【第1話】配属
都会の喧騒が、一歩ごとに遠ざかっていく。
大通りから少し外れ、ビルとビルの隙間にある薄暗い路地。九条玲奈は立ち止まり、スマホの地図アプリと目の前の景色を交互に見比べた。
「ここ......で、合ってるよね?」
思わず独り言が漏れる。
恐る恐る路地裏へ足を踏み入れると、太陽の光がほとんど届かないせいか、ひんやりと湿った空気が肌を撫でた。雨上がりのアスファルトと古びたコンクリートの混じり合った、少しかび臭い匂いが鼻をつく。
本当にこんな場所に、自分の配属先があるのだろうか。
胸の奥で、緊張感がじわりと広がっていく。
「目的地に到着しました。案内を終了します」
静まり返った裏路地に、スマホの無機質な音声ガイドが響く。
玲奈が顔を上げると、目の前には古風な木の扉と、控えめな看板が掲げられていた。
「喫茶......『残灯』......?あれ?探偵事務所って聞いたんだけど......」
聞かされていた名前と違う。しかし、見渡してみても周囲にそれらしき建物は見当たらない。
玲奈は少し迷った末に、意を決してドアノブに手をかけた。
チリリンと、澄んだドアベルの音が響く。
扉の向こうに広がっていたのは、今時の「映え文化」とは一切無縁の、けれど心が落ち着くノスタルジックな空間だった。
右手には使い込まれた木製のカウンター席が六つ、左手には四人掛けのテーブル席が二つ。店内全体が深い木目調のインテリアで統一され、琥珀色の照明があえて薄暗く落とされている。珈琲豆の芳醇な香りが漂い、まるでここだけ外の世界とは切り離され、時間の流れが止まっているかのようだった。
カウンターの奥では、五十代半ばほどの男性が、穏やかな手つきでグラスを磨いていた。
ベルの音に気づくと、彼は柔らかな笑みを浮かべて顔を上げる。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
「あっ、いえ、実は道をお聞きしたくて......」
玲奈は慌てて手を振り、カウンターへ歩み寄ってスマホの画面を見せた。
「このあたりに『黒須探偵事務所』があるはずなんですけど、ご存じありませんか?」
「ああ、でしたらここで合っていますよ。店の奥にある階段を上がっていただいて、突き当たりの両開き扉の部屋になります」
マスターが白い布巾を持った手で、店の奥を案内するように指差す。
玲奈が視線を向けると、照明の落ちた通路の先に、上へと続く木製の階段がひっそりと伸びていた。
「ありがとうございます!」
玲奈がぺこりと一礼すると、マスターは「いえいえ」とでも言うように小さく微笑み返した。
ギシ、とわずかに軋む階段を上りきると、一本の細長い廊下が伸びていた。左右には合計八つの扉が並んでいるが、突き当りの部屋だけ他とは違い、重厚な木製の両開き扉になっている。
玲奈は一度深呼吸をして制服の襟元を正すと、扉の前に立ち、拳を軽く握ってノックした。
コン、コン、コン。
乾いた音が廊下に響くが、中からの返事はない。
もう一度、今度は少し強めに扉を叩いてみる。
コン、コン、コン。
やはり人の気配すらなかった。
「......失礼しまーす」
恐る恐る扉を押し開けると、そこは小ぢんまりとしたモダンな事務所だった。
一階の喫茶店と同様、木材が多用されており、部屋の中央には年季の入ったローテーブル。その両側を挟む形で黒い革張りのソファが向かい合い、ブラインドの隙間から差し込む光の中で、細かな埃がきらきらと舞っていた。
そして、部屋の最奥。
執務用らしき大きな木製デスクの上に無造作に両足を投げ出し、顔に雑誌を被せている男が一人いた。
「......すみませーん」
玲奈は控えめに声をかけた。
しかし、男の胸元が規則正しく上下するだけで、ピクリとも動かない。
これが自分の新しい上司なのだろうか。玲奈は眉をひそめ、今度は腹の底から声を張った。
「すみませーん!」
部屋の空気が少し震えた。
すると、男はようやく「んあ......?」と気だるげな声を漏らし、顔の上の雑誌を雑にどかした。
少しクセのある黒髪を後頭部で無造作に束ねた男が、眠たげに細めた目で玲奈を捉える。
「ここ、『黒須探偵事務所』で合ってますよね?あなたが黒須さんですか?」
「そうだけど......なに?調査依頼?」
男はデスクから脚をゆっくりと下ろし、背もたれに体重を預けたまま、生あくびを噛み殺して尋ねてきた。
「いえ。本日からこちら、『八咫烏外部調査部隊・第10班』へ配属になりました、九条玲奈です!」
玲奈が背筋を伸ばして頭を下げると、男はパチパチと数回まばたきをした。
「あー......新人ね。まあ、そう固くなるなよ。とりあえずそこに座れ」
蓮が椅子から立ち上がると、その背丈は百八十センチを優に超えていた。
白いカッターシャツの上に黒いベストを重ねたスーツスタイルだが、シャツの第一ボタンは外され、着崩したベストが気だるげな雰囲気をさらに漂わせていた。
長身で均整の取れた体躯のせいか、骨が鳴るほど大きな背伸びをするだけですら妙に様になっていた。
玲奈が促されるまま革張りのソファに浅く腰を下ろすと、蓮は両手をポケットに入れながら歩いてきて、向かい側のソファに座り込んで脚を組んだ。
「俺が黒須。黒須蓮だ。今日からお前の上司になるわけだが、できれば『さん』付けはやめてくれ、そんなタチじゃない......研修生を卒業したばかりなんだってな。で、うちのことはどれぐらい聞いてる?どうせ、ろくな話は聞いてないだろうけど」
「えっと......『八咫烏外部調査部隊・第10班』。表向きは探偵事務所を経営。黒須蓮をリーダーとして、三人の調査員で構成される調査部隊。あとは......」
そこまでスラスラと答えてから、玲奈は気まずそうに口をつぐんだ。
実のところ、八咫烏の本部で研修生をしていた頃から、『第10班』に関する芳しい噂はなに一つ聞いていなかった。
曰く、常習的な命令違反。曰く、報告書の慢性的な不提出。配属が決まった瞬間、仲の良かった同期たちが一様に浮かべた「同情と哀れみ」の表情は、今でも脳裏に焼き付いている。
初対面の人間に、ましてや上司になる人間に対して、面と向かって悪評を伝える勇気などあるはずもなかった。
玲奈が視線を泳がせていると、蓮は鼻で笑ってソファの背もたれに寄りかかった。
「まあ、だいたい想像はつくよ。『上の言うことは聞かないし、言われた仕事もやらない連中』。そんなとこだろ?いないところで言われるのは癪だけど、残念ながらだいたい合ってる」
あっけらかんと言い放つ蓮に、玲奈は思わず言葉を失った。
すると蓮は、ふと思い出したようにスッと立ち上がった。
「......っと、悪ぃ。せっかく来た新人に、お茶も出してなかったな。普段こういうのはやらないもんで」
蓮は部屋の隅にある給湯スペースへと向かうと、棚から紅茶の缶と二つのティーカップを取り出し、手慣れた様子でケトルのスイッチを入れた。
白いシャツの袖を軽くまくり上げながら、蓮は湯が沸くのを待つ間に、背を向けたまま静かに語り始める。
「なあ、九条。人間はいつの時代も、超常的な現象や物体と隣り合わせで生きてきた。幽霊やゾンビといった怪談、天使や悪魔などの神話、透視やサイコキネシスを操る超能力者......果ては『座ると死ぬ椅子』や『食べると永遠の命を得る果実』までな。姿形は様々だが、そいつらは確かにそこにあり、人間の進化と共に生まれ続けている。」
先ほどまでの気だるさが嘘のように、低く落ち着いた声が部屋に響く。
唐突に始まったその話は、玲奈が研修所で最初に叩き込まれた講義の内容を彷彿とさせた。
「はい......それが、『オブジェクト』ですよね」
「ああ。そして、それらのオブジェクトを『Track(追跡)』『Retrieve(回収)』『Isolate(隔離)』『Analyze(分析)』『Leverage(活用)』する目的で発足された組織が、『TRIAL』だ」
「それくらい、分かってます」
思わず、玲奈の声に棘が混じる。
そんな初歩的な内容は、研修生時代に一番最初に教わったものだった。それを今さら説教のように語られたことが癪に障り、語気が強くなってしまう。
「だろうな。だがまあ、そうむくれるなよ。最後まで聞け」
カチリ、とケトルのスイッチが切れる音がした。
蓮は少し肩をすくめ、温めておいたポットに茶葉を入れると、沸かしたての湯を静かに注いだ。湯気とともに、茶葉の芳醇で爽やかな香りが事務所の中にふわりと広がる。
「日本支部の『八咫烏』は、研究や利用を担当する研究員と、発見や回収を担当する調査員、オブジェクトや他組織との戦闘を担当する戦闘員に分かれる。俺たち外部調査部隊は、一般社会に溶け込み、オブジェクトを発見し回収するのが仕事だ」
蒸らし終えた紅茶を二つのカップに注ぎ分けながら、蓮は言葉を継いだ。
「そんで、俺らはその外部調査部隊の第10班。上層部からは厄介者扱いされて、周りからは『掃きだめ』と陰口を叩かれる問題児の集まりってわけだ」
蓮は両手にティーカップを持ち、運んでくると、玲奈の前のローテーブルにコツンと置いた。
琥珀色の水面から立ち昇る湯気を見つめながら、玲奈はずっと胸の内にあった疑問を口にした。
「......命令に従わない理由って、なんなんですか?」
蓮は自分のカップを手に向かいのソファに腰を下ろす。ふっと肩をすくめて頭を軽く横に振った。
「命令に従わない、って言われれりゃ確かにそうだが。でも、俺たちは自分たちの『信念』に従って行動してる」
「それはただの言い訳です。八咫烏に所属している以上、規律を守るためにも、命令には従うべきです」
真っ直ぐに言い返す玲奈を前に、蓮はカップをテーブルに置き、真っ直ぐに彼女の目を見た。
「じゃあ質問をしよう。一般人に取り憑いたオブジェクトがいたとして、そいつを取り上げるとその一般人は死んでしまう。オブジェクトの回収と少女の救助、お前はどっちを優先する?」
「私なら、人命を優先します」
「いい心がけだ。だが、上からの命令が『オブジェクト優先』の場合は?それでも人命を優先するって言えるか?」
「それは......」
言葉に詰まった。
組織の一員として規律を守るべきだと頭では思っていても、目の前の命を切り捨てる選択など即答できるはずがない。
「迷うのはまだいい。他の調査部隊の連中は、ほぼ迷わず命令に従うだろう。それが人命を無視することになってもな」
「黒須さんは何があっても人命と優先する......と?」
「いやいや。そんな大層なものじゃないさ。困ってる奴や助けてほしい奴が目の前にいたら、助けたくなるのが人間ってもんだろ?結果として命令違反になり、始末書を書かされ、周りから『掃き溜め』と陰口を叩かれる......まあ、調査員としては間違いなく三流だな」
自嘲気味に笑う蓮を前に、玲奈の心は揺れていた。
目の前の男が言っていることは、人としてあまりにも真っ当で、同時に組織の人間としてはあまりにも危うい。研修生の時に培ってきたプライドが、簡単には頷かせてくれなかった。
「......それでも、私は。八咫烏に所属している以上、規律を守り、命令に従うのが最善だと思います。例え目の前の一人を見捨てることになっても、結果としてより多くの人を助けることになるはずです。」
言い切ったものの、玲奈の声は最初と比べるとすっかり小さくなっていることに、玲奈自身が一番気づいていた。
玲奈は身構えていた。
「ここに来たからには俺らのやり方に従ってもらう」と突き放されると思っていたからだ。
だが、目の前で脚を組んで座っている男は、意外な言葉を口にした。
「ああ、その考えは否定しない。俺らは違うっていうだけだ。まあ、そのうち調査中に考えの相違が出ることもあるだろう。その時は、お前が正しいと思うことをしろ。......でも、仲間を危険な目に遭わせることや、裏切ることは何があっても許さないからな」
射抜くような真剣な眼差しに、玲奈は思わず息を呑んだ。
蓮はふっと表情を緩めると、手元の紅茶を一口飲んでから、玲奈に向かって右手を差し出した。
「話が長くなったな。とりあえずこれからよろしく」
差し出されたその大きな手を見て、玲奈は胸の奥で少しだけ安心していた。
研修生時代に聞いていた噂から、玲奈はとんでもないろくでなし人間が出てくると思っていたが、実際来てみると意外と話の分かる人だと分かった。
「......こちらこそ、よろしくお願いします......」
玲奈は差し出された手を握り返し、二人は固い握手を交わした。




