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とりあえずゲーム制作部の設立はできたよ、俺以外は女性ばかりだけど

 この頃の株価は1月最初の取引での平均株価は11558.06円だったが、2月8日には12009.01円と12000円を突破し、3月27日には12550.82円と12500円を突破して、4月8日には12635.96円と12600円台を突破し、土地の値段も順調に上昇していた。


 株や不動産取引は間違いなくイケイケドンドンの時代であった。


 とは言えただの学生には株取引も不動産取引も手が出るものではない。


 校内及び校外オリエンテーリングで見知らぬクラスメイトと仲良くなれた奴もいれば、やっぱりまだ馴染めないという奴もいたりするわけだが、ともかくそれらの行事は終わって、最初の基礎学力テストがあった。


「まあテストは全然楽勝だったけど」


 俺がそう言うと武田くんが羨ましそうに言った。


「いやいや、全然楽勝じゃなかったぜ?」


「スポーツ推薦でもテスト内容は同じなんだね」


「そうなんだよ、俺たちのテストはもうちょっと簡単にしてほしいぜ、まじで」


 で、そろそろ授業が開始の通常日課になる。


「そういえば校外オリエンテーションの時は二年生や三年生の上級生クラスは男女が別のクラスだから、なんか俺たちを見て羨ましそうにしてたっけ」


 俺がそう言うと武田くんがウンウンうなずいていた。


「実際、情報処理科や建築科以外は女性の方が圧倒的に多いしなここ」


 千葉さんが続けて言う。


「なんと言って制服が可愛いもんね。

 3年間過ごすうえではこれ重要だよ」


 斉藤さんもうなずいて言った。


「そうね。

 もともとは千葉女子経済高等学校という女子校だった影響はまだ強いみたい。

 普通科や商業科だと男女比は1:2くらいのようよ。

 建築科はさすがにほとんど男子みたいだけど」


 俺もそれにうなずいて言った。


「情報処理科も半々くらいだけどね」


 この学校はクラスがたくさんあって1学年が男女600人近くおり、3学年で1800人だが全体的に見れば、その三分の二くらいは女性なのだ。


 それが制服が可愛い理由だったりもするんだろうし、だからその可愛い制服目当てで入学する女性が増えるというスパイラルなんだろうけど。


 そしてゲーム制作部が正式に発足することになった。


 部室は情報処理科で使っていない、放課後に空いている情報処理室を使わせてもらえることになったようだ。


「情報処理室を使えるのは助かるな」


 俺と斉藤さんはゲーム制作部の部室になる特別教室へ向かう。


「そうね」


 そして、情報処理室には会長と一緒に二人の女性がいた。


「お待ちしていました。

 貴方たちの言うように絵をかける人と、音楽を作れる人を勧誘してきましたわよ」


 会長がそう言うので俺はまず会長に頭を下げた、俺や斎藤さんだけではこんなに早く部員を勧誘するのは無理だったろうしな。


「それはすごく助かります。

 じゃあまずは俺から自己紹介しましょう。

 俺は前田健二、このゲーム制作部の発起人で、ゲームデザイナー兼プログラム担当の予定です」


「斉藤千秋です、同じく発起人となります。

 シナリオ担当になる予定です」


 そして生徒会の連れてきてくれた女の子の一人で、明るい茶色っぽいショートカットの女の子が手を挙げて言った。


「はいはいー、私は最上景子(もがみけいこ)

 絵本の挿絵を描くのが将来の夢なんだけど、そういったことができるって会長に聞いて参加しました!」


 ああ、なるほど、グラフィックアドベンチャーやノベルゲームにおけるグラフィックは絵本の挿絵に近いとは言えるな。


「絵をかける人が入ってくれるのはとても助かります」


 90年代になると女性のアニメーターや動画監督なども増えてくるので、ちょうどこの頃は高校生という人も多いのかもしれないななどと俺が思いつつそう言うと何故か会長がドヤ顔だ。


「そうでしょうとも」


 貴方は入学した生徒の趣味とかを全部見て調べてくれたんでしょうけど……なんか会長にドヤ顔されるのはなにか違う気がする。


 もうひとりは黒髪おかっぱで背が小さくてちょっとブカブカの制服を着ている女の子だ。


「なにジロジロ見てるんですか?

 制服がぶかぶかなのがそんなにおかしいですか?」


 俺に対してキッと睨みつけるように彼女はいった。


「あ、いや、すみません。

 そんなつもりは全然ないです」


 どうやら彼女自身が気にしてるらしい。


「まあいいです。

 私は朝倉(あさくら)佳世(かよ)です。

 MIDIとシンセサイザーを使ったデジタルミュージックを好きなだけ作曲していいと聞きましたが本当です?」


「ええ、好きなだけ作っていい……ですよね? 会長」


 俺は確認のために会長に訊くと会長はうなずいて言った。


「ええ、そうですね」


「朝倉さんは洋楽のファン?」


「ええ、兄の影響です」


 70年代後半から80年代はデジタルミュージックが発展している時代で、シンセサイザーの低価格化やMIDIの統一規格化などもあって自作音楽を作る人間も増えた時代だ。


 80年代のシンセサイザーミュージックは、日本では1978年に結成されてから1983年に「散開」するまでの5年間で日本を席巻した、イエロー・マジシャン・オーケストラの成功によってすでに一般に認知されていたが、まだまだ市民権を得たわけではなく、あ、なんかピコピコっていう不思議な音が出るやつだよね、というキワモノ的な見方をされていたので"コンピュータデジタルミュージック"という言葉を聞いても殆どの人は、ああ、ゲームの音(SEやBGM)だよね? という感じではあった。


 しかし楽器業界は1983年にMIDIの統一規格を発表し、外部からコントロールすることが簡単なMIDI端子を搭載したシンセを発売し、シンセサイザーもデジタル化の波が押し寄せ、まるごと一曲をプログラミングできるシーケンサー(自動演奏機)もだんだん安価に揃えられるようになってきていた。1983年にはYamaho がDX9を発表し、これがいわゆる"デジタル・シンセ"の走りで、25万円もしたのに1万台以上が売れたという。


 同じ頃、ピアノやエレクトーンの電子デジタル化も進んでおり、団地や建売一戸建て住宅への居住環境の変化もあって、販売がいまいち伸びていなかった音楽楽器業界にとって、これは追い風になった。


 しかし、MIDIファイルの交換が、Windowsパソコンの普及とインターネット利用者の急激な増加により、それまではフロッピーディスクでの交換などでほそぼそと行われていたものが、携帯電話の着メロでMIDIデータが使えるようになったこともあって、大規模な規制が行われてMIDI文化がほぼ廃れるにいたった。こうなった理由のひとつにアフィリエイトの広告収入を得ていた者の一部に、カラオケのMIDIデータの納品をしていた者がいて、仕事のデータを流用してアフィリエイトサイト運営を行なってそれにより100万という収益を得ていたりしたという問題もあった。


 もっともほとんど無法地帯だったところに権利者が乗り込んできて、役人体質で無茶苦茶やってしまい、実際は取り締まる側にも取り締まられる側にもどちらにも問題があったわけなのだが。


 話をゲーム制作に戻すと、このころのゲームはゲームデザイナーが企画の立ち上げからグラフィックや音楽も含めたプログラミング、果ては販売まで一人で全部やったりもするが、グラフィックデータを担当する「イラストレーターやドッター」が誕生し、次にオーディオデータ制作を担当する「サウンドクリエイター」、物語を書く「シナリオライター」などが分かれるのはそう遠いことでもないので、こういうふうに特定ジャンルに強みを持つ人たちを集めてくれた会長には感謝したい。

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