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時刻は夜11時。
場所は山の中のバス停。私は街へ行く。そう決めて家を出た。
バス停といってもベンチと時刻表以外にあるのは一本の街灯だけだ。
煌々と光るそれには蛾がたかっている。当たり前である。田舎の山の中なのだ。
でも私が今頼れるのはそれしかなかった。
私の運命はあからさまに頼りないこの街灯にたくされていた。こいつがパッパッと点滅するたびに、私は辺りをきょろきょろと見まわし、冷えた身体を心配する。
暗くて誰もいない夜、もしこの明かりが消えたら私は死んでしまうかもしれない、そんな気分になっていた。
といっても、確かに近くにあるのはその街灯だけだがちょっとガードレールから身を乗り出せば眼下には街の明かりがキラキラとかがやいている。ホテルやコンビニ、よくわからない高層ビルの明かりがところどころにある。田舎といっても開発の波は確かにそこまで来ていた。
遠くには高速も見えて、いくつもの黄色や赤い光がひゅんひゅん通っていく。
実際山を下りるには15分もかからない。小さいころから馴染のある山で死ぬはずなんてないことは明らかだった。それでも夜の静けさは怖い。
肩に降りた自分の三つ編みが視界をよぎるだけで怯えていたくらいだった。
1時間ほど前に1台車が通ったのを最後に、たまに虫や鳥の鳴く声が響くだけだった。
私は明日6時のバスでこの山を越えた隣町に行く。そこから新幹線で都心まで行こうと考えていた。料金はちゃんと調べてメモしてある。買い方は分からなかったら聞けばいい。
もう3月なのに外は寒かった。中学は先日卒業したが、生徒手帳によると3月31日までは中学生ということらしい。そんな肩書き要らないのに、と思わず呟いていた。
腕時計をみるともうすぐ12時だった。まだ6時間もある。
家族にばれないように家を出るためにベストのタイミングを考えた結果がこれだった。
家族は私がまだおばあちゃんの家にいると思っている。
おばあちゃんの家に泊まりに行くと言った私はその泊まる日数に関して嘘をついていた。
両親と上手くやれなかった私は、昔から必然的におばあちゃんの家で遊ぶことが多かった。
そしてどうせならおばあちゃんの顔を見てから行きたかった。
笑顔で見送ってくれる姿に安堵を覚えてその足で私はこのバス停に向かったのである。
これがセンチメンタリズムってやつかと安易に考えながら途方に暮れていた。
しばらく夜の景色を眺めていると、どこか遠くで何か音が聞こえた気がした。
遠くの方から、少しずつ近寄ってきているように感じる。
最初は葉の音かと思ったが、少し経って違うと気が付いた。
まるで人の足音のように靴がざっざっと地面と擦れる音に聞こえた。
音はどうやら山の上の方からやって来ていた。思わずバックを抱えて立ち上がる準備をする。でも身体が動かなかった。
通学用の大きめの黒いショルダーバックには最低限の衣類と今までろくに使わなかったお年玉の数々が入っている。あらかじめ庭の物置に隠しておいたものだ。
おばあちゃんにいつも通り手を振った後こっそり取りに行った。
山の道路はカーブがかかっており、それにこの暗さでは先はよく見えない。
カーブを回り込む勇気もなかった。
上からの足音なので下から探しに来たわけではないと一瞬安心した。
しかし怒られるかもしれない。そう思った。
幸い身長は165cmある。体格的に中学生と思われることはない。
しかし卒業式のあとそのままの流れでおばあちゃんの家に泊まることを装った私は、
行きと同じ姿つまり制服のままで家を出て来ていた。
一応コートを着ているものの紺のロングスカートにタイツとローファー。
そしてこの三つ編み。
確実に近づく足音に怯えながら、急いでコートのチャックを一番上まであげてゴムをはずし三つ編みを手ぐしで懸命にほぐす。
近所とのつながりも深かったので相手が顔見知りの可能性も考え、気休めだとは知りつつメガネもはずした。ついでに前髪も斜め分けから真ん中で分けてみる。
視界がぼやけるのは確かだが私は近視であり、近くは見えるのでこの暗さではあまり関係ないと思った。
人影が見えた気がした。近くにまで寄ってきて足音が止んだ。
心臓がばくばくとする中、無意識に下を向いていた。
そして彼は言った。「おじょうさん、どうしたの?」
えっ?と見上げるとほとんど白髪の、黒髪まじりとでも言うべきウェーブのかかった髪型の知らないおじさんがいた。
髪の長さは肩くらいまでで口髭もたくわえたている。40代、50代くらいだろうか。
それより私の目を引いたのはその服装だった。
おじさんは白いシャツでほどけたえんじ色っぽい柄付きネクタイがくびにかかったまま。
ベージュっぽいズボンと同じ色の上着と思われるものを腕に抱えていた。
背広で深夜に山の中を徘徊でもしていたのだろうか。
事件性も考えながら、私は青ざめた顔で質問にも答えないままおじさんの顔をじっと見つめた。それを察したのか、
「いやー足を滑らせてしまって」
おじさんは左の足首辺りをさすりながら言った。
言われてみればシャツはきれいだがズボンにはところどころ泥のようなものが見える。
街灯の下でも詳しくは分からなかった。
それにしたってなぜこの時間に山の中にいるのかはわからない。
「足、大丈夫なんですか」
まだ安心はできないが一応きいてみた。
「ありがとう、でも大したことはないんだ。」
そう言ってベンチの反対側に彼は座ってしまった。
「病院に行かなくていいんですか」
本音を言うとここで彼と数時間ベンチに座っているのは少し怖かった。
「今からやっているところは近くにないから。朝一のバスで隣町の大きな病院まで行くよ」
ということは、朝まで一緒ということになる。
そう言うといつのまにか持っていた葉のついた枝をぶんぶんと振る。
変と言っていいのか自由と言ったらいいのか、考えながら目をそらすことで精いっぱいだった。
「ねぇ」
声をかけられびくっとした。
「はい」
肩が上がっている自覚があった。
「きみはどうしてここにいるんだい?」
心配というよりは本当に疑問に思っているようだった。
当然の質問だった。でも答えが見つからない。
困っていると
「もしかして大学生?」
「あぁ、えっと、そうです」
「終電でも逃してしまったのかい?」
「そんなところです バスのが早いんで」
そういうことにしておけば、とりあえず警察などに受け渡されることも無いだろう。
「なんか新しく女子大ができたらしいね。この辺に。」
おじさんはそうやって私と会話しているのにどこか上の空のようだった。
色々と質問するのにその答えにはほとんど興味が無いように見えた。
ベンチに座って正面を向いたまま遠くの街の灯りを見ている。
幽霊だったらどうしよう。本気でそう思った。
深夜のベンチで二人きりという状況が本気でそういう疑いを抱かせた。
隣を見れば確かに足はあるけれど、現れた時の様子といい、不審なところが多すぎる。
しかしそこで気づいた。
おじさんのズボンには何かがべったりとついていて、じっくり見ているとそれは赤っぽくてべたべたとしていた。
思わず息をのんだ。二人の間にはバックがある。でもそれだけだ。
おじさんはさっき左足をさすっていたが、赤いものがあるのは右足。
嫌な予感がよぎる。おじさんはただのけが人なのだろうか?
それとも何かの事件の被害者なのだろうか?もしかして加害者なのだろうか?
夜の空を見上げて固まる私におじさんが声をかけた。
「大丈夫かい?」
「大丈夫です」
叩きつけるような調子になってしまった。
おじさんが少し笑ったような気がした。
「もしかしてこれを気にしてるのかな?」
涼しい顔で右足の染みを指す。
気づいたら口に手を当てていた。
尚も黙り込む私に彼が言う。
「そんなに怯えなくても大丈夫だよ」
笑顔で言われたが警戒は強まるばかりだった。
「ぼくは絵を描くんだ」
「は?」と口の形だけで示していた。
口に手は当てていたままだったが想いは伝わったらしい。
ふふっと笑うおじさんはさっきと違って少し生き生きとしていた。
「もっと言うならぼくは絵の先生をしているんだよ」
「・・そうなんですか」
そう言われて背広にも納得した。でも普通は絵の塾の先生って私服じゃないのか。
更なる補足を求める私の目に気付いたのかおじさんは説明を続ける。
「いつもは高校で教えているから背広なんだ。」
「今日は座って描いている時に赤い絵の具をひざに零しちゃってね」
なんだが一気に疑問が解けてしまった。言われてみれば髪型は確かに美術か音楽かって感じだ。
「油性絵具だから水でも落とせなくて」
「以前、私も油絵教室通ってたんです」
おじさんが一瞬目を見開く。
「詳しく聞かせて」
ベンチの端っこに居たおじさんが少し身を乗り出してきた。
「通ってたのは小学校低学年までですけど。丁度家の向かいに絵の教室があって、妹と一緒に通っていました。見た目は厳しそうだけど子供が好きなおじいさんで。老眼鏡に絵具のついたベージュのエプロンが良く似合っていました。特に飾ってあった丘に白い家がある油絵が素敵でした」
おじさんは途中で、ほーとかふんふんとか自分のタイミングで頷いていた。
ちょっとの間、腕を組んで目をつぶっていたが思い出したように口を開いた。
「この山の上にあるアトリエも白いんだよね」
「それは知りませんでした」
すごい偶然だなと懐かしい絵を思い出しながら何となくほおがほころぶ。