3. 万事休す
さて、これからどうしたものか、と考え始めたとき、森がまだ異様な闇夜の静けさに包まれていることに気がついた。
リディアは、美土奴国の宮殿から逃げ出した後、しばらく歩き続け、身を隠せるような場所を見つけて、傷ついた体と疲れを癒すために、しばらく樹の根元に背を預けて座り込んで休んでいたのである。
季節は初夏であったが、夜の森の中は肌寒く感じられた。三日間何も口にしていず、体力も消耗していたため、体温が低下しているようにも感じられた。火を起こして暖をとって温まりたいくらい寒く感じられたが、火を起こすわけにはいかなかった。火を起こせば、グランダルの討手に見つかる可能性が高まってしまうからである。いや、グランダルの討手がランドルの森の奥深くまで彼女を追ってきているとは思えなかったが、火を起こせば、その煙で居場所を教えているようなもので、みすみす命を落とすことになりかねないからであった。
リディアは立ちあがると、改めて自分のいる場所の周りを見渡してみた。すでに森の暗闇に目は慣れていたが、それでも森の中でのこれまでの恐ろしい体験から、枝が複雑に絡まった目の前の木々の姿が魔物のように見えてくることさえあった。通常であれば、殺気を感じない限り、たとえ何かが近づいてこようとも、瞬時に臨戦態勢に入ることはなく、ただそれに意識を集中し、次に取るべき行動を冷静に判断する彼女であったが、グランダルの討手に追われ、ランドルの森の中に逃げ込んで以来、何度も怪奇な現象に襲われていた彼女は、恐怖心からか、何か動くものが視界に入るたびに、すぐに腰の剣に手をやり身構えた。時折飛んでくる虫が、露出した肌にとまるだけでも恐怖を覚え、精神的にも疲れを感じてきていた。傀儡と呼ばれる妖術師が操る蟲が再び襲ってきたのではないかと考えてしまうからである。彼女は今までに経験したことのない恐怖と闘わなければならなかった。
リディアは、とにかく森から出る道を探さなければと考え、立ち上がって歩き始めた。
しばらく進むと、再び、鋸の歯のような鋭い形をした葉を持つ、背丈の高い植物や、棘のある植物などが、木々の間に繁茂し、前方の視界を遮った。あたかも、闇夜の中を彷徨う彼女に、方向性を与えないようにしているかのようだった。
彼女は、進むべき道が分からないまま、それらの植物を手で掻き分けながら歩き続けた。
どれだけの長い時間森の中を彷徨い歩いたのか、もはや分からなくなっていた。
リディアは、頭上の空に見える月の明かりと、記憶の中の地図を頼りに、南東と思われる方角に向かって、ただひらすら歩き続けた。森を抜けた南東から南にかけて広がる、母親の母国である半島国のトラキア公国を目指さなければならなかったからである。
しかし、肉体的にも精神的にも疲労が極限に達していたため、もはや頭で考えることなく、半ば無意識のまま歩き続けているような状態ですらあった。
そのまま夜明け近くまで歩き続けると、周囲が少しずつ明るくなり始めてきたが、早暁の霧で再び視界が遮られ、もはや全く方向感覚を失ってしまった。
しかし、その視界を遮る白い霧の中にも、前方に何やらうっすらと光るものが見え、リディアはその光に吸い寄せられるかのように、ゆっくりと歩を進めたが、もはや彼女には自分が何を目にし、何に向かって進んでいるのかさえほとんど意識できない状態であった。彼女がその光に近づくにつれて、彼女の首に下がる首飾りが淡い翠玉色の光を発し始めたが、それにも気づくことなく前方に見える光に向かって歩き続けると、突如として霧が晴れ、朦朧とした意識の中でも、光が地面から漏れているのだということに気が付いた。それは、目の前に広がる地面の穴から漏れている光のようだったが、その穴はこれまでに見たこともないほど巨大な竪穴で、跪いて穴の中を覗き込もうとしたが、意識がどんどんと薄れていき、さらに体が麻痺して動かなくなり始めているのを感じた。もはや彼女の体は限界に達していた。恐らく、森の中のイラクサなどの植物の毒が、切り傷から体内に入ったのであろうことは彼女にも推測できたが、有毒植物に関する知識や備えは彼女にはなかった。
母親の敵を討たぬまま、むざむざとランドルの森の中に逃げ込み、こんなところで命が尽きてしまうのかと無念ではあったが、彼女にはもうなす術はなかった。
夜明けと共に、全身の白い鴉がどこからともなく飛翔し、森の木の梢に留まってリディアを見つめていたが、彼女はそれに気づくことなく意識を失い、そのままそこに倒れ込んでしまった。そして、突如として目の前に現れた幻影のような巨大な竪穴は、首飾りの光と共に消失した。