眠らぬ猫と、夢の支配人
“本当”だと信じていたことが全て“嘘”になってゆく感覚はまるで夢から醒めたばかりの微睡みのようで、霧の中に消えるみたいに“本当”が遠ざかっていった。
見渡す限り真っ黒な闇の中に、延々と続く白い床。そこに少女は座りこんでいた。着た覚えのないまるで舞台を舞うマリオネットのような、黒とも白ともつかぬワンピースが、真っ白な床にふわりと裾を広げている。
あまりに黒か白しかない辺りの風景に気が狂いそうになる。しかし自らの手までが床より気持ち暗い程度の白なのだ。
この世界には色がない。あるのは黒か白か、その間の色だけ。
「お誕生日おめでとう」
突然、上から声がした。見上げると、そこには黒くて古臭いスーツの背の高い男がにっこり笑って立っていた。黒いコートに白い髪、黒いタイ、白い手袋、そしてその背後には黒と白の獏。
異様な姿にしばらく唖然としたが、少女は真っ先に「誕生日?」と男の言葉を繰り返した。
しかし男は聞こえなかったかのように──むしろ、あたかもマニュアルでもあるかのように──話しだした。
「俺は夢の支配人。これは夢の世界、すなわち現実だ。君は旅人」
夢なのに現実。
「矛盾してる」
「していないさ。それより旅人さん、君のお名前は?」
尋ねられ、名前を言おうとするとハッと気づく。自分の名前を、思い出せない。頭のどこかに残っているのにはっきりと引き出せない。
何か口にしようと口を開けると、一瞬思い出しかけた。しかし喉が震えるその前に、支配人は笑顔のまま遮る。
「そうか、猫というんだね」
思い出しかけた名前は、きれいに消えてしまった。
違う、と言おうとするも声は出なかった。そして無意識に、違わない、と頭が男の言葉を肯定する。
たったそこだけは、と少女は思った。
たったそこだけは、色とりどりだったのに。
色のあった世界が、ぺったりとした黒と白に塗り替えられた気がした。
「やめてよ」
少女は冷たく呟いた。
「猫?」
「猫じゃない。私を元の世界に帰してよ」
少女は記憶を手繰り寄せやっと言った。ここは私の知っている現実とは違う、と。
「元の世界?」
「私が、これまで生活していた世界」
「それは嘘だったんだ」
男はゆっくりと語りかけた。
また、脳がその言葉を肯定した。
じわり。男の瞳の色が赤く見えた。ああ、この世界には黒か白しかなかったはずなのに。少女は男の目が赤かったことを知る。
「君は眠らぬ猫だよ」
そうだ、私は猫だ。
きっとそれは、愚かな夢が醒める前から。
私はずっと“猫”だった。




