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深海

 それは深く、静かで、海の底のようねと思う。そう、光なんかまるで届いていない。

 私にだけ聴こえる声が、脳に響いて反響する。それが気持ち良くて……。

 嗚呼、狂ってしまいそう。


「こんなことしてていいの?」

 私が尋ねると、彼は、何が、と無声音で言った。

「私は人質でしょう?」

「ああ、それなら大丈夫だ」

 どうしてかは言わないまま、彼は私を抱き締めた。


 彼と初めて会ったのは通学に使っている電車の中だった。

 その後行きつけの喫茶店で再開し、家の近所でも遭遇した。何となく会話を重ねるうちに、私たちは親しくなった。

 今思えば、彼との度重なる再会も、全て仕組まれたものだったのだろう。

 ご近所ではわりと有名なお嬢様である私をマークして、偶然を装って近づいてきていたのだから。


 この人にとって私は人質で、私にとってこの人は誘拐犯。憎んで、逃げないと。

 そう思う反面、彼の眠くなるような温かさに依存して、動けない私がいた。

「ほんとはこんなこと、言ったらいけないんだろうけど」

 私は小さな声でそう切り出した。彼が私の唇に人差し指を添える。

「なら言ったらだめだ」

「それじゃあ仮に」

 彼の服を、ぎゅ、と握った。

 私をこんなに、苦しいほど抱き締めるのは、あなたが初めてなの。

「仮に、あなたが誘拐犯じゃなかったら」

 彼はきっと、私が言わんとしていることは、大体分かっていた。

 彼も思っている、でも黙っていること。

「愛しても、よかったの?」

 ああ、黙ってたのに。彼の苦笑は、そんな表情だった。

「そんなこと言われたら意識しちゃうじゃないか」

「だから仮に、だよ。あなたを好きとは言ってないでしょう? あなたは私を誘拐した、最低な男なんだから」

「そうだねえ、まさかねえ」

 私たちは乾いた笑いを交わした。


 それから彼はそっと耳元で囁いた。私を傷つけるだけのその甘い囁きは、半透明の音で耳を擽った。

「知りたくなかったわ」

 泣きそうになるのをやっと堪えた震えた声で、なんとかそれだけしぼりだした。

 分かっていた。

 好きになってはいけないことくらい。

 頭では分かっていても、感情だけはしつこかった。

「さて、パパから連絡が来るまで退屈だね」

 何事もなかったかの様に彼は私から離れた。

「何をして過ごそうか?」

「そうね、楽しいことがしたいわ」

 私はまた、作り物の笑顔を向けた。

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