2. 妖術師
「目覚めたか」
リディアが朦朧とした意識の中で目を覚ますと、そんな声が聞こえたような気がした。目をゆっくりと開けると、視界はまだぼんやりとしていて、今自分がどこにいるのかは分からなかった。しばらく考えていると、谷底に落ちて濁流に飲まれたことはうっすらと思い出したが、それから命を落としてしまったのか、あるいは助かったのかは分からなかった。
ここはどこなのだ?私はあとのき死んでしまったのだろうか?だとすれば、死んだ母に再び会えるのだろうか。
そんなことをぼんやりと考え始めたとき、再び声が聞こえてきた。
「よく生きておったものだな」
声の聞こえた方向に目を向けると、そこには一人の老婆が立っていた。
なぜそこに老婆がいるのか、自分がいる場所がどこなのか、分かないまま、ゆっくりと視線を移し、周囲を見渡すと、部屋の壁に掛かるいくつかの燭台の蝋燭の炎がかすかに揺れているのが見えた。さらに視線を手前に移すと、自分が寝台の上に横たわっていることが分かった。寝台はとても豪華なもので、彼女のいるその部屋も、装飾の施された、見たこともないほどの豪華な部屋で、庶民にはとても住めないような場所のようだった。
リディアは、自分がこれまで、その部屋の寝台で意識を失っていたのだと、そのとき初めて理解した。
崖から谷底の川に落ち、濁流に飲まれて気を失った彼女は、美土奴の宮殿の部屋の寝台に寝かされていたのである。つまり、彼女は森の中で美土奴の人間に襲われ、美土奴の人間に助けられたのであった。いや、助けられたのではなく、殺されずに捕えられただけなのかもしれない。事態がまだ把握できずに混乱していたが、リディアは、声の主の老婆に再び視線を戻した。
老婆は、全身を包み込むような黒服姿で、黒い頭巾を目深に被っている。頭巾の下から皺の多い浅黒い肌の顔が見え、かなりの老齢に見えた。腰は曲がり、杖をついて立ってはいたが、杖を頼りに立っているようには見えなかった。むしろ、その老齢には似合わぬほどの壮健な体のようにも見えた。様相はグランダル王国の高齢の呪術師にも似ていたが、呪術師のように金でどんなことでもする地位の低い卑しい老者とは異なり、独特の威厳に満ちているようだった。しかし、親しみを持てるような容貌ではなく、蝋燭の炎に照らし出されたその顔は、異様な不気味さを醸し出していた。
その様相から、老婆が、東洋の怪しげな妖術を使う妖術師だと判断したリディアは、恐怖のあまり、とっさに上体を起こし、体にかけられていた衾をはねのけて逃げようとしたが、全身に痛みが走り、床に転げ落ちてしまった。
「無理をせぬ方がよい。怪我の手当てはさせておいた。しばらく休めば治るじゃろう」
老婆は、ゆっくりと落ち着いた口調でそう言うと、部屋の入り口に控えていた二人の侍女に合図し、部屋の中に招き入れた。侍女たちは、リディアの腕を肩にかけて起こすと、彼女を再び寝台に戻した。そして、侍女の一人が、リディアの背中と寝台との間に枕を挟み込み、上体を起こさせた。もう一人は部屋から出ていき、何かを運んで戻ってきた。食事を運んできたようである。
森に逃げ込んでから三日間何も食べていなかったリディアは、空腹を感じていたが、運ばれてきた食事に毒が盛られているとも限らないという考えが頭をよぎった。
「毒など入ってはおらぬ」
リディアの心を読んだかのように、老婆が言った。
「これは、この国で食べられている饅坥という食べ物じゃ」
侍女の運んできた食べ物は、黒みがかった饅頭のような丸い形をしたものであったが、どうみても食べ物のようには見えなかった。
侍女は、老婆を一瞥した後、皿の上のその食べ物を手にとり、リディアが食べやすいように手で小さくちぎり、彼女に渡した。
「そなたの口に合うかは保証できぬが、体のためにも何か口にしておいたほうがよかろう」
老婆は、怪我の回復のためにも食べておくことを勧めた。
リディアは、肩の痛みをこらえながら、恐る恐る侍女からその食べ物を受け取り、それを鼻の近くまで持っていき、匂いを嗅いでみた。しかし、若干の匂いはあるものの、何の匂いなのかは分からなかった。
リディアが食べるのをためらっている姿を見て、侍女が何かを言ったが、美土奴国の言葉のようで、リディアには理解できなかった。
侍女は、自分の言った言葉をリディアが理解できないと分かると、優しげな眼差しで心配せずにお食べくださいと伝えようとしているかのように、彼女に食べるように促した。
リディアは、ためらいながらも、侍女の眼差しに促されるように、出されたものをとりあえず口に入れてみた。
殺すつもりであれば最初から殺していたはずであり、怪我の手当をして寝台に寝かせておいたということは、今は命を取るつもりはないのだろうと考えたからである。
しかし、リディアはそれをすぐに口から吐き出してしまった。それは、とても食べられるようなものではなかった。
「万喰民でも食せぬか」
老婆が嘲笑うような笑みを浮かべた。
「万喰民?」
老婆は、侍女とは異なり、リディアが理解できる言葉で話していたが、「万喰民」という言葉は聞いたことがなかった。
「この国では、我々以外の民をそう呼んでおる。そなたたちのような、あらゆるものを喰らう民という意味じゃ」
「あらゆるものを喰らう民?」
「さよう」
老婆が答えると、部屋の扉を誰かが軽く叩く音が聞こえた。すると侍女たちは扉を開けて下がり、入れ替わりに一人の若い女が部屋の中に入ってきた。
その女は、リディアと同じくらいの歳のように見えた。長い黒髪を結い、小さな宝石の輝く耳飾りをしていた。美土奴国の姫君かと間違えそうになるほどの気品に満ちた端麗な顔立ちで、か細い体をしていたが、腰に剣を帯び、リディアがこれまでに見たことのない布地のクロス・アーマーを着ていた。
女はリディアを見てからすぐに老婆に視線を戻したが、その眼差しは、戦場の修羅場を何度も潜り抜けた、敵には容赦をしない戦士のような鋭く厳しいものだった。
女は老婆に軽く会釈をすると、手に持っていたものを老婆に見せた。それは、翠玉色をした宝石が埋め込まれた美しい首飾りだった。
それを見た瞬間、リディアは何かを確認するように自分の胸に手を当てた。彼女がそれまで首に下げていた首飾りが無くなっている。その若い女が老婆に渡したものは、リディアの母の形見の首飾りだった。
女は、老婆に何かの説明をしているようであったが、その女の話す言葉もやはり美土奴国の言葉でリディアには理解できなかった。しかし、その女が首飾りを持っているのは、恐らく川で濁流に飲まれたときに失ったものをその女が拾ったのだろうとリディアは思った。何とか奪い返さねばと思案したが、体中の痛みで動けそうになかった。
若い女と老婆は、リディアが彼女たちの話す言葉を理解出来ないことが分かっていたので、リディアの前でそのまま話し続けていた。しかし、老婆の強い口調や、若い女の屈辱に耐えるかのような表情から、老婆がその女を叱責しているように見えた。そして、彼女は謝罪の言葉を述べているようだった。
その若い女は、老婆を「シモーヌ」と呼んでいるようだった。恐らく何らかの敬称を付けて呼んでいたのだと思うが、「シモーヌ」という言葉以外はリディアには聞き取れなかった。
シモーヌ…。
なぜか聞いたことのある名前のように思えた。リディアはしばらく考えていたが、突然何かを思い出し、胸の奥底から湧き上がった怒りに我を忘れて飛び起きると、瞬時に若い女の懐に飛び込んだ。そして、女の肩を押しやると同時に腰の剣をすばやく奪い、その剣の矛先を老婆に向けた。
再びリディアの全身に痛みが走った。立っているのがやっとのような状態であったが、ここで再び倒れ込むわけにはいかなかった。なぜなら、媸糢奴とは、グランダルの王であるクベスの命により、彼女の母親の殺害に加担した妖術師だったからである。
リディアはクベス王の暗殺に失敗はしたが、期せずして、もう一人の母親の敵を討つ絶好の機会が巡ってきたのである。
リディアは、この機会を逃すまいと、周囲に警戒し、部屋の外に衛兵がいないかどうか気配を窺った。
幸い衛兵の気配は感じられなかった。しかし、老婆と若い女の行動は予想外であった。剣を奪われた女は、特に驚く様子もなく半歩下がっただけで、リディアの行動を想定していたかのように、冷静に彼女を見つめ、奪われた剣を取り戻そうとはしなかった。老婆も、リディアの突然の取り乱した行動とは対照的に、全く動じずに彼女の向けた剣を見据えていた。
憎しみと怒りの衝動でとっさに取った行動だったが、相手が全く応戦しようとせず、冷静にリディアの次の行動を見定めようとしていたため、何かある、と直感的に感じ取ったリディアは、万が一のために逃げ道を確保しておこうと部屋の周囲に視線を配った。
リディアの寝ていた寝台の向こうには窓があった。その窓は開け放たれており、窓の外は暗く、まだ夜は明けていないようであった。
もし媸糢奴を殺して逃げるとしたら、そこからしかないとリディアは思った。
窓の外には樹齢が数百年を超えると思われる太い大樹が見えた。その樹との相対的な位置から察するに、リディアが今いる部屋は四階ほどの高さであろうと思われた。樹を伝って逃げれば逃げられるとリディアは思った。
その樹の枝には、妖しげな黒い鳥が留まっていた。リディアがその冷たく不気味とも思える瞳に気がつくと、その鳥は突然部屋の中に飛び込んできて、殺気をむき出しにするかのように彼女に襲いかかろうとした。
すると、部屋にいた若い女が何かを叫び、その鳥を制した。鳥は命令に従うかのようにリディアに襲いかかるのをやめ、若い女が差し出した左腕に留まった。女は、鎧の手甲と鷹匠が使う餌掛けとの特長を兼ね備えたような革手袋を両手にしていたが、その腕に留まった鳥は、鷹のような猛禽類の鳥ではなく、森の中でリディアを襲った鴉であった。その鳥があの時の鴉だとすると、そこにいる女があの時の騎手の妖術師に違いないとリディアは思った。その女は、動物を操る傀儡女と呼ばれる妖術師だったのである。
二人の妖術師を相手に戦えるのか!?
リディアの心に不安めいた緊張が走った。
だが、ここで媸糢奴を殺らねば、いつ母の敵を討つのだ!?
リディアは意を決し、全身の痛みを意識から遠ざけるかのように、憎しみと怒りに満ちた声を発しながら剣を振りかざし、老婆に斬りかかろうとした。
しかし、それを制するように再び鴉がリディアに襲いかかり、羽をばたつかせて彼女の視界を遮ると、鴉の主人の傀儡女が、すかさずリディアの腹に横蹴りを浴びせた。今のリディアには、そんな華奢な女の体から放たれる蹴りすらかわすことが出来ず、そのまま後ろに突き飛ばされて床に倒れ込んだ。鴉は再び傀儡女の左腕に留まった。
「まあ、落ち着くがよい。そんな体で何ができるというのだ」
老婆が再びリディアの理解できる言葉で言った。
二人の妖術師は、リディアを殺すつもりはないようであった。しかし、若い傀儡女は、リディアが床に落とした剣を拾い上げて腰の鞘に収めると、倒れているリディアの腹に容赦なくさらに強烈な蹴りを浴びせた。リディアは何とかわずかに体をずらして急所ははずしたが、二度目の蹴りはかなりこたえた。
老婆が再び言葉を発し、若い傀儡女をたしなめるように何かを言っているのが聞こえたが、今度は美土奴の言葉だったため、何を言っていたのかはリディアには分からなかった。
こんな傷ついた体では、媸糢奴を討つことは無理であろう。ここから逃げることすら難しいかもしれない。
リディアはうずくまって、蹴られた腹部の痛みを堪えながら考え始めた。
すると、窓から今度は全身の白い鳥が部屋に飛び込んできた。
リディアは、その鳥の羽音に気付き、意識を失いかけそうになりながらも、視線をそちらに向けた。森の中で鳩を鷲掴みにしたあのときの白い鳥だった。その鳥は、傀儡女の右肩に留まった。左腕に留まっている黒い鴉と同じ姿で、同じ鴉のようであった。白い鴉など初めて見たが、それは黒い鴉と同様に、とても妖しげな雰囲気を醸しだしていた。しかし、黒い鴉とは異なり、獰猛さはないようで、甘えるように傀儡女の頬に顔をすり寄せていた。
傀儡女は、その白い鴉の脚に付けられていた小さな書簡をはずすと、そこに書かれた内容を老婆に伝えた。リディアには分からない言葉で話していたが、よほど重要な話であったのか、リディアには聞こえぬように小声で伝えていた。
傀儡女の話を聞き終えると、老婆は何かを指示した。すると、侍女が再び入室して、持ってきたリディアの剣を傀儡女に渡した。傀儡女は、渡された剣と、持っていた首飾りを、床に倒れているリディアの前に無造作に放った。
傀儡女が、リディアに命令するかのように何かを言ったが、リディアには理解できなかった。
「いくがよい」
老婆が傀儡女の代わりに再びリディアの理解できる言葉で言った。
リディアは何とか上体を起こして首飾りと剣を拾い上げると、媸糢奴に対する燃え盛る憎しみの感情を抑え、今は逃げるしかないと考えて、痛みをこらえつつ、よろめきながら立ちあがった。
仮に彼女がそこで命と引き換えに媸糢奴を殺すことが出来たとしても、母親を殺したクベス王は生き続けるのである。それは彼女にとって本望ではない。しかし、その首飾りがあれば、まだ次の道は開けるのである。
リディアがためらいながら次の行動を思案していると、傀儡女の左腕から黒い鴉が飛び立ち、リディアを窓へと追いたてるように羽をはばたかせて滞空しながら嘴でつついてきた。
リディアは全身の力を振り絞り、窓から外の大樹の枝に飛び移ってその部屋から逃げ去った。