよ」
「遺言?」
「父ちゃんは8歳の時に逝ってしもぅたけんのぉ。去年婆ちゃんもおらんようになって、ウチは今、一人ぼっちなんよぉ」