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『無能とSSS級ボス部屋に追放された底辺配信者、配信切り忘れに気づかず唯一の『概念破壊』で神をワンパンしてしまう 〜今さら戻れと言われても、実家のオムライスが冷めるのでもう遅いです〜』

掲載日:2026/05/19

【短編連載化作品】


【第8話を追記しました】


たくさんの反応をいただき、ありがとうございます!


今回、第8話『世界最強、料理を学ぶ』を追記しました。


すでに第7話まで読んでくださった方は、本文内の


【▼第8話 世界最強、料理を学ぶ▼】


からお読みください。


初めての方は、冒頭から楽しんでいただけると嬉しいです。

「カナタ。お前、今日でクビな」


 世界最高峰ダンジョン《終焉の奈落》。


 そこは、ダンジョンというより――世界の傷口だった。


 空は紫に濁り、雲の奥で雷が枝のように裂けている。


 遠くの大地は赤く脈打ち、割れ目から溶岩が流れていた。


 黒煙が、巨大な獣みたいに空へ立ちのぼる。


 息を吸うだけで、喉の奥が焼けた。


 足元の岩はまだ熱を持っていて、靴底越しにじりじりと伝わってくる。


 中級探索者なら、立っているだけで気絶する。


 上級探索者でも、三十分もいれば魔力酔いで吐く。


 そんな場所の、さらに最深部。


 ボス部屋の扉の前で、俺はそう告げられた。


 言ったのは、人気ギルド《栄光の剣》のリーダー、エドワードさん。


 登録者百万人を超える、超人気ダンジョン配信者でもある。


 俺は、そのギルドで荷物持ちをしていた。


 ついでに、自分でも配信をしている。


 登録者は五人。


 同接も、だいたい五人。


 つまり、全員いつもの人だ。


「お前みたいな無能、これ以上うちにはいらないんだよ」


 エドワードさんの後ろで、配信用ドローンが赤く光っていた。


 あっちの同接は三万人。


 こんな地獄みたいな場所でも、コメント欄だけはやけに軽い。


『ついにクビきたw』

『まあ荷物持ちだしな』

『無能をSSS級に連れてくるなよ』

『エドワード様、判断が早い』

『ざまぁwwスッキリしたわww』


 紫雷が、空を裂いた。


 一瞬だけ、ボス部屋の巨大な扉が白く照らされる。


 その扉は、まるで地獄の口みたいに見えた。


 俺は少し困った。


「ここでですか?」


「ああ、ここでだ」


「でも、この先、ボス部屋ですよ」


「だから何だ?」


 エドワードさんは笑った。


 その笑顔は、完全にカメラ向けだった。


「お前の最後くらい、配信の数字にしてやるよ。感謝しろ」


 その瞬間だった。


 ボス部屋の扉が、内側から軋んだ。


 ぎぎぎぎぎ、と。


 黒い風が漏れ出す。


 さっきまで熱かった空気が、急に冷えた。


 いや、冷えたんじゃない。


 何かに、熱ごと飲み込まれたみたいだった。


 溶岩の赤が、黒く沈む。


 紫の雷が、扉の上で何本も枝分かれする。


 黒煙が渦を巻き、天井のない空へ吸い上げられていく。


 空気が、肌に刺さるくらい重くなった。


 ギルドの仲間たちの顔色が、一瞬で変わる。


「お、おい……予定より早いぞ!」


「魔力反応、計測不能! SSS級を超えています!」


「逃げましょう、エドワード様! 全滅します!」


 扉が開く。


 中から現れたのは、山のような巨体だった。


 灰をまとったような黒い体。


 胸の奥では、溶岩みたいな赤い光が脈打っている。


 吐き出す息は黒煙になり、足を一歩動かすだけで、床の岩が割れた。


 ――《終焉の巨神》。


 世界を滅ぼすと言われている、神話級の最凶ボス。


「ひっ……撤退だ! 転移結晶を使え!」


 エドワードさんは一瞬で青ざめ、懐から結晶を取り出した。


 私怨剥き出しの目で俺を睨み、すれ違いざまに、なぜか俺の背中を強く押した。


「じゃあな、カナタ」


「え」


「無能らしく、足止めくらいして死ね!」


 眩い光が弾ける。


 エドワードさんたちは消えた。


 残されたのは、俺ひとり。


 目の前には、拳を振り上げる終焉の巨神。


 背後には、閉じかけた重い扉。


 そして。


 俺のヘルメットについている小さなランプが、静かに赤く光っていた。


「……あ」


 配信、切れてない。


 俺の個人チャンネル。


 同接五人の、いつもの配信。


 コメント欄が動いていた。


『常連A:え、カナタくん置いていかれた?』

『常連B:これ、普通に殺人未遂では?』

『常連C:エドワード最低すぎるだろ……』

『母:カナタ、ご飯冷めるよ』

『謎の視聴者:……その短剣、まだ使っているのか』


 俺は、少しだけ黙った。


 それから、カメラに向かって律儀に頭を下げる。


「すみません。ちょっとボスの前なので、ご飯はあとで食べます」


『常連A:そこ!?』

『常連B:会話のドッジボールやめろ! 逃げて!?』

『母:なら早く倒して帰ってきなさい』

『常連C:お母さん強すぎるだろwww』

『謎の視聴者:構えろ。来るぞ』


 終焉の巨神が咆哮した。


 床が割れる。壁が震える。


 衝撃波で、空中を漂う配信用ドローンがびりびりと揺れた。


 俺は腰から短剣を抜く。


 錆びた、初心者用の短剣。


 ギルドで支給された、一番安いやつだ。


「これ、一本しかないんだけどな」


『常連A:武器の心配してる場合じゃない』

『常連B:命の心配してくれ!』

『母:帰りに卵買ってきて。十個入りのやつ』

『常連C:母さんだけ完全に日常パート』

『謎の視聴者:……やはり、その構え。規格外か』


 巨神の腕が振り下ろされる。


 隕石が落ちてくるみたいだった。


 でも、俺は動かなかった。


 避けると、後ろの扉まで壊れる。


 それは困る。帰り道が分からなくなって、ご飯の時間に遅れるから。


「スキル」


 俺は短剣を、横に軽く振った。


「――『概念破壊』」


 ただの素振り。


 そのつもりだった。


 次の瞬間。


 巨神の腕が消えた。


 胴体が消えた。


 咆哮が消えた。


 ついでに、ボス部屋の頑丈な天井も消えた。


 地下最深部だったはずなのに、ぽっかりと丸い穴が空き、綺麗な満月が見えた。


「……あ」


 また、やりすぎた。


 手元を見ると、短剣がパキパキと音を立てて粉々になっていた。


「やっぱり、市販の短剣だと一回が限界かぁ」


 コメント欄が、完全に止まっていた。


 数秒後。


『??????????』

『は????????』

『ボスどこ行った?』

『天井も消えたんだが?』

『地下なのに月見えてるのバグだろwww』

『概念破壊って何???』

『母:卵はパックじゃなくて、特売のやつね』

『母さんだけ平常運転で草』

『今の見たやついる!? 切り抜け! 今すぐ切り抜け!』

『おい、なんか同接がバグってるぞ! 五万人超えてる!』

『いや、切り抜きから人流入してきて、今十万いった!!!』

『エドワード、これを無能扱いしてたのかよ!?』


 スマートフォンの通知が鳴り止まない。


 登録者数が、見たことのないスピードで増えていく。


 俺はカメラを真っ直ぐ見る。


「あの……見てくれた人、ありがとうございます」


 ぺこりと頭を下げる。


「今日でギルドを辞めることになったので、これからはソロで荷物持ち……じゃなくて、普通にダンジョン配信をしようと思います」


『荷物持ちやめろw』

『お前が荷物持たれる側だろ』

『即チャンネル登録した』

『伝説の始まりを見たわ……』

『母:卵忘れないで』


「はい。卵は買って帰ります」


 俺はそう言って、配信を切った。


 ◇


 帰り道。


 地上に出ると、王都は少し騒がしかった。


 どうやら俺の配信が、あちこちで切り抜かれているらしい。


 街角の巨大モニターにも、さっきの映像が流れていた。


『無能荷物持ち、神話級ボスを一撃』


『配信切り忘れで発覚。世界唯一の概念破壊か』


『人気ギルド《栄光の剣》に殺人未遂疑惑』


 物騒な見出しが並んでいる。


 俺はそれを横目で見ながら、いつもの地元スーパーに入った。


 卵売り場の前に立つ。


「十個入り……特売……」


 タイムセールの残り、最後の一パックだった。


 ホッとして手を伸ばす。


 同時に、隣から別の手が、目にも留まらぬ速さで伸びてきた。


 黒い高級レザーの手袋。細い指。


 フードを深くかぶった人物が、俺の手をピタッと止めてこちらを見た。


「……君が、カナタか。身のこなしで分かった」


「あ、はい。そうですけど」


 その人が何か重大な宣言をしようと口を開いた瞬間、俺のスマホが激しく震えた。


『母:卵買えた?』


「あ、すみません。今、卵がは最後の一パックで揉めてて」


 俺はフードの人を見た。


「あの……半分こします? 僕が五個で、そっちが五個」


「……は?」


 フードの人は、完全にフリーズした。


「世界最凶ボス《終焉の巨神》を塵にした男が……特売の卵を半分こ、だと?」


「はい。十個入りですし、パックをハサミで切ればいけます」


「……」


 沈黙の後、フードの奥から「くっ……あはは!」と、鈴を転がすような笑い声が漏れた。


「いや、いい。君に譲ろう。じつは私も、今日の夜はオムライスにする予定だったのだが、君の家庭の平和には勝てないな」


「いいんですか? ありがとうございます」


「ああ。その代わり、あとで少し話をさせてほしい。壊れない短剣の件も含めてね」


「助かります。毎回壊れると、お小遣いが持たないので」


 俺たちがそんな会話をしていると、周囲の買い物客が徐々にざわつき始めた。


「おい、あれ……世界一位の探索者、レイナ・クロノスじゃないか!?」


「え、本物!? なんで特売日に王都のスーパーにいるんだよ!?」


 レイナさんは、人差し指を綺麗に唇に当てて「シー」と微笑む。


「では、また連絡する。オムライス、楽しんで」


 風のように去っていく世界一位の背中を見送りながら、俺は無事に卵をカゴに入れた。


 これで今日のオムライスは守られた。


 ◇


 翌日。


 王都のカフェで卵サンドを食べていると、店のドアが激しく開き、エドワードさんたちが飛び込んできた。


 全員、顔が泥のようにひどい。一睡もしていないのだろう。


「カナタァァァ!」


 エドワードさんは、店中に響く声で叫ぶと、俺の前にスライディングするような勢いで激しく土下座した。


 額が床にゴンと鈍い音を立てる。


「戻ってきてくれ! 昨日のは冗談だったんだ!」


「冗談でボスの前に置いていったんですか?」


「ち、違う! 演出だ! 配信を最高に盛り上げるためのドッキリ演出だったんだよ!」


 彼の端末の画面は、真っ赤な数字で埋め尽くされていた。


 《栄光の剣》は大炎上。スポンサーは秒速で一斉撤退。ギルド資格は無期限停止。


 配信を切り忘れたせいで、悪行のすべてが世界に生中継されたのだ。当然の結果だと思う。


「頼む! お前が戻ってきて『あれは演出でした』って一本配信してくれれば、全部丸く収まるんだ! 頼む、頼むカナタ!」


 俺は、卵サンドを一口食べた。


 マヨネーズが効いていて、昨日買った特売の卵はやっぱり美味しい。


「すみません」


 俺は、極上の笑顔で言った。


「僕、無能なので。足手まといになりたくないんです」


「そんなこと言うな! お前は我がギルドの、いや世界の至宝だ!」


「でも、僕は荷物持ちですから」


「荷物持ちでいい! いや、俺がお前の荷物持ちをやる! 給料も百倍出す! だから戻ってくれぇ!」


 プライドを全て捨てて床に這いつくばる元上司。


 俺は少しだけ考えてから、きっぱりと首を横に振った。


「嫌です」


「な、なんでだ!?」


「エドワードさんの荷物、無駄に重いので。あと、態度も重いです」


「ひっ……!」


 店内が、水を打ったように静まり返った。エドワードさんの顔が、絶望で真っ青になる。


 その時、俺のスマートフォンがピコン、と小気味いい音を立てた。


 画面に映し出されたのは、昨日のフードの人――レイナさんからの直接メッセージ。


『壊れない短剣を用意した。今日、私のギルドで待っている。

 ――世界一位探索者、レイナ・クロノス』


「あ、世界一位の人から連絡だ」


 俺が呟いた画面を、エドワードさんが横から盗み見てしまう。


「レ……レイナ・クロノス!? 世界トップギルドの……!? な、なんでお前がそんな超大物と繋がって――」


「じゃあ、そういうことなので」


 俺は伝票を持って席を立つ。


 背後からは、エドワードさんの「あああああああ!」という、魂の抜けたような叫び声が聞こえていた。


 店を出ると、カラリと晴れた青空が広がっている。


 通知画面には、配信チャンネル登録者数「百万人突破」の文字。


 そして、母からの最新メッセージ。


『卵ありがとう。今日はオムライスです。ケチャップでハート描いてあげるね』


 俺はふっと笑った。


 ギルドを追放された。


 配信も切り忘れた。


 ボス部屋の天井も消した。


 世界一位の探索者と、卵の奪い合いもした。


 色々あった。


 でもまあ。


 帰れば、大好物のオムライスが待っている。


 それなら、これ以上ないくらい、悪くない一日だと思った。


 元・無能荷物持ち。


 底辺配信者カナタの、世界を揺るがす本当の冒険は。


 母さんのオムライスを、お腹いっぱい食べてから――たぶん、始まる。


(第1話・完)




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


【▼ここから第2話▼】


第2話 世界一位の探索者、実家で正座する


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




 数日前の配信事故は、いまだに世界中のニュースや切り抜き動画をにぎわせていた。


『終焉の巨神、消滅』


『配信切り忘れで神殺し発覚』


『無能荷物持ちとは何者か』


 ネットは大混乱。


 探索者連盟の緊急会議では、青ざめた幹部たちが「国家級の危険存在」「人類の災厄になり得る」と、カナタを危険視し始めていた。


 各国の探索者ギルド。


 王都政府。


 軍部。


 誰もが、あの日の映像を何度も見返している。


 だが、その頃――。


「母さん、このオムライス、今日ちょっとケチャップ多め?」


「ご飯中にスマホ見ないの」


 当の危険存在は、実家で朝ご飯を食べていた。


 カチリ、と小気味いい音を立てて、おたまが鍋の縁を叩く。


 カナタのスマホは、国家安全保障局からの【最重要警告】や、元リーダーのエドワードからの【本当にすまなかった頼むから戻ってきてくれ】という必死の通知で、ジジジジジ! と机の上で鳴りっぱなしだった。


 だが、母親の手によって画面は無慈悲に裏返される。


「あ、ごめんなさい」


 世界の危機よりも、我が家の「ご飯中のスマホ禁止」が優先されていた。


     *


 一方その頃。


 世界第一位探索者レイナ・クロノスもまた、その映像を見ていた。


 終焉の巨神。


 討伐推定戦力は、S級ギルド五十組。


 国家級戦力の投入が前提。


 本来なら、人類が総力を挙げてようやく挑む怪物だ。


 その怪物が――。


 一瞬で消えた。


「……ありえない」


 レイナは映像を巻き戻す。


 もう一度見る。


 さらにもう一度見る。


 何度見ても、結果は変わらない。


 錆びた短剣を軽く振っただけ。


 それだけで、終焉の巨神は跡形もなく消えていた。


 しかも。


『母:卵買ってきて。十個入りのやつ』


「……なぜそこで卵なんだ」


 レイナは思わず呟いた。


 そして、さらに映像を進める。


 カナタは、世界を壊しかねない力を使った直後に、特売の卵を買う話をしていた。


 その後、王都のスーパーで偶然会った時もそうだった。


 世界が大混乱している中、彼は本気で最後の卵パックを心配していた。


「……分からない」


 強すぎる力を持つ者は、たいてい歪む。


 力に酔う。


 孤独になる。


 誰かを見下す。


 あるいは、自分を特別だと思い込む。


 だが、カナタ・ミナセは違った。


 神話級ボスを消し飛ばしたあとで、母のオムライスを心配していた。


 レイナはしばらく黙り込む。


 そして、静かに立ち上がった。


「……もう一度」


 レイナは、スーパーで見た青年の顔を思い出す。


 特売の卵を前に、本気で悩んでいた男。


 神話級の怪物を消し飛ばした直後とは、とても思えなかった。


「直接会って、確かめるしかない」


 彼が本当に危険なら、自分が止める。


 だが、その前に。


 世界が彼を恐れて壊すより先に、守る必要がある。


 レイナは黒い外套を手に取り、執務室を出た。


     *


 そんな平和なミナセ家の前に、黒塗りの高級車がぴたりと停まった。


 車から降りてきたのは、漆黒の外套をまとった世界第一位探索者、レイナ・クロノス。


 周囲を警戒する私服姿の精鋭護衛たちを従え、彼女はかつてないほどの緊張感の中にいた。


(ここが、世界を揺るがす《概念破壊》の保有者の拠点……?)


 見上げるのは、ごく普通の木造二階建て一軒家。


 玄関先には小さな家庭菜園のプランター。


 ベランダには、初夏の風にはためくバスタオル。


 あまりにも長閑な日常の光景と、彼が秘める規格外の力とのギャップに、レイナは額に冷汗を流しながら、意を決してインターホンを押した。


 ピンポーン。


 ガチャ、と音を立てて木製のドアが開く。


 現れたのは、エプロン姿のカナタの母親だった。


「……世界第一位探索者、レイナ・クロノスです。本日はカナタ・ミナセ氏の――」


「はいはい、こんにちは。外は暑かったでしょう。中に入りなさい」


「え」


「あ、靴はちゃんと揃えてね」


「……っ」


 衝撃だった。


 母親は、世界一位という肩書きにも、レイナの身体から無意識に漏れ出ていた圧にも、一ミリも反応しなかった。


 それどころか、ただの近所の子供を迎え入れるように、玄関の靴の乱れを最優先した。


「……は、はい」


 レイナは気圧されるまま、これまでの人生で一番綺麗に、つま先を揃えて靴を脱いだ。


 リビングの畳スペースに通されたレイナは、瞬時に周囲を観察する。


(不自然だ。結界も監視装置もない。……いや、あえて何も置かないことで、逆にこちらの出方を探る罠か……?)


 いつでも動けるよう全身の神経を研ぎ澄ますレイナ。


 だが、お母さんの「そこに座って待っててね」という、あまりにも自然なひと言に、なぜか抗うことができなかった。


 気づけば、外套の裾を畳の上に整え、完璧な正座を決めていた。


「あ」


 カナタが麦茶を置きながら、ぱちりと目を丸くする。


「スーパーの……卵の人!」


「卵の人ではない」


 レイナは即座に否定した。


「世界第一位探索者、レイナ・クロノスだ」


「あ、すみません」


「……だが」


 レイナは少しだけ視線を逸らした。


「先日は、その……まともに話ができなかった」


「ああ、卵のことで?」


「違う」


「やっぱり気にしてたんですか」


「違うと言っている」


「気にしますよね。特売でしたし」


「違う」


「しかも、最後の一パックでしたもんね」


「だから違う。そういう問題ではない」


「じゃあ……どうしたんですか、そんなところで正座して」


「……私が好きでしているわけではない。だが、嫌でもない」


「そうなんですね」


「納得するな」


 すでに主導権は完全にミナセ家に握られていた。


 レイナはコホンと咳払いをして、乱れかけた表情を引き締める。


 今度こそ、国家の命運に関わる本題を切り出した。


「カナタ君。単刀直入に言う。君の《概念破壊》は危険すぎる。世界の上層部は君を恐れている。最悪の場合、未知の脅威として討伐対象にしようとする者も出るだろう」


「えぇ……めんどくさいなぁ」


「だから、私のギルドに来い。私が君を保護する。他国の干渉からも守る」


 そう言って、レイナは懐から一本の短剣を取り出し、畳の上に置いた。


 黒銀に輝く、希少魔鉱石で作られた短剣。


 見ただけで分かる。


 先日まで使っていた安物とは、まるで違う。


「これは我がギルドの秘蔵だ。どんな衝撃にも耐える。絶対に壊れない」


 その瞬間、カナタの目がぱっと輝いた。


「あ、壊れない短剣! 助かります。先日の戦いで一本折っちゃったんですよ」


「……そこか?」


「はい。通販で買ったやつ、安くなかったので」


「神話を冠する巨神を殺したことより、通販の短剣が折れたことを気にしているのか……?」


「だって、短剣ってまともに買うと高いじゃないですか。今月ピンチなんです」


「……なるほど。君はやはり、あらゆる常識が通用しない危険な男だ」


「どこがですか?」


 レイナが必死に構築しようとするシリアスな世界観が、カナタのゆるい空気によって、ボロボロと音を立てて削られていく。


「はい、お待たせー。お喋りはそこまでね」


 絶妙なタイミングで、お母さんがお盆を持ってやってきた。


 テーブルに置かれたのは、ふんわりと湯気を立てる、出来立てのオムライス。


 黄金色の卵の上には、ケチャップで少し不器用に、けれど温かみのある『ようこそ』の文字が書かれていた。


 香ばしいバターと甘酸っぱいトマトの香りが、リビングにふわりと広がる。


「いえ、私は今、国家安全保障に関わる極めて重大な話を――」


「難しいお話は、ご飯を食べてからにしなさい」


「しかし、これは世界のパワーバランスが――」


「空腹で話し合うと、ろくな結果にならないのよ。さあ、冷めないうちに。スプーン、はい」


「……はい」


 またしても主婦の正論に全面降伏し、レイナは大人しくスプーンを握らされた。


(まさか、何らかの高度な精神操作魔術が施された料理か……?)


 警戒を怠らず、しかし逃れられぬ運命を前に覚悟を決めて、オムライスを小さく一口、口に運ぶ。


 その瞬間。


 レイナの時が、止まった。


 幼い頃から天賦の才を見出され、「人類の希望」として厳しく育てられてきた。


 彼女にとって、食事とは戦うための栄養を補給する作業に近かった。


 ダンジョンを攻略する日々の中で口にするのは、味のしない高栄養バーと、苦い回復薬ばかり。


 誰かが自分のためだけに作ってくれた、湯気の立つ、温かい手料理の記憶なんて、彼女の孤独な人生には、ほとんど存在しなかった。


 口いっぱいに広がる、チキンライスの旨味とケチャップの酸味。


 それを優しく包み込む、バターが香るふんわりとした卵の温もり。


 ぽろり、と。


 レイナの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


 当の本人が、一番驚いたように目を見開いている。


「……おいしい」


「レイナさん、泣いてます?」


「泣いていない。これは……湯気だ」


「あらあら、湯気なら仕方ないわね」


 お母さんは優しく笑いながら、レイナのコップに冷たい麦茶を注ぎ足した。


「たくさんあるから、いっぱい食べなさい」


「……はい」


 そこからのレイナは、文字通り世界一位だった。


 常人には視認できないほどのスプーンさばきで、背筋をピンと伸ばした正座のまま、次々とオムライスを口に運んでいく。


「レイナさん、さっき言ってた僕が危険存在だとか、国家安全保障の件はどうするんですか?」


 カナタが尋ねると、レイナは頬を少し膨らませたまま咀嚼し、真顔で言い放った。


「今はそれどころではない。オムライスの前では国家安全保障も一時停止だ」


「いいんですか、世界一位がそれで」


「いい。これは極めて合理的な優先順位の問題だ」


「国家よりオムライスが上なんですね」


「少なくとも、このオムライスの前ではそうだ」


 短剣をテーブルの端に追いやったまま、レイナはあっという間に一皿を平らげた。


 ふぅ、と満足そうに、張り詰めていた肩の力を抜いて息を吐く。


 そして、再び真剣な眼差しでカナタを見つめた。


「カナタ君。前言を撤回する」


「え?」


「君の力は確かに世界を滅ぼせる。だが……この家が、この温かいお母さんが、君を『人間』として世界につなぎ止めている。それを理解せず、君を管理しようなど、世界の傲慢だった」


「なんか、急に話が大きくなりましたね」


「私は、この家のオムライスを守る側につく。それが、結果的に世界を一番平和に守るということだ」


「そこですか!? 目的が食べ物ベースにすり替わってますよ!」


 カナタのツッコミがリビングに響き渡った、その時。


 キッチンから、食器を片付ける小気味いい音と共に、お母さんの声が飛んできた。


「はーい、お喋りしてないで、お皿をキッチンに下げちゃってねー」


 その言葉を聞いた瞬間、二人の身体が反射的に動いた。


「「はい!」」


 世界一位と、神をワンパンした男が、揃って皿を持って立ち上がる。


 この家の日常ルールの前では、世界の序列も、SSS級の異能も、あまり意味がなかった。


「あ、レイナちゃん。おかわり、タッパーに包んで持って帰る?」


 お母さんの何気ないひと言に、レイナの瞳が今日一番の鋭さで光った。


「……っ! お願いします」


「レイナさん、目がガチすぎますって」


「黙れカナタ君。このオムライス……世界を救える」


「だから、うちの普通のオムライスですよ?」


「冷める前に食べるのが、一番よー」


 世界が大騒ぎしているその裏で。


 世界一位の探索者は、すっかりミナセ家の味を覚えてしまったのだった。


(第2話・完)




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


【▼ここから第3話▼】


第3話 世界一位探索者、私は女だ


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 数日前の「神殺し配信事故」以降。


 世界各国では、カナタ・ミナセへの警戒レベルが過去に前例のない一線まで引き上げられていた。


 王都政府、軍部、探索者連盟。


 あらゆる権力機関の最高会議室では、連日連夜、青ざめた幹部たちによって彼への対策が議論されている。


「監視対象、危険度SSS」


「国家崩壊級危険存在だ。最悪の場合、人類の災厄として討伐も辞さない構えを――」


 緊迫した空気の中、世界が彼をどう扱うべきか頭を抱えていた、その時。


 会議室の最上席に座る世界第一位探索者、レイナ・クロノスがすっと手を挙げた。


「討伐は反対だ」


 誰もが息を呑む。


 人類最強が、ついに重い口を開いたのだ。


「な、なぜですかクロノス卿!?」


 幹部が恐る恐る尋ねる。


 レイナは少し考え、


 そして大真面目な顔で言った。


「……あいつは、特売卵を優先する男だからだ」


 会議室の思考が停止した。


「は?」


 誰かの間抜けな声だけが響く。


     *


「ねえ、母さん」


「なに?」


「レイナさんって、すごい人ですよね」


「そう?」


「世界一位なのに全然偉そうじゃないし」


「ふーん」


「昨日だって、ちゃんと靴揃えてましたし」


「うん」


「正座も綺麗でしたし」


「うん」


「中性的な綺麗なお顔してますけど、ああいう礼儀正しい男の人って格好いいじゃないですか」


「ぶふっ!!」


 ミナセ家のリビングで、お母さんが盛大に麦茶を吹き出した。


「ちょっ、汚いですよ」


「あんた今、なんて?」


「え?」


 カナタは不思議そうに首を傾げる。


「だからレイナさんです」


「その後」


「理想の男性像って話ですか?」


「あんた……本気で言ってるの?」


「はい?」


「本気なのね……」


 お母さんは遠い目をした。


 世界が人類の災厄として恐れている男は、世界一位の性別という極めて初歩的な部分で盛大な勘違いをしていた。


     *


 その頃。


 ミナセ家の外の植え込み。


 元ギルドマスター、エドワードは息を潜めていた。


 スポンサー離脱。


 ネット炎上。


 ギルド崩壊寸前。


 すべてはカナタ追放から始まった。


(私は間違っていなかった)


 エドワードは歯を食いしばる。


(あの時点では最善だった)


(だが結果が全てだ)


(このままでは私も、ギルドも終わる……!)


 その時だった。


 カツ、カツ、と規則正しい足音が近付いてくる。


 現れたのは美少女だった。


 私服姿。


 両手にはピンク色のタッパー。


(……誰だ?)


 エドワードが眉をひそめる。


(いや待て)


(クロノス卿に似ている……?)


(妹か?)


(まさか本人――)


 即座にその考えを否定した。


(あり得ん)


(あの孤高の男が、あんな私服でタッパーを持つものか)


 そして。


 玄関が開く。


「……どちら様ですか?」


「私だ。レイナだ」


「えっ」


 カナタが固まる。


「……あ、レイナさんの妹さんですか?」


「違う」


 レイナは即答した。


「本人だ」


「でも」


「私は女だ」


「はい」


「信じていないな?」


「信じてますよ」


「では私は?」


「レイナさんの妹さんです」


「性別は?」


「女性です」


「ではレイナは?」


「男性です」


「だから違う!!」


 エドワードは植え込みの中で額を押さえた。


(あの美少女が……世界一のクロノス卿だと……?)


 開いた口が塞がらない。


 いや、塞がらないどころか、本当に口を開けたまま固まっていた。


「ちっ、蚊が……」


 慌てて口元を払う。


 一つだけ分かった。


 会話の内容は意味不明だ。


 しかし――


 世界最強とカナタは異常なほど距離が近い。


 それだけは確かだった。


     *


「あら、レイナちゃんいらっしゃい」


「こんにちは、お邪魔します」


 リビングへ通されたレイナは、


 どこか誇らしげな顔で鞄を開いた。


「昨夜、オムライスについて調べた」


 ドン。


 机に積まれる本。


 さらにノート。


 本十冊。


 ノート三冊。


「お母様」


 レイナは真剣な顔で言う。


「これが失敗確率をゼロにする工程表だ」


「読んでくれ」


「読まない」


「なぜだ」


「それ、読んだら美味しくなる?」


「たぶん……」


「じゃあ後で」


「なるほど」


 窓の外。


 エドワードは頭を抱えた。


(納得するな世界一位ィィィ!!)


「レイナちゃん」


「はい」


「玉ねぎ切って」


「はい」


「卵割って」


「はい」


 世界最強は、その後も何の疑問も抱かず主婦の指示に従った。


やがて。


 レイナの努力の結晶は完成した。


 完成したのだが――。


「なぜだ……」


 レイナは皿の上を見つめた。


 そこには黒かった。


 とても黒かった。


 オムライスとは思えないほど黒かった。


「材料は同じ」


 レイナが震える声で呟く。


「火加減も計算した」


「工程も完璧だった」


「なぜ黒い」


「火が強かったんじゃない?」


 お母さんがあっさり言った。


「だが資料には――」


「資料よりフライパン見なきゃ」


「……」


 世界最強が黙った。


 レイナはしばらく黒焦げを見つめ、


 やがて静かに皿を持ち上げる。


「失敗だ」


 その声は冷たかった。


「結果が出なかった」


「なら価値はない」


 ゴミ箱へ向かおうとする。


 それを見たカナタが首を傾げた。


「なんで捨てるんですか?」


「食べられないからだ」


「そうですか?」


 カナタはスプーンを伸ばした。


「待て」


「まあまあ」


 ザクッ。


 黒い部分を少し避ける。


 中のチキンライスをすくう。


 ぱくり。


 もぐもぐ。


 ごくん。


「うん」


「どうだ」


「普通に美味しいです」


 レイナが固まった。


「普通に?」


「焦げてるの表面だけですよ」


 もう一口。


「ほら」


「中は全然大丈夫です」


「……」


「それに」


 カナタは笑った。


「僕のために作ってくれたんですよね」


「ち、違う」


「え?」


「お母様に教わりたいからだ」


「なるほど」


「……」


「でも僕の分も作ってくれたんですよね」


「それは……そうだが」


「だったら十分です」


 レイナは言葉を失った。


 完璧じゃなかった。


 失敗した。


 だから価値がない。


 ずっとそう教えられてきた。


 だが目の前の男は違った。


 結果ではなく。


 失敗でもなく。


 作ろうとしたことを見ていた。


「そうそう」


 お母さんが頷く。


「料理ってね」


「上手に作るためじゃなくて」


「誰かに食べてもらうために作るのよ」


 レイナは何も言えなかった。


 胸の奥が妙に熱い。


 昨日オムライスを食べた時とも少し違う。


 どう扱えばいいのか分からない感情だった。


「じゃあ」


 お母さんが笑う。


「来月また作りましょ」


「……え?」


「今度はハンバーグ」


「ハンバーグ」


「好き?」


「好きです」


 即答だった。


「じゃあ来月ね」


「はい」


 その瞬間。


 カナタが満面の笑みで指をさした。


「ほら」


「何がほらだ!!」


 レイナのツッコミが炸裂した。


「だから私は女だと――」


「レイナちゃん」


「はい」


「ハンバーグ好き?」


「好きです」


「来月来る?」


「はい」


「ほら」


「だから何がほらだ!!」


「男の約束ですね」


「違うと言っている!!」


 完全に後手だった。


 カナタは満足そうに頷く。


「男同士、来月も頑張りましょう」


「話を聞け!!」


     *


 窓の外。


 植え込みの中。


 エドワードは冷や汗を流していた。


(……見たか)


 見てしまった。


 あのレイナ・クロノスが。


 世界最強の探索者が。


 一人の男のために料理を作り。


 失敗して落ち込み。


 来月の約束まで取り付けている。


(あり得ん)


(あのレイナ・クロノスだぞ……?)


 誰にも心を開かず。


 誰にも媚びず。


 誰にも従わない。


 人類最強。


 孤高の探索者。


 そのはずだった。


(なるほど)


 エドワードの脳内で全てが繋がる。


(そういうことか)


 カナタ。


 あの男こそが鍵。


 レイナの弱み。


 レイナを動かす唯一の存在。


 利用できる。


 いや。


 利用しなければならない。


(見えたぞ)


 エドワードの口元が吊り上がる。


(レイナ・クロノス……)


(お前の弱みが)


     *


 夜。


 ミナセ家の玄関。


「レイナちゃん、また来なさいね」


「……はい」


「レイナさんの妹さんも、また来てくださいね」


「だから私だ!!」


 世界一位の虚しいツッコミが夜空に響く。


 その様子を見ながら。


 植え込みの闇の中で。


 エドワードは勝利を確信していた。


(カナタ・ミナセ)


(お前が鍵だ)


(お前を使えば、レイナも動く)


(ギルドも救われる)


(私の地位も戻る)


(――勝った)


 その瞬間。


 ガラリ。


 窓が勢いよく開いた。


「レイナちゃーん!」


 お母さんだった。


「忘れ物ー!」


「っ!?」


「タッパーのフター!」


「あっ!」


 世界最強が慌てて引き返す。


「す、すまないお母様!」


「気をつけて帰るのよー!」


「はい!」


 タッパーの蓋を受け取る世界最強。


 それを見ながら。


 エドワードは満足そうに頷いた。


 何一つ理解していない顔で。


 静かに闇へ消えていった。


(第3話・完)




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


【▼ここから第4話▼】


第4話 世界最強、最悪のケースを想定する


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 元ギルドマスター・エドワードは、決して無能ではなかった。


 むしろその逆である。


 状況を分析し、人を観察し、最も合理的な勝率を弾き出す。


 その能力だけなら、探索者連盟の幹部たちすら上回ると自負していた。


 だからこそ――。


 カナタ・ミナセを追放した判断も、間違いではなかったと今でも思っている。


 あの時点では最善だった。


 少なくとも、そう判断できる材料しか存在しなかった。


 問題は結果だ。


 結果だけが最悪だった。


 スポンサーは離脱した。


 世論は炎上した。


 ギルドは崩壊寸前。


 そして何より――。


 追放した荷物持ちが、神をワンパンした。


「……馬鹿げている」


 エドワードは呟いた。


 落ちぶれた執務室。


 机の上には大量の資料が並んでいる。


 カナタの行動記録。


 配信映像。


 探索者連盟の発表。


 そして。


 昨日、自らの目で見た光景。


 ミナセ家。


 世界最強。


 オムライス。


 ハンバーグ。


 意味不明な単語ばかりだ。


 だが。


 その中で一つだけ、確信したことがある。


(クロノス卿ほどの人間が、あそこまで一人の男に心を許している)


 レイナ・クロノス。


 世界第一位探索者。


 誰にも媚びない。


 誰にも従わない。


 誰にも心を開かない。


 孤高の英雄。


 そのはずだった。


 だが昨日見たレイナは違う。


 ミナセ家のリビングで笑い。


 料理を作り。


 来月の約束を交わしていた。


(感情の揺らぎは交渉における最大の隙だ)


 エドワードは口元を吊り上げた。


 レイナ本人は気付いていない。


 だが。


 第三者だからこそ見えるものがある。


(見えたぞ、クロノス卿)


(お前の弱みが)


 そして。


 弱みがあるなら利用できる。


 利用できるなら勝てる。


 エドワードは立ち上がった。


「――まだ終わっていない」



 王都。


 探索者連盟本部。


 最上階。


 世界第一位探索者専用執務室。


「――お通ししろ」


 受付職員が緊張した顔で頷く。


 今のエドワードは落ちぶれている。


 だが腐っても元大手ギルドマスターだ。


 まだ完全に影響力を失ったわけではない。


 数分後。


 重厚な扉が開いた。


 デスクの奥に座るレイナ・クロノス。


 相変わらず圧倒的だった。


 ただ座っているだけなのに。


 部屋全体を支配している。


 人類最強。


 その言葉がよく似合う。


 だが。


 エドワードは臆さない。


 彼もまた、交渉の世界では一流だった。


「単刀直入に申し上げます、クロノス卿」


 スマートな笑み。


 完璧な姿勢。


 完璧な声量。


「カナタ・ミナセを、私のギルドへ戻します」


 レイナの眉がわずかに動く。


「……何?」


「奴の扱いを最も理解しているのは私です」


 エドワードは続ける。


「ギルドに戻せば管理できる」


「保護もできる」


「他国の干渉も防げる」


 そして。


 最後の一言を置いた。


「あなたも、安全に奴を独占できる」


 沈黙。


 数秒。


 レイナは静かに答えた。


「断る」


 即答だった。


 エドワードは内心で笑う。


 予想通りだ。


 感情的な拒絶。


 つまり図星。


 だから次のカードを切る。


「……なぜです?」


 レイナは腕を組んだ。


 脳裏に浮かぶのは昨日の光景。


 オムライス。


 お母様。


 そして。


 ――来月のハンバーグ。


「あいつがどこかのギルドに所属すれば拘束される」


「私の重要な予定に支障が出る」


「よって断る」


 エドワードは確信した。


(やはりそうだ)


(あそこまで執着する理由は一つ)


(カナタ・ミナセか)


 そして彼は最後の一手を放つ。


「……本当に、それでいいのですか?」


 眼鏡を押し上げる。


「今、この瞬間」


「カナタがどこで何をしているか把握していますか?」


 レイナは答えない。


 その沈黙だけで十分だった。


 レイナは答えなかった。


 それだけで十分だった。


(やはり把握していない)


(無防備だ)


(隙だらけだ)


 エドワードは静かに畳み掛ける。


「奴は神をワンパンする規格外です」


「ですが同時に、あまりにも無警戒だ」


「もし他国の工作員が接触したら?」


「もし暗殺ギルドが先に確保したら?」


「もし国家が囲い込みに動いたら?」


 レイナの瞳がわずかに揺れた。


「……」


「取り返しがつかなくなってからでは遅い」


 エドワードはそこで口を閉じる。


 有能な交渉人は語りすぎない。


 相手に考えさせる。


 自分で結論へ辿り着かせる。


 それが最も強い。


「……私は忠告しました」


 完璧な一礼。


 そして退室。


 扉が閉まる。


 執務室に静寂が落ちた。



(他国の工作員……)


(暗殺ギルド……)


(無警戒……)


 レイナは考える。


 そして。


 最悪のケースを想定した。


 それが彼女の仕事だった。


 世界最強である前に。


 彼女は世界を守る側の人間だ。


 だから。


 常に最悪を考える。


 直後。


 レイナの脳内でシミュレーションが始まった。



『わあ』


『特売卵だ』


 カナタが嬉しそうにカゴを持つ。


 その背後。


 黒服の工作員。


『今だ』


『確保しろ』


『カナタ・ミナセを連行する』


『え?』


 ガシッ。


『あっ』


 そのまま連れ去られるカナタ。



 さらに未来。



『ごめんなさいね、レイナちゃん』


『え?』


『カナタがいなくなっちゃったから』


『来月のハンバーグ、中止なの』



「……っ!!」


 レイナは立ち上がった。


 冷や汗が流れる。


 まずい。


 非常にまずい。


 国家転覆?


 暗殺組織?


 そんなものはどうでもいい。


 問題はその先だ。


 実家ハンバーグが消滅する。


 それだけは許されない。


 断じて許されない。


「総員、第一種戦闘配置!」


 通信機を掴み叫ぶ。


 直後。


 執務室の扉が吹き飛びそうな勢いで開いた。


「クロノス卿!?」


 直属精鋭部隊隊長。


 世界最強がここまで焦った顔をするのを初めて見た。


 隊長の背筋が凍る。


「あなた様が応援を要請するなど……」


「何が起きたのですか!?」


「最悪のケースを想定する」


「最悪……!」


「他国工作員」


「国家級暗殺組織」


「あるいはそれ以上」


 隊長の顔色が変わった。


「目標地点は!?」


 レイナは外套を翻した。


 人類最強の眼光。


 国家存亡級の覚悟。


 そして。


「――特売コーナーだ」


 沈黙。


「……はい?」


「特売コーナーだ」


「コードネームですか?」


「違う」


「違うのですか!?」


「特売コーナーだ」


 レイナは断言した。


「奴は必ず特売へ向かう」


「間違いない」


「急ぐぞ」


「りょ、了解ッ!!!」


 隊長は震えた。


(特売コーナー……)


(そうか……!)


(最高機密作戦区域の隠語だな!?)


 かつての会議を思い出す。


『あいつは特売卵を優先する男だからだ』


 あの発言。


 伏線だったのか。


 隊長は戦慄した。



 数分後。


 探索者連盟本部。


 完全武装の精鋭部隊。


 黒塗り装甲車。


 緊急出動。


 王都中に警報が鳴り響く。


 国家危機レベルの対応だった。



 本部ビルの影。


 それを見上げる男がいる。


 エドワード。


 彼の口元には勝利の笑み。


(やはり人は感情で動く)


(英雄も王も例外ではない)


(レイナ・クロノスですら同じだ)


 自分の分析。


 自分の交渉。


 自分の誘導。


 全てが完璧だった。


(私の言葉一つで世界最強が動いた)


(やはり読みは正しかった)


(レイナ・クロノスはカナタを放置できない)


(これで世界最強を味方につけられる)


(あとは私がカナタを説得するだけだ)


 完璧な勝利。


 完璧な未来。


 そう信じて疑わない。


 エドワードは静かに呟いた。


(――勝った)



一方その頃。


 郊外の大型ホームセンター。


「えーっと」


 カナタは買い物メモを見る。


「トマトの肥料」


「洗剤」


「あ」


 特売コーナーだった。


 赤玉卵が山積みになっている。


「安い」


 カナタは迷わずカゴに放り込む。


「これで母さん喜ぶな」


(第4話・完)




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


【▼ここから第5話▼】


第5話 世界最強、特売コーナーへ突撃する


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 郊外にある大型ホームセンター『ディアイワイ・オウコク』は、のどかな土曜日の熱気に包まれていた。


「ええっと、次は……」


 カナタ・ミナセは、母親から渡された手書きの買い物メモを熱心に見つめていた。


 使い込まれた買い物カゴの中には、すでに目的の品である『トマトの肥料』と、本体・詰め替え用セットで298円という破格の安さだった『お徳用洗剤』が綺麗に収まっている。


 そして今、カナタが足を止めたのは、店舗の中央に設置された臨時特売コーナーの前だった。


 山積みにされた新鮮な赤玉卵のパック。


 その上には、


『本日限定・一パック98円(お一人様一点限り)』


 という魅惑的なポップが躍っている。


「安いな……。いつものスーパーの半額以下だ。これなら母さんも絶対に喜ぶぞ」


 カナタがホクホク顔で卵のパックをそっとカゴに放り込んだ、その瞬間だった。


 ――ウゥゥゥゥゥゥン!!!


 ピィォォォォォン!!!


 王都全域に、突如として国家非常事態レベルのけたたましいサイレンが鳴り響いた。


 直後。


 ホームセンターの周囲を、地響きを立てて現れた何十台もの黒塗り装甲車、上空を旋回する魔導ヘリ、探索者連盟直属の精鋭部隊が一瞬で完全包囲していく。


『……こちらアルファ隊。これより目標ポイントへ突入する』


 無線から緊張に満ちた隊長の声が漏れる。


『……ここが、クロノス卿の仰っていた最重要警戒区域『トクバイ・コーナー』か……!』


『なんという高度な隠蔽偽装だ……』


『我々の目から見ても、ただの商業施設にしか見えん……!』


「動くな! 探索者連盟だ!」


「総員、その場に伏せろ!」


 自動ドアが吹き飛ぶ勢いで開き、魔導銃を構えた精鋭たちが店内へ雪崩れ込む。


 一般客や店員たちは大パニックだった。


「な、何事!?」


「戦争!?」


「サバゲーのイベント!?」


そんな中。


 肥料と卵の入ったカートを押したカナタだけが、ぽかんと立ち尽くしていた。


「うわぁ、なんかすごい本格的な人たち入ってきたな……」


 精鋭部隊が左右へ展開する。


 その中央を、一人の人物がゆっくりと歩いてきた。


 黒い外套。


 深く被ったフード。


 顔は見えない。


 だが。


 隠し切れない圧倒的な存在感だけが周囲を支配していた。


「クロノス卿!」


 隊長が即座に敬礼する。


 フードの奥から冷たい声が響く。


「報告しろ」


 その声を聞いた瞬間。


 カナタは首を傾げた。


「あれ?」


 隊長が報告を始める。


「敵影なし!」


「周辺制圧完了!」


「魔力反応も確認できません!」


「他国工作員らしき人物も――」


「違う」


 フードの人物が言った。


「今回は敵が撤退しただけだ」


「なっ……!?」


 隊長が息を呑む。


 その横で。


 カナタだけが小さく手を上げた。


「レイナさん?」


 フードの奥がぴくりと動いた。


「……カナタ」


「やっぱりレイナさんでした」


「今は話しかけるな」


「なんでですか?」


「任務中だ」


「そうなんですね」


 カナタは素直に頷いた。


 レイナの視線は、赤玉卵を大事そうに抱えているカナタへ向いていた。


(無事か……)


(よかった)


(間に合った)


(危ないところだったな、カナタ……)


 レイナは静かに安堵した。


 一方その頃。


 少し離れたトイレットペーパー売り場の陰。


 そこから状況を見守る男がいた。


 元ギルドマスター。


 エドワードである。


 彼は眼鏡を押し上げながら、満足そうに微笑んでいた。


(……完璧だ)


(見ろ、あの視線を)


(周囲の人間など見えていない)


(完全にカナタだけを見ている)


 やはり。


 自分の分析は正しかった。


(レイナ・クロノスはカナタ・ミナセを放置できない)


(あの男こそが世界最強の弱み)


(そして――私が返り咲くための鍵だ)


 その頃。


 当のカナタは。


「赤玉卵、やっぱり安いな……」


「割れないように持って帰らないと」


 卵の値段しか見ていなかった。


 レイナは小さく息を吐く。


「最悪の事態は回避できた」


「……撤収する」


「了解ッ!!!」


 隊長は即座に復唱した。


「総員、撤収!」


 部隊は一糸乱れぬ動きで退避を開始する。


 何が起きたのかは分からない。


 だが。


 クロノス卿が動いた以上、何かがあったのだろう。


 そう結論づけた。


 それを見届けたエドワードは、静かに踵を返した。


(やはり間違いない)


(次は私が直接カナタを説得する)


(奴をギルドへ引き戻す)


(そうすれば――)


(世界最強は私の側につく)


(勝機は見えた)


夕暮れ。


 ホームセンターの帰り道。


 二つの影が並んで歩いていた。


 レイナはフードを外した。


 白銀の髪が夕日に照らされる。


 すれ違った人々が思わず振り返る。


 だが本人は気にしていない。


 なぜか両手にはトマトの肥料袋と洗剤の入った買い物袋を抱えていた。


 人類最強の探索者にしては、あまりにも生活感があった。


「ありがとうございます」


「気にするな」


「でも……国家規模で肥料運ぶ必要ありました?」


「必要だった」


「そうですか」


 少しの沈黙。


 初夏の風が二人の間を通り抜ける。


「そういえば」


「?」


「なんでレイナさんの妹さんがここにいるんですか?」


「……何?」


「お姉さん、世界一だから忙しいですもんね」


「そうじゃないぞ、カナタ」


「なのに買い物まで手伝ってくれて」


「だから違う」


「ありがとうございます」


「話を聞け」


 レイナが額を押さえる。


 カナタは気付かない。


「今日の人たちもレイナさんの部下なんですよね?」


「そうだ」


「すごいなぁ……」


 しみじみと頷く。


「じゃあ今度会ったら、今日の人たちにも紹介しておきますね」


「やめろ」


「大丈夫ですよ」


「何がだ」


「妹さんもちゃんと偉い人だって伝えますから」


「だから私だ!!」


(第5話・完)




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


【▼ここから第6話▼】


第6話 完璧なプレゼンと一つのノイズ


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




 王都最高峰と謳われる高級レストラン『グラール』。


 その最上級個室で、エドワードは静かにワイングラスを傾けていた。


 完璧に整えられたスーツ。


 隙のない所作。


 誰が見ても一流の男だった。


 対するカナタは、いつも通りの少しヨレたTシャツ姿である。


 場違いな空間にも特に緊張した様子はなく、目の前に運ばれてきたスープを興味深そうに眺めていた。


(カナタ・ミナセ)


(私は過去の判断を悔いるだけのために、ここへ来たわけではない)


(謝罪はする)


(だが、それで終わらせるつもりもない)


(優秀なスカウトとして、そしてギルド経営者としての本気を見せに来たのだ)


 エドワードは内ポケットから革装の資料を取り出し、机の上へ滑らせた。


「君のソロ配信における同接数、投げ銭推移、そして今後の収益予測だ」


カナタが資料を見る。


 分厚い。


 そして異様に細かい。


 エドワードは、すぐには説明を始めなかった。


 まず、ワイングラスを静かに置く。


 それから、カナタに向かって深く頭を下げた。


「……その前に、謝罪させてほしい」


「謝罪、ですか?」


「ああ」


 エドワードの声は、いつものように整っていた。


 けれど、その奥にある硬さだけは隠しきれていなかった。


「先日の件。君を無能と決めつけ、ギルドから追放したこと。そして、危険な場に置き去りにしたこと。あれは、私の判断ミスなどという軽い言葉で済ませていいものではない」


 カナタは、きょとんとした顔でスープから視線を上げた。


「はあ」


「君の価値を、私はまったく理解していなかった。いや、理解しようとすらしていなかった」


 エドワードは顔を上げる。


 その目には、悔しさと焦りと、それでもなお一流であろうとする男の意地があった。


「だから、まず詫びたい。すまなかった、カナタ」


「えっと……はい」


「もちろん、謝罪したから許されるとは思っていない」


 エドワードは革装の資料に手を添えた。


「その上で、言わせてほしい」


 ページが静かに開かれる。


「私は、君ともう一度仕事がしたい」


 沈黙が落ちた。


 高級レストランの個室には、銀食器の触れ合う小さな音だけが響いている。


「……はっきり言おう」


 エドワードは資料を開いた。


「今の君は、自分の価値をまったく理解していない」


「そうなんですか?」


「そうだ」


 グラフを示す。


「税金対策」


「法的リスク管理」


「他国からの引き抜き対策」


「専属サポートチームの編成」


「将来的な資産形成」


「これらが現状、完全に放置されている」


 淡々とした口調。


 しかし内容に隙はない。


「うちのギルドに戻るなら、面倒な部分はすべて私が引き受ける」


「君は好きな時にダンジョンへ潜ればいい」


「契約上も、君の自由行動は最大限保証する」


「それ以外は我々が支える」


 完璧な提案だった。


 感情論ではない。


 脅しでもない。


 そして、ただの謝罪でもない。


 純粋にカナタの価値を最大化するための提案だった。


「すごいと思います」


 カナタは素直に頷いた。


「僕の配信って、こんな数字になるんですね」


 そしてスープを一口飲む。


「あ」


「美味しい」


 エドワードが少しだけ眉を上げる。


「トリュフですかね?」


「たぶんな」


「母さんが高いキノコは味わって食べろって言ってたんですよ」


 カナタは感心したように頷いた。


「これは確かに美味しいです」


 エドワードは額を押さえたくなった。


 今はキノコの話ではない。


「……カナタ」


「はい?」


「君の将来の話をしている」


「どうだ」


「私の手を取る気はあるか?」


 カナタは少し考えた。


「お話は魅力的です」


「エドワードさんが本当に優秀なのも分かります」


 エドワードは静かに頷く。


 だが。


「でも僕、向いてないんですよね」


「向いてない?」


「はい」


 カナタは申し訳なさそうに頭を掻いた。


「なんというか……」


「エドワードさんと話してると、すごく肩凝るんですよね」


「肩……凝る?」


 エドワードの表情が固まった。


 能力への不満ではない。


 待遇への不満でもない。


 ただ。


 肩が凝る。


 それだけだった。


 完璧なプレゼンテーションが、あまりにも個人的な理由で吹き飛んだ。


 エドワードは静かに眼鏡を押し上げる。


「……なるほど」


「自由がいいということか」


「ですが?」


「だが、君は勘違いしている」


 声の温度が下がった。


「君を縛ろうとしているのは私ではない」


「──連盟だ」


 カナタが首を傾げる。


「連盟?」


「そうだ」


「世界一位、レイナ・クロノス」


「あの世界最強が君の後ろ盾に回っている」


「それは一見安全に見える」


「だが実態は違う」


「世界最強による完全な管理だ」


「君はまだ、レイナ・クロノスという怪物を何も分かっていない」


エドワードの言葉は、この世界を知る者からすれば正論だった。


 レイナ・クロノス。


 世界最強。


 探索者連盟の象徴。


 あの方が、一介の配信者に無償で肩入れするなど本来あり得ない。


 必ず理由がある。


 必ず裏がある。


 しかし。


 カナタは不思議そうに首を傾げた。


「え?」


「そんなことないですよ」


「何?」


「レイナさん、すごく優しいですし」


 エドワードが眉をひそめる。


「優しい?」


「はい」


「家に来た時も脱いだ靴をちゃんと揃えるし」


「…………」


 エドワードは一瞬言葉を失った。


 世界最強の評価が。


 まさかの靴揃え。


「それに」


 カナタは思い出したように続ける。


「この前は妹さんにも買い物手伝ってもらいましたし」


「…………妹?」


 エドワードの動きが止まった。


 脳内で何かが引っ掛かる。


 小さな違和感。


 だが決して見逃してはいけない違和感。


「はい」


 カナタは頷いた。


「ピンクのタッパー持った、すっごく可愛い妹さんです」


 その瞬間。


 エドワードの脳裏に、一つの光景が蘇った。


 数日前。


 ミナセ家。


 植え込みの陰から見た、あの絶世の美少女。


 私服姿。


 ピンク色のタッパー。


 そして――。


(……待て)


 エドワードの背中を冷たい汗が伝う。


(レイナ・クロノスに妹などいたか?)


 情報はない。


 少なくとも彼の知る限り。


 世界最強の家族構成に、そんな人物は存在しなかった。


 エドワードは平静を装いながら尋ねる。


「その……妹、というのは」


「よくミナセ家へ来るのか?」


「はい」


 カナタはあっさり答えた。


「最近は、妹さんの方がよく来てくれますね」


「レイナさん本人は、世界一位で忙しいでしょうし。あの人、ちゃんと休めてるんですかね」


「…………っ」


 エドワードのポーカーフェイスが、僅かに崩れた。


 カナタは何気ない日常の話をしている。


 だが。


 エドワードの優秀な頭脳は、その情報を見逃さなかった。


(世界最強レイナ・クロノス本人が……)


(世界一位としての任務の合間を縫って……)


(わざわざ身分を偽り……)


(妹という偽の立場を演じながら……)


(この男の元へ通っている……?)


 あり得ない。


 だが。


 目撃した事実とは一致する。


 ピンクのタッパー。


 ミナセ家への出入り。


 カナタの証言。


 すべてが一本の線で繋がりそうで――まだ繋がらない。


(何かある)


(この男とレイナ・クロノスの間には、私の知らない何かがある……!)


「エドワードさん?」


 カナタが不思議そうに首を傾げた。


「眼鏡、ズレてますよ?」


「…………」


 その声すら耳に届かない。


 エドワードの脳内では、まだ形にならない巨大な仮説が、静かに動き始めていた。


 完璧なプレゼン。


 完璧な資料。


 完璧な再契約計画。


 そのすべてに紛れ込んだ、たった一つのノイズ。


 ――妹。


 その二文字が、エドワードの設計図を静かに狂わせ始めていた。


(第6話・完)




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


【▼ここから第7話▼】


第7話 世界最強の妹


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




 王都の一等地。


 厳重な結界に守られたエドワードの秘密執務室。


 時刻は深夜三時を回っていた。


 だが室内の明かりが消える気配はない。


 煌々と照らされた巨大なホワイトボードの前で、エドワードは狂ったようにマーカーを走らせていた。


 完璧に整えられていたはずの髪は僅かに乱れ、ネクタイも緩められている。


 目の下には薄い隈。


 完全な徹夜だった。


「あり得ない」


 乾いた声が室内に響く。


「絶対にあり得ない」


 ホワイトボードには無数の資料が貼られていた。


『カナタ・ミナセ』


『レイナ・クロノス』


『謎の妹』


『ピンクのタッパー』


 それらが大量の赤線で繋がれている。


 完全に捜査本部だった。


 エドワードは一枚の資料を乱暴に叩きつける。


「クロノス家の家系図」


「連盟保有の人物データ」


「極秘調査資料」


「全て確認した」


 そして断言する。


「レイナ・クロノスに妹など存在しない」


 沈黙。


 ならば。


 カナタの言った『妹』とは誰なのか。


 エドワードは目を閉じた。


 脳内で数日前の光景を再生する。


 ミナセ家。


 植え込みの陰。


 私服姿の少女。


 大事そうに抱えられたピンク色のタッパー。


(騙されるな)


(見た目に惑わされるな)


 エドワードは記憶を精査する。


 門をくぐる際の重心移動。


 無駄のない歩幅。


 周囲への警戒。


 そして。


 カナタが何気なく口にした言葉。


『靴を綺麗に揃える』


 その瞬間だった。


 脳内で全てのピースが繋がる。


 エドワードの目が見開かれた。


「そうか……!」


 ホワイトボードへ歩み寄る。


 赤いマーカーを握る。


 そして。


『妹』


 という文字を勢いよく塗り潰した。


 その上に大きく書く。


『レイナ・クロノス本人』


 バンッ!


 マーカーを叩きつける。


「骨格」


「歩法」


「魔力の残滓」


「規律性」


「合理性」


 どれを取っても一致する。


「間違いない」


「妹など存在しない」


 エドワードは確信した。


「あのタッパーを持った少女は」


「世界最強レイナ・クロノス本人だ」


 真実だった。


 驚くべきことに。


 エドワードはここまでは完璧だった。


 完全に正解へ辿り着いていた。


 だが。


 有能すぎる男の悲劇はここから始まる。


 だが。


 問題はここからだった。


 エドワードは腕を組み、ホワイトボードを睨みつける。


「では、なぜだ」


 誰もいない執務室に声が響く。


「なぜ世界最強ともあろうお方が」


「世界一位の任務の合間を縫い」


「身分を偽り」


「妹を演じ」


「一介の元Fランク探索者の実家へ通う必要がある?」


 沈黙。


 普通なら答えは簡単だった。


 好意。


 友情。


 親しさ。


 信頼。


 そんな人間らしい感情だ。


 だが。


 エドワードはそんな結論を即座に却下する。


「あり得ない」


 バッサリだった。


「あの冷徹にして孤高の怪物」


「レイナ・クロノスが個人的感情で動くなど万に一つもない」


 エドワードは知っている。


 世界最強を。


 戦場で見てきた。


 判断を誤らない。


 感情に流されない。


 人類最強の探索者。


 そんな存在が。


 オムライスを食べたいから。


 ハンバーグを食べたいから。


 そんな理由で動くはずがない。


「世界一位が偽のペルソナを使って潜入しているのだ」


「これは個人の意思ではない」


 エドワードの目がギラリと光る。


「──連盟の総意だ」


 ホワイトボードへ歩み寄る。


 マーカーを走らせる。


 新たな文字が刻まれた。



【国家級重要人物管理作戦】



 エドワードは冷たい笑みを浮かべた。


「そうか」


「そういうことだったのか」


 カナタ・ミナセ。


 あの男の価値は異常だ。


 配信。


 探索。


 概念破壊。


 その全てが常識の外側にある。


「奴は危険なのではない」


 エドワードは断言する。


「価値が高すぎるのだ」


 ホワイトボードに赤線が伸びる。


【カナタ】



【世界最強】



【妹】



【潜入】



【管理】


 全てが一本の線で繋がる。


「カナタ・ミナセ」


「奴の持つ力は国家一つの価値すら塗り替えかねない」


「探索者連盟としては絶対に手放せない存在」


 だが。


 力で縛れば逃げる。


 組織で囲えば反発する。


「そうか」


「だから世界最強が直接動いているのか」


 エドワードの口元が吊り上がる。


「妹という最も警戒されない立場で」


「優しく包み込み」


「信頼を獲得し」


「精神的に囲い込む」


「そして完全管理する」


 バシィィィン!!


 ホワイトボードを叩く。


「見抜いたぞ」


 眼鏡を押し上げる。


「見抜いたぞ、クロノス卿」


「連盟のトップシークレット」


「国家級重要人物管理作戦」


「恐るべき計画だ」


 そして。


 満足そうに息を吐いた。


「ようやく全て説明できる」


 全然説明できていない。


 だが本人は完璧だった。


 冷めたコーヒーを一気に飲み干す。


 そして次の資料へ手を伸ばした。


 カナタ周辺の行動記録。


 パラパラとページをめくる。


 並ぶ単語。



【オムライス】


【買い物】


【妹】


【実家】


【ハンバーグ】



 エドワードの指が止まる。


「……」


 沈黙。


 そして。


「食事」


 ゾワリ。


 背筋に冷たいものが走った。


 生活感に満ちた単語。


 だが。


 エドワードの有能な脳は。


 その裏側に潜む巨大な計画を感知していた。


「なるほど……」


 ゆっくり顔を上げる。


「そういうことか」


 冷や汗が頬を伝う。


「連盟は」


 ゴクリ。


「すでに次の段階へ移行したのか……!」


 ホワイトボードへ新たな赤線が伸びる。



【潜入】



【信頼獲得】



【食事】



 エドワードの瞳が見開かれる。


「食卓」


「そうか……」


「作戦の次段階は」


「食卓か……!!」


 世界を揺るがす陰謀を察知した男の顔だった。


 恐るべき国家規模の作戦。


 その全貌に迫った興奮と戦慄。


 エドワードは息を呑む。


 そのドアップで――ドン。


 ◇


 一方その頃。


 当の世界最強は。


 自宅のキッチンでレシピ本を睨みつけていた。


「ハンバーグのタマネギは……」


 真剣な顔。


「先に炒めるべきなのか……?」


 沈黙。


 ページをめくる。


 さらに睨む。


 三分後。


「……分からん」


 レイナはページを最初から読み直した。


 世界最強は今、


 王都最大の難関ダンジョンではなく、


 ハンバーグと戦っていた。


(第7話・完)




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


【▼ここから第8話▼】


第8話 世界最強、料理を学ぶ


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




 薄暗いクロノス邸の最高級キッチン。


 普段なら国家の命運を左右する禁忌の魔導書を開いているはずのレイナ・クロノスは、今、人生最大級の難題に直面していた。


 彼女が血走った目で睨みつけているのは、一冊の本。


『初めてでも美味しく作れる! 家庭料理の基本レシピ』


 その上に置かれた、白く輝く卵と、コロンと転がる一玉のタマネギ。


 レイナは真剣そのものの顔で、三分間微動だにせず考え込んでいた。


「ハンバーグのタマネギは……先に炒めるべきなのか……?」


 あまりに深すぎる苦悩。


 考え抜いた末、レイナはレシピ本の前のページをバサリとめくり直した。


「……いや。炒める前に、まずは『みじん切り』という工程を完璧にこなさねばならん。料理とは、事前の精密なカッティングこそが戦局を左右するはずだ」


 世界最強にとって、ハンバーグ作りは王都最大の難関ダンジョンをソロ攻略するよりも遥かに過酷なミッションだった。


 レイナは愛用の最高級包丁を静かに抜き放つ。


 その構えは、完全に敵国の首領を討ち取る時のそれだった。


 鋭く息を吐き、精神を研ぎ澄ます。


「クロノス流剣技──神速」


 刹那。


 キッチンの空間が、グニャリと歪んだ。


 読者の目には捉えきれない、残像すら残らない超高速の乱撃がタマネギへと振り下ろされる。


 シュババババババババババババッ!!!


 ドガァァァァァン!!!


 あまりの風圧と衝撃波により、キッチンの高級大理石はバキバキにひび割れ、すべての窓ガラスが派手に外へと吹き飛んだ。


 激しい硝子音のあと、静寂が訪れる。


 レイナは包丁を構えたまま、まな板を見つめていた。


 そこには、みじん切りになったタマネギではなく、ただの空間が残されていた。


「……消えた?」


 剣技が鋭すぎた。


 超高速の摩擦熱と衝撃波が発生した結果、タマネギは細胞はおろか、分子レベルで完全に消滅していた。


 残されたのは、煤まみれで半壊したキッチンと、立ち尽くす世界最強だけだった。


 ドガァァァァァン!!


 今度はキッチンの扉が凄まじい音を立てて吹き飛んだ。


「クロノス卿ーーーーっっ!!! 敵襲ですか!?」


 息を荒くして突入してきたのは、レイナ直属の隠密隊長だった。


 抜刀し、周囲へ鋭い視線を走らせる。


「本邸を揺るがす魔力反応を検知しました! 凄まじい爆風も──」


 そこで隊長の言葉が止まる。


 ゆっくり振り返るレイナ。


 顔も服も煤まみれ。


 しかし目だけは真剣。


 手には包丁。


「……料理だ」


「料理……?」


 隊長は半壊したキッチンと主を交互に見た。


 どう見ても戦争跡地だった。


 だがクロノス卿が料理と言うなら料理なのだろう。


 長年仕えてきた隊長は、そこで妙な違和感に気付いた。


 殺気がない。


 それどころか、どこか落ち着かない様子だ。


「……クロノス卿。その料理は、一体どなたのために?」


「……別に」


 レイナはフイッと顔を逸らした。


 耳の裏が、ほんの少し赤い。


 その瞬間。


 隊長の脳内に電撃が走った。


(あっ……)


 数秒の沈黙。


(そういうことか)


 最近の行動。


 頻繁な外出。


 私服。


 タッパー。


 料理本。


 そして今の反応。


(なるほど)


 隊長は全てを理解した。


 だが口には出さない。


 ただ静かに頷く。


(……なるほどな)


 主の名誉のためにも、ここは触れない方がいい。


 隊長は大人だった。


 だからこそ、見なかったことにした。


 半壊したキッチン以外は。


 ◇


 場面は変わり、エドワードの秘密執務室。


 エドワードは巨大なホワイトボードの前で腕を組み、静かに時を待っていた。


 そこへ慌てた様子の部下が飛び込んでくる。


「エドワードさん! 先ほどクロノス総帥の本邸から原因不明の爆発音が検知されました!」


 エドワードの目が細まる。


「続けろ」


「隠密部隊の最高幹部も慌ただしく突入した模様です!」


 その瞬間。


 エドワードの口元が不敵に吊り上がった。


 眼鏡のブリッジをキィィンと押し上げる。


「……始まったか」


「は?」


 部下は意味が分からなかった。


 だがエドワードは既に次の段階へ進んでいた。


 胸ポケットから高級な革手帳を取り出す。


 万年筆を走らせる。


 最新ページへ、美しい筆跡で記録する。


 ──【食卓フェーズ、実動開始を確認】


 ──【クロノス邸にて爆発事故発生】


 ──【隠密部隊の介入を確認】


 書き終えたエドワードは静かに頷いた。


「やはりな……」


 冷たい笑みが浮かぶ。


「予想以上だな」


 その視線は、まるで国家転覆計画の全貌へ迫る捜査官そのものだった。


「クロノス卿……」


 革手帳を閉じる。


「世界を揺るがす食卓侵略作戦。その全貌、私がすべて追わせてもらうぞ……!」


 孤独に、しかし圧倒的な熱量で壮大な勘違いを追い続ける男。


 その超シリアスな決め顔で──ドン。


(第8話・完)


最後までお読みいただき、ありがとうございました!


皆さまの反応のおかげで、第8話まで追記することができました。


今回は、世界最強レイナが料理という新たな難関に挑む回でした。


本人は大真面目です。

ただ、強すぎるだけです。


そしてエドワードもまた、別の方向で大真面目です。


書いている側としても、この二人がそれぞれ真剣に動くほど、なぜか話がどんどんおかしな方向へ進んでいくのが楽しくなってきました。


この作品は、読者さんの反応を見ながら、

「このキャラをもう少し見てみたい」

「この勘違いをもう少し転がしてみたい」

と育っている感覚があります。


少しでも楽しんでいただけたら、【ブックマークに追加】や【いいね!】で応援していただけると嬉しいです。


皆さまの応援が、レイナの料理修行と、エドワードの推理力の力になります!


ありがとうございました!

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― 新着の感想 ―
うん、面白かった とりあえず卵買ってきての話だけでオムライスに使うと断言してるのと、 翌日カフェにタマゴサンド(持ち込み)で食べてるのと、 2日連続でオムライスなので卵足りるかな?と家族構成分からない…
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