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「マグカップを窓から投げ捨てるこんな女でも、不敬罪で処刑しませんか?」

掲載日:2026/04/19

 がちゃっ、と扉が開く音がした時。

 私――侍女のリビアはお嬢様の夜食用に温めていた『採れたてこだわり高級牛乳』をまさに最後の一滴まで飲み干したところだった。


 ――だってお嬢様はもういないのだ。愛しの殿方と夜逃げして消え失せた主人の牛乳を、残された侍女が代わりに飲んで何が悪い。


 しかし開いた扉の向こうに立つ人影を見た瞬間。

 胃に収まったばかりの温かい牛乳が「やっぱり出ます!」と全力で戻ってこようとしたため、私は必死で自らの喉輪を絞める羽目になった。

 国内最高権力者にしてお嬢様の婚約者であった宰相閣下――アンガス様。


 ――その双眸に射抜かれた瞬間、私は咄嗟の判断で窓の外にマグカップを投げ捨てていた。


 宰相閣下に牛乳泥棒がバレても隠す必要など微塵もないのだが、こういう時に人は一番どうでもいい証拠から隠滅するものらしかった。



 ◇



 なぜ、ただの侍女である私がマグカップを投げ捨てるような絶体絶命のピンチに陥っているのか。

 話は六年前に遡る。


 田舎の仕立て屋の五女として生まれた私は、決して器量が良いわけでも気が利くわけでもなかった。

 ただ針を持たせれば人より少しだけ上手い。

 それだけの取り柄しかない女である。


 五人姉妹の末っ子の取り柄が針仕事だけ。

 それはつまり、上の四人の姉たちに器量も愛想も気立ても、全て根こそぎ持っていかれたという悲しき事実を意味していた。

 実家での私の扱いは「ちょっとそれ縫っといて」という便利屋で、名前で呼ばれることの方が少なかったくらいだ。

 誰かの服を縫い、誰かの愚痴を聞き、誰かのために手を動かす。

 それが自分の役割なのだと疑ったことすらなかった。


 そんなささやかな取り柄一つを頼りに、私はこの伯爵家の侍女として雇われたというわけである。


 仕えることになったお嬢様――ロアナ様は嵐のような方だった。

 月曜にはレースを縫わせ。

 火曜にはほどかせ。

 水曜には「最初のほうがよかったわ!」と理不尽に泣き出す。

 木曜には新しい生地を買いに行かせたかと思えば、金曜には「やっぱりいらない」。

 これを毎週繰り返すこと六年間。


 同僚の侍女たちが片端から辞めたり解雇されたりしていく中、私だけが六年生き延びた理由。

 それはお嬢様がどれだけ理不尽にキレ散らかそうと「はいはい」と受け流し、翌朝には涼しい顔でお茶を差し出せる無駄に頑丈な神経のおかげだった。


 ある日、そんなお嬢様に婚約話が舞い込んだ。

 お相手は宰相閣下――アンガス様。この国で最も権力のある男である。

 元は奴隷の出だと聞いた時はさすがに耳を疑ったが、仕えていた主に才を見出されて役人になり、気がつけば宰相の椅子に座っていたという化け物のような御方だ。

 圧倒的な能力はあるが後ろ盾がない。

 ならば名門貴族の娘を娶ることで家柄の箔をつけよう――という宮廷の思惑により、あろうことか我がお嬢様に白羽の矢が立ったというわけである。


 お嬢様ったら、もう大はしゃぎだった。

「私、国で一番偉い人の妻になるのよ!」と、それはもう一週間は上機嫌だったのだ。


 ――そう、一週間は。


 婚約の指輪をはめられた翌週には、お嬢様の瞳はすでに別の方向を向いていた。

 夜会で見かけた騎士が格好良かった。舞踏会で他国の貴族に声をかけられた。

 私が徹夜で仕立てた婚約用のドレスは「もういいわ、ほどいて」と冷酷に言い渡され、新しい男の気を引くためのドレスの注文へと早変わりした。


 手に入るまでが恋のピークで、手に入れた瞬間に飽きる。

 月曜に縫わせて金曜に捨てるあの理不尽な態度が、単に『男』に対しても適用されただけの話だったのだ。


 それでも私は他の侍女から「どこそこの家の侍女が主人の不祥事の連座で処刑されたらしいわよ」なんて恐ろしい噂を聞いても。

「まあ大変」と口では同調しつつ、心の底では「うちはまだましだわ」と呑気に構えていたのだ。


 お嬢様は確かに手がかかるが、やることと言えば所詮ドレスをほどかせるくらいのもの。

 国を揺るがすようなスキャンダルを起こす行動力があるなら、むしろ少しは尊敬してやる。

 ――などと、私は完全に油断していたのだ。


 そんな平和な生活を過ごしていた、ある日の夜。

 お嬢様の夜食を持って寝室を開けたら主人の姿はなく、枕の上に書き置き一枚。


『好きな人と生きることにしました。ごめんね』


 ――いや、「ごめんね」じゃないのよ。

 六年間あなたが振り回してきた侍女を置き手紙一つで放り出すのか!

 せめて面と向かって「ごめん」と言う義理くらいあるだろう!


 しかし憤ったのも束の間。

 私の頭に浮かんだのは侍女仲間から聞いた「連座で処刑された侍女」の話だった。

 いや待て。落ち着け、リビア。


 お嬢様が逃げた。それだけならただのわがまま娘の家出だ。

 だがお嬢様の婚約者は宰相閣下である。この国の最高権力者が婚約者に逃げられた。

 これが宮廷で噂にならないはずがない。


 伯爵家の恥、宰相閣下の恥、ひいては縁談をまとめた王家の恥。

 誰かが責任を取らされる。


 元凶のお嬢様はすでに夜逃げした。

 当主である伯爵は絶対に「私は何も知らなかった!」と逃げを打つだろう。

 残っているのは逃げた令嬢の屋敷で牛乳を温めていた間抜けな侍女だけだ。

 あの時「うちはまだまし」と笑った自分を殴りたい。


 ――逃げよう。

 今すぐ荷物をまとめて実家に帰ろう。

 田舎で針仕事でもしていれば、少なくとも首は繋がる。


 荷造りは後だ。まず落ち着け。落ち着くにはとりあえず何か温かいものを胃に入れるのが一番。

 お嬢様の『採れたてこだわり高級牛乳』が目の前で湯気を立てていた。


 これが私の退職金だ――!

 そう心の中で叫びながらぐいっと飲み干した瞬間。

 扉が開いたのだ。



 ◇



 咄嗟に放り投げたマグカップが遠くでガシャンと音を立てた。


 その間抜けな音が夜の静寂に吸い込まれていくのを、私とアンガス様は二人して黙って聞いていた。

 バッチリと目が合っている。

 アンガス様は、扉の取っ手に手をかけた体勢のまま微動だにしない。

 そして私はといえば、窓に向かって腕を振り抜いた謎のポーズのまま完全に固まっていた。


 ……沈黙。


 いけない。この沈黙はまずい。

 沈黙は死を意味する。

 少なくとも今の私にとっては。


 あの『連座で処刑された侍女』の恐ろしい噂が頭の中でぐるぐると回り始める。

 ここで黙っていたら相手に考える時間を与えてしまう。


 宰相閣下に冷静に考えさせたら「とりあえずこのふざけた侍女を始末しておくか」という結論に至ってしまうかもしれない!


 何か言え。何でもいいから口を開けリビア!


「あんな女のことはお忘れになりましょう!」


 私の口をついて出たのは、そんな言葉だった。


 言った瞬間、脳の奥の冷静な部分が悲鳴を上げた。

 待て。もしかしてアンガス様はまだお嬢様の駆け落ちをご存じないのでは?

 だとしたら今の私は自分から墓穴を掘ったことになる!


 いやでも!

 この深夜のタイミングでわざわざ婚約者の寝室に駆けつけているのだ。知らないはずがない。

 きっとそうだ。たぶん。おそらく。


 ――混乱すると変なことを口走るこの口が悪い。


 ええい、もう後には引けない!


「だいたいお嬢様は昔からそうなんです!月曜に『これがいい』と言ったものを火曜には『やっぱり嫌』とおっしゃる方なんですよ!ドレスも男も同じ!手に入ったら飽きるんです!」


 アンガス様の口が半開きになっている。

 開いた口が塞がらないとは、まさしく今のこの顔を言うのだろう。

 そしてその顔を見て私の中の何かが確信した。


 ――この人が黙っている間は、私は生きている。


 逆に言えば、この人が我に返って口を開いた瞬間が私の最期かもしれない。

 ならばしゃべらせるな。この人の口を開けたままにしておけ!


 開いた口がふさがらない宰相閣下と、開いた口を閉じられない侍女の戦いが始まった。


「いえね閣下。これは本当に心の底から申し上げるのですが――あなたは運がいい!」


「……は?」


「むしろ幸運です!閣下ほどの御方がお嬢様のわがままに一生付き合わされるなんて国家的損失ですよ!」


 アンガス様の眉がぴくりと動いた。怒りか困惑か判断がつかない。

 だが口はまだ開いたままだ。畳みかけろ!


「そうです。前向きに参りましょう! 閣下にはもっとふさわしい方がいらっしゃるはず!」


 勢いに任せて、私はアンガス様の手を両手でがしっと掴んだ。

 掴んでから「しまった、これは不敬罪では?」と思ったが、もう引っ込みがつかない。


「私が探します。閣下にぴったりの花嫁候補を私が責任を持ってお探しします!」

「いや……」

「今から徹夜で候補を選定いたしますので!」

「待て……」

「明日の朝一番に宰相府へ資料をお届けに上がります!」

「聞け……」

「それでは閣下。安心してお休みください。すべてこのリビアにお任せを!」


 私は嵐のように言い切ると、アンガス様の横をすり抜けて部屋を飛び出した。

 廊下を全力で走りながら、背後を振り返る余裕はなかった。


 ふふっ、勝った。今夜は首が繋がった。


 問題は勢いに任せて「明日、宰相府に花嫁候補を持っていく」と宣言してしまったことだが。

 ついでに顔も割れてしまった。


 ……まあ、それは明日の私が考えることにしよう。



 ◇



「処刑なんてするわけないだろう!」


 翌朝、涙を流して笑うアンガス様に開口一番そう言われた。


 昨晩あのまま夜逃げしようかとも思ったが、身元も顔も割れている。

 お嬢様のように金にあかして早馬を飛ばし隣国まで駆け抜けるなんて芸当は、月給で牛乳すら買えない侍女には到底不可能だ。

 逃げられないなら向き合うしかない。


 伯爵家の屋敷に戻る度胸もなかった私は侍女仲間の家に転がり込んだ。

「何があったの!?」と心配してくれた侍女仲間から、私はろくな事情説明もしないまま据わった目で器量が良い令嬢の情報を搾り取った。

 終始混乱しつつも一晩中付き合ってくれた彼女には一生頭が上がらない。


 そうして私は一睡もできないまま目を擦り、徹夜でまとめた花嫁候補の資料を胸に抱いて宰相府の門を叩いた。


 覚悟を決めて来たのだ。

 今日ここで全てが終わるかもしれないと腹を括って来たのだ。

 ――それがまさかの大爆笑である。


「でも連座で処刑された侍女がいるって……」

「ああ、あれか」


 アンガス様は目尻を指で拭いながら答えた。


「あれは侍女自身が主人を(そそのか)して横領の計画を立てていて……まあ、そんな話はいい」


 そんな話はいい、じゃない。

 私はこの話のせいで寿命が三年は縮んでいる。


「ロアナ嬢の夜逃げの証拠は昨夜のうちに回収し、表向きは『病床に伏した』ことになった。伯爵家の弱みを握る形に落ち着いたわけだ」


 先程まで涙を流して笑い転げていた人間と同一人物とは到底思えない、冷徹で落ち着いた声だった。

 国政を預かる顔に切り替わるのが速すぎる。

 この切り替えの速さだけで、この人が只者ではないことが分かる。


「だから、リビアと言ったか。処刑されるようなことはない。安心していい」


 なんとも拍子抜けだ。


 とはいえ私の命は助かった。

 お嬢様のせいで色々なものがめちゃくちゃにはなったが。

 伯爵家に戻ればまだ籍はあるのだろうが、いない主人の部屋で虚しくお茶を淹れる気にはなれない。

 ……どうしたものか。

 

「さて、花嫁候補を選んでくるなんて言っていたが」

「え?……そうですね。やりかけた仕事ですから、せっかくですし見てみませんか?」


 我ながらなぜそんなことを言ったのか分からない。

 安堵で頭がおかしくなったのか、徹夜の労力を無駄にしたくない貧乏性か。

 まあ、自分でやると宣言したことだ。

 言った仕事だけはきっちりこなす。それしか取り柄がない女なので。

 私はテーブルの上に資料を広げた。


「……この短期間に先方と交渉したのか?」


「いえ、交渉なんてとんでもない。侍女仲間の噂で『素敵だ』と評判の令嬢を勝手に紹介しているだけです」


 アンガス様の顔が一瞬だけ真顔になった。私の言葉を理解しようと咀嚼しているのだろう。


「アンガス様ほどの御方であればどなたでも射止められると思いまして!」


 私が畳みかけると今度こそ堪えきれなくなったらしく、テーブルに手をついて肩を震わせ始めた。


 復活までにしばらくの時間がかかった。

 その間、私はどうしていいか分からず、とりあえず応接室のカーテンの縫製を眺めていた。

 ふむ。悪くない仕立てだが端の折り返しの処理が少し甘いな。――職業病である。




 アンガス様がようやく落ち着きを取り戻した頃、私は咳払いをひとつして資料を指し示した。

 ここからは真面目にやらせてもらう。


「では改めまして。こちらのご令嬢は侍女の間でも大変評判がよく、性格は温厚かつ聡明で――」


 我ながらなかなかの説明ぶりだと思う。

 六年間お嬢様の気まぐれな注文に応え続けてきた経験は、きっと物の良し悪しを端的に伝える能力を鍛えてくれたのだ!


 アンガス様は黙って聞いていた。

 時折資料に視線を落とし、何かを考えるように顎に手を当てている。

 真剣に検討してくださっているのだろう。これは確かな手応えだ。


 ――と、思っていた。


 ひとしきり私の説明が終わるとアンガス様は資料をパタリと伏せた。

 そしてまったく脈絡のないことを聞いてきたのだ。


「ところで、リビアの故郷はどんな場所だ」


 ……私の完ぺきな説明、聞いてました?

 このご令嬢とどんな関係が?


「え、えーと……私の家はここから東にある仕立て屋で……」


 混乱しつつも答えてしまうのは、聞かれたことには反射的に返事をする侍女の性分だろうか。

 いや、それだけではなかった。


 私を見つめるアンガス様の目が妙に穏やかで優しいのだ。

 先程までの爆笑の余韻でもなければ、国政を預かる冷徹な鋭さでもない。

 ただ静かに、私の紡ぐ言葉を待ってくれている目。

 こちらが言葉に詰まって黙れば、黙ったぶんだけ決して急かすことなく待ってくれる。


 思わず心の言葉まで話してしまいそうになる聞き方。


「五人姉妹の末っ子で、いつも姉たちの服のお直しを……あ、すみません、こんな話は花嫁探しと何の関係も――」

「いや、続けてくれ」


 ――混乱すると変なことを口走るこの口が悪い。


 でも、混乱しているのにするすると言葉が出てくる。

 自分でも驚いていた。

 優しい目で聞いてもらえたら、こんなにも口が軽くなるものなのか。


 気がつけば私は。

 実家の仕立て屋の布だらけの狭い作業場のことや、店を継ぐ長女以外の姉たちが次々と嫁いでいったこと。

 そして、居場所がなくなって一人残された自分がこうして王都に出てきた経緯まで、余すところなく語っていた。


 花嫁候補の説明をしに来たはずなのに、いつの間にか自分の身の上話をしている。本末転倒にもほどがある。


 ひとしきり語り尽くしてハッと我に返った私の前で。

 アンガス様はようやく手元の資料をめくり、静かにこう言い放った。


「まあ、この令嬢は針仕事ができないだろうから好みに合わないな」


 ――閣下、宰相夫人に針仕事は必要ないのでは?

 絶対に適当に断っている。


 冷静に考えれば当然だ。

 私が一晩でかき集めた令嬢になびくくらいなら、とっくに自分で射止めているはずだ。

 奴隷の身分から宰相まで上り詰めた男の行動力を舐めてはいけない。


 なにはともあれ、これで私が勝手に宣言した義理は果たした。

 まあ、最初から誰にも頼まれていない謎の義理だったけれど。


 さて、これからどうしよう。

 やはり伯爵家に戻る気にはなれない

 かといって実家に帰るのも気が引ける。すでに長女が店を切り盛りしている仕立て屋に五番目がのこのこ舞い戻ったところで居場所があるとも思えない。


 帰り支度をしつつも考え込む私に、アンガス様が声をかけた。


「待て。これからどうするつもりだ」

「実家に帰るか、悩んでいるところです」

 

 アンガス様はしばし黙った。顎に手を当て、何かを計算するような目をしている。

 やがておもむろに口を開いた。


「それなら、うちで雇われないか。引き続き花嫁候補の資料をまとめてくれ」

「え、参考になったんですか?」

「ああ。非常に参考になった」


 うーん。こちらとしてはありがたいが、全く役に立てた感触がない。侍女の井戸端情報を並べただけの資料が、国政を動かす男の何の役に立ったというのか。

 そんな私の疑問が顔に出ていたのだろう。アンガス様は続けた。


「侍女の目線というのは社交界の公式な評判では得られない情報がある」


 そう言った時のまなざしがさっきまでの穏やかな目とは全く違っていた。

 鋭く、真剣で、底が見えない。


 あ、と察した。

 これは政略的な何かの情報を掴んだということでは?

 私が垂れ流した侍女の噂話の中に、宰相として使える情報が混ざっていたに違いない。

 

 まあ使用用途はさておき、雇ってくれるのはありがたい。行き場のない五女にとってこれ以上の渡りに船はない。


「ありがとうございます。お世話になります」

「またおいで」


 表情を緩めたアンガス様は柔らかな顔でそう言って私を見送ってくれた。

 宰相府の重い扉をくぐって外の空気を吸った時。朝方とは全然違う軽さで胸が膨らんだ。

 昨日の今日でまさか宰相府に雇われるとは。

 私ってとてもツイてる!


 ――とはいえ、解雇されないためにも花嫁候補は次こそもう少しまともな資料にしなければ。



 ◇



 私は六年間の侍女生活で得た令嬢たちの噂話から貴族令嬢の情報を必死に書きだす。

 一晩で書き上げた資料は昨日の比ではない厚みになっていた。

 

 そして迎えた翌朝。

 私はその鈍器のような資料をアンガス様の前にドンッと叩き出した。

 分厚い束を見て、さすがのアンガス様も目を丸くしている。


「……リビア、この中の誰が俺の花嫁候補なんだ?」


「全員です!」


 一瞬の沈黙の後、アンガス様はまたしてもテーブルに手をついて肩を震わせ始めた。


 ――この人、よく笑う人だな。

 宰相ってもっと苦虫を噛み潰したような顔をしているものだと思っていた。

 ひとしきり肩を震わせた後、ようやく息を整えたアンガス様が涙目で優しく言った。


「さすがに全員は娶れないからな。君が厳選してくれ」

「厳選、ですか」

「ああ。ゆっくりでいい。君が『この令嬢は!』と太鼓判を押せる子を一人ずつ紹介してくれ」


 ……あれ?

 侍女の目線から令嬢の噂を広く集めるのが昨日の「有益な情報」の目的ではなかったのだろうか。厳選して一人ずつとなると、それはもう普通の花嫁探しなのでは?


 うーん、分からない。

 国政を預かる方のお考えは私のような末端の侍女には計り知れない。


「……はあ、分かりました」


 とりあえず頷いておく。雇われの身である以上雇い主のご要望には応えるのが侍女の矜持だ。


 こうして私は宰相府に日参することになった。

 朝一番にやって来てはアンガス様にお茶を淹れ、侍従たちが手の回らない細々した雑事を片付ける。六年間の侍女経験はこの手の仕事には存分に活かせた。

 そしてその合間に、侍女たちから仕入れた情報を精査し、「この方なら」と思う令嬢を厳選していく。


 侍従たちとも随分打ち解けた。

 彼らが口を揃えて言うのは、「閣下は部屋に入った瞬間、何が起きているか全てご存知のように指示を出される」ということだった。

 書簡が届く前にその内容を言い当てたことすらあるらしい。


 「頭の出来が違いすぎるのですよ」


 侍従長は敬服と諦めが半々の顔で笑っていた。

 なるほど、奴隷の身から宰相にまで上り詰めた御方だ。常人とは見えている世界が違うのだろう。

 


 気づけば一週間が過ぎていた。


 厳選に厳選を重ね、私はついに二人目の候補を決定した。

 社交界での評判は申し分なく、侍女仲間からも「あの方は本当に穏やかな方」とお墨付きをもらっている。


 一人目よりさらに条件の良い、自信の一枚である。


「次こそはきっとお気に召す最高のご令嬢かと思いますよ!」


 私は自信満々で資料をアンガス様に差し出したのだ。


「このご令嬢は宮廷でも随一の才女と侍女たちの間で評判でして――」


 一週間かけて練り上げたプレゼンを、私はすらすらと披露した。

 アンガス様は目を伏せて真剣に聞いている。時折頷きながら。

 今度こそ私のプレゼン能力がさえわたっている手応えがあった!


 ひとしきり語り終えると、アンガス様は資料を一瞥して静かに言った。


「確かに、良いご令嬢なのだろうな」

「そうでしょう!?」


 私は内心で小躍りした。

 これでようやくアンガス様のお役に立てた。やっと雇われの身として恩を返せた気がした。


 そう思っていると、アンガス様は私が淹れたお茶を一口飲んで、静かに口を開いた。


「ところで、リビアはどんな茶葉が好きなんだ?」


「え、突然どうしたんですか!?」


 急すぎる話題に、私はぽかんと目を丸くした。

 今のご令嬢の話とどう繋がるのだろう。


「いいじゃないか。答えてくれよ」


 そう優しい目で言ってくるアンガス様。

 なんだろう、この既視感。

 

「私は……この間、市場でおいしい茶葉を見つけまして」


 恐る恐る、言葉を紡ぐ。

 そしてやはり前回と同じようにするすると言葉が出てきた。

 

 午後の仕事終わりに一杯淹れて飲むのが楽しみなこと。お嬢様のお下がりの高級茶葉より、市場の三番目に安い茶葉のほうが自分の舌には合うこと。実家の母が庭で育てていたミントを入れたお茶が忘れられないこと。


 ――私、お茶を飲んでホッと一息つくのが好きだったんだ。

 

 自分のことなのに今さら初めて気づいた。不思議な感覚だった。

 六年間、私はお嬢様の愚痴を聞く側だった。実家では五人の誰かの話に埋もれていた。「リビアは?」と聞かれたことが今までの人生であっただろうか。

 好きな茶葉も楽しかった思い出も、聞かれたことがないから考えたこともなかったのだ。


 気づいた時、私は随分と長く話し込んでしまっていた。


「あ、すみません。話し過ぎました」


 頬を熱くしながら詫びるとアンガス様は「いいや、楽しかったよ」と目を細めた。


 ふと彼の袖口のボタンの糸がほつれかけているのが目に入った。

 直してあげたいと反射的に思って、それは仕事でもなんでもないと気づいて慌てて目を逸らした。


 アンガス様は話し込む間に少し冷めた茶を飲み干し、私の渡した資料を伏せた。


「まあでも、この高級茶葉しか知らなさそうな令嬢は好みではないかもな」


 ――宰相夫人は高級茶葉を嗜むのが普通なのでは?

 今回も絶対に適当な理由をつけて断っている!


 今日こそは、と思ったのに。

 まあいい。私は雇われの身だ。断られるたびに次を探せばいいだけ。給金が出る以上、何度でも付き合う覚悟はある。

 ――それにしても。この人、本当に結婚する気はあるのかしら?


「楽しかったよ。ありがとう」


 アンガス様はそう言って、柔らかな笑みを浮かべた。そしてその穏やかな顔のまま、妙な申し出を続けてきたのだ。


「……もし、リビアが良かったら。今度からお昼に一緒にお茶にしないか?」


「え?」

 

 一体、どういう意味だろう。

 雇われの侍女として『お茶を淹れる係』を日常業務にしろという命令だろうか?

 いや、それならわざわざ「一緒に」なんて言い回しはしないはずだ。

 あるいは先ほどの身の上話の続きを聞きたいという意味か。それとも花嫁候補のプレゼンをお茶の時間に回したいという意味か。


 国政を預かる方のお考えは、今日もやはり私のような末端の侍女には計り知れない。


「……お茶菓子が経費で落ちるなら」


 困惑したまま、気づけば意味の分からない言葉で頷いていた。


 ――混乱すると変なことを口走るこの口が悪い。


 アンガス様は満足げに微笑み、私を送り出してくれた。

 宰相府の外に出て、夕暮れの空を見上げる。


 ――お昼のお茶、か。


 雇われの身としてお付き合いするだけのこと。

 それだけのはずだが、なんだか少し楽しみだ。


 歩きながら口元が勝手にゆるんでいることに気づいて、私は慌てて表情を引き締めた。



 ◇



 それから私はアンガス様とお昼にお茶をご一緒するようになった。


「リビアは針仕事が好きなのか?」

「姉たちとは仲が良いのか?」


 アンガス様は花嫁資料を渡した時と同じように「リビアは?」と私のことばかりを尋ねてくる。

 毎日毎日聞かれては、毎日ペラペラと答えて。そのたびに私は思うのだ。


 ――私って、こんなに話すことがあったの?


 五人姉妹の末っ子で取り柄は針だけ。名前より「縫っといて」と呼ばれていた女。

 なのに、こんなに語れることがあったのだ。

 二十数年分の「聞かれなかった話」がアンガス様の前で少しずつ蓋を開けていく感覚。

 それが嬉しいのか恥ずかしいのか、自分でもよく分からなかった。


 だが、私以上に不思議なのはアンガス様のほうだった。

 この人は私のとりとめのない話を本当に心底楽しそうに聞いているように見えるのだ。

 国政を動かしている人間が、侍女の姉のお下がりの話を聞いて「それで?」と身を乗り出してくる。


 宰相って暇なのだろうか。いや、暇なわけがない。

 そもそもなぜ私を毎日お茶に誘うのだろうか?

 

「そういえば私の話ばかりでアンガス様のことを全然知りません。花嫁を探す側のお好みを知るためにも、少しはご自身のことを教えていただかないと」


 私が思い切ってそう尋ねてみるとアンガス様はぽかんと目を丸くした。それからしばらく深く考え込んでしまった。


「そうだな……」


 言葉を濁したアンガス様は一瞬だけ、ひどく疲労の色が濃い顔をした。

 完璧な『宰相』の仮面がカチャリと外れて、その奥にいる傷ついた『誰か』の素顔がほんの少しだけ覗いたような、そんな顔だった。


 でもそれは本当に一瞬で、次にはいつもの穏やかな顔に戻っていた。


「今度な」


 そう言って話を切り上げたアンガス様に、私はそれ以上無理に聞き出すことはしなかった。


 奴隷から始まった人生だ。

 語りたくないことが山のようにあって当然だろう。

 私みたいに「姉のお下がりが嫌だった」なんてかわいい話ではないはずだ。

 いつか、この人が話したくなった時に聞けばいい。侍女は待つのだけは得意なのだ。



 それから何週間か経った。

 相変わらず私はアンガス様に花嫁候補を提出している。提出しているのだが……。


 三人目の候補。

「実家が南部の大領地か。里帰りに片道二週間かかる女は面倒だ」

 ――そんな理由で断られたらこのご令嬢が気の毒です。


 四人目の候補。

「趣味が乗馬と社交か。朝は遅そうだな」

 ――閣下、資料のどこにもそんなことは書いておりませんが。

 なぜこの方の趣味から朝の習慣が推測できるのか。まるで実際に会ったことがある物言いだ。

 ……いや、宰相閣下なのだから社交界で面識があるのかもしれないが。


 それにしても、断る理由が回を追うごとにどんどんおかしくなっている。

 もはや真面目に花嫁を探しているのか、私が出した令嬢に対して理不尽な難癖をつける大喜利をやっているのか全く分からなくなってきた。


 しかし不思議なことに、断られるたびに私の胸に浮かぶのは落胆ではなかった。

 だって断られれば、また次を探す理由ができる。

 次を探す理由があれば、明日もこの部屋に来ることができる。

 明日もここに来れば、お昼にまたお茶をご一緒できる。


 ――あれ?


 いつの間にか花嫁候補の資料をまとめながら心のどこかで思っていたのは――。

 見つからなければいい?


 いやいや、何を考えているのだ。見つけるのが私の仕事だ。雇われている理由そのものではないか。

 そして私はお役御免になってこの部屋から出ていく。


 毎日のお昼のお茶のひとときも、「リビアはどう思う?」と優しく聞いてくれるあの声も、もう二度と聞くことはなくなるのだ。


 それは……。


 ――今日も私は花嫁候補を持っていく手と、見つかってほしくないと願う胸の、両方を抱えてこの宰相府に通うのだった。




◇ アンガス視点 ◇


 奴隷から宰相にのし上がった傑物。王国史上最強の天才。

 世間の連中は俺をそう持ち上げるが、俺から言わせれば全てはただの『予定調和』でしかない。

 俺はただ、あらかじめ見えている『最適な行動』をなぞって実行しているに過ぎないのだから。


 ――【未来予知】


 自分がある行動を取った場合、その先に何が起こるかが見える。ただそれだけの力だ。

 だがそれだけで十分だった。


 奴隷の身であろうと、主人に好かれる言葉を選ぶのは簡単だ。役人として結果を出すのも当然のこと。最適な選択を積み続ければ、人は勝手についてくる。

 結果、俺はあっという間に宰相という最高権力の椅子に座っていた。


 だが、この便利な力にはたった一つだけ代償があった。

 全ての人間の言葉が、三文芝居の『台本』を読んでいるようにしか聞こえないのだ。

 誰がどんな思惑で近づいてくるか。俺が何を言えば相手がどう媚びへつらうか。

 裏切りも忠誠も、全て事前に見えている。


 オチの分かっている茶番劇を毎日毎日観せられるのは、思いのほか退屈だった。


 あの夜もただの予定された作業の一つだった。

 ロアナ嬢の書き置きを回収しに行っただけだ。怒りも悲しみもない。あの令嬢が駆け落ちすることは、婚約する前から見えていた。

 むしろ盛大に夜逃げさせた方が伯爵家の特大の弱みを合法的に握れる。だからあえて泳がせておいただけだ。


 予定通り、もぬけの殻になった部屋で書き置きを回収して帰ろう。

 そう思って無人の寝室の扉を開けた時だった。


 ――そこに。絶対にいるはずのない人間が、いた。


 侍女がマグカップを手に立っていた。

 いや侍女が牛乳を飲んでいようがそんなことはどうでもいい。大した問題ではない。


 最大の問題は――この女の未来が俺の目に全く『見えない』ということだ。


 次にこの女が何をするのか、何を口走るのか、一秒先の未来すら全く分からない。

 常に先のページが見えていた俺の視界が、この女の前でだけ真っ白になっている。


 これが俺にとってどれほど異常な事態か分かるだろうか?

 ショックのあまり、俺は文字通り開いた口が塞がらなかった。


 そうやって未来が見えないことに死ぬほど驚いていると――その女はマグカップを窓の外に投げ捨てた。


 ――は?


「あんな女のことはお忘れになりましょう!」


 女が叫んだ。

 意味が分からなかった。なぜ慰められているのだ。俺は慰められるような状況にいない。


「むしろ幸運です!」


 女が俺の手を掴んで畳みかけてくる。

 話を止めようとしたのだ。「いや」「待て」「聞け」。

 三度口を挟もうと試み、しかし見事に三度とも勢いでへし折られた。


「すべてこのリビアにお任せを!」


 言い捨てるなり女は嵐のように部屋を飛び出していった。


 あとに残された静かな部屋で。俺は一人呆然と立ち尽くしていた。

 扉に手をかけ、口を半開きにしたまま。マグカップが消えた窓を眺めたまま。

 しばらくその場から一歩も動けなかった。


 幻覚か?

 いや、幻覚にしては手を掴まれた感触が生々しすぎる。


 そもそも、未来が読めない人間など俺の人生で今までただの一人も存在しなかったのだ。

 何らかの条件で一時的に俺の能力がおかしくなったのか。それとも、あの『リビア』という女だけが特別な例外なのか。

 ……分からない。


 俺は生まれて初めて『分からない』という強烈な感覚を全身で味わっていた。


 翌朝。

 俺は宰相府の執務室で、山積みの書類を前に完全にぼんやりしていた。


 ダメだ、昨夜の珍事が頭から離れない。

 あのテンパった女の顔。嵐のような声。そして窓外へ消えたマグカップの美しい放物線。


 予知できずに直面した出来事は、どうやら俺の脳裏に恐ろしいほど鮮明に焼きついたらしい。


 あのリビアと言った謎の女は、一体何者なんだ?

 ……部下を使って、少し探らせてみるか?

 俺がそう真剣に考えていた、まさにその時。

 あの女が昨夜の宣言通り、のこのこと宰相府まで本当にやって来たのだ。

 徹夜でまとめた花嫁候補の資料を胸に抱え、一睡もしていない血走った顔で。


 来るとは分からなかった。

 未来が見えなかったからだ。

 だが彼女は本当に来た。


 そして、わざわざ乗り込んできた理由が――連座で処刑されないようにするため?

 夜逃げするわけではなく?


 その信じられない事実だけで、俺は生まれて初めて腹の底から声を上げて笑い転げていた。



 ◇



 花嫁候補の資料を「せっかくですから」と広げるリビアを、俺はぼんやりと眺めていた。


 この女は先方に一切の交渉もしていない。

 侍女仲間の噂を集めただけの資料を、堂々と俺の前に広げている。


「アンガス様ほどの御方であれば、どなたでも射止められると思いまして!」――その根拠のない自信はどこから来るのだ。


 彼女が令嬢の美点を滔々と語る間も、俺の頭は上の空だった。

 どう集中しても、この女の未来が読めない。

 目の前で口を動かしている人間の次の一言が分からない。

 人生で一度もなかった体験だ。


 ひとしきり彼女が話し終えた。

 普通なら資料を検討するフリでもするところだが、俺の口は思考を通さずに動いていた。


「ところで、リビアの故郷はどんな場所だ」


 我ながら脈絡がなさすぎる。

 案の定、リビアは目を丸くしていた。当然だ。花嫁候補の話をしていたのに、急に侍女の故郷を聞く人間がどこにいる。


 だが彼女は困惑しながらも律儀に答えてくれた。

 田舎の仕立て屋。五人姉妹の末っ子。姉のお下がりばかりだったこと。


 リビアが話す。

 一秒後に何を言うか分からない。次の言葉が予測できない。


 ――ただそれだけのことが、こんなにも会話に引き込まれる理由になるものなのか。

 

 全ての人間の言葉が台本に見えていた俺にとって、彼女の話だけがまだ読んでいない本のようだった。次のページをめくりたい。その先に何が書いてあるか分からないまま。


 こんなワクワクするような感覚は俺の人生で初めてのことだった。


 彼女がひとしきり話し終えて「あ、すみません」と頬を赤らめた。

 俺は改めて資料に目を落として令嬢の未来を見た。


 この令嬢と俺が結ばれた場合の未来が流れ込んでくる。

 穏やかな朝食。完ぺきに整えられた邸宅。社交界で並んで立つ美しい夫婦の姿。

 世間的には非の打ち所のない結婚だ。政治的にも申し分ない。


 ――明らかに、俺が結婚すべき最適解の女だった。


 だが。

 この令嬢を選んだ未来にリビアはいなかった。

 花嫁が決まればリビアの仕事は終わる。彼女は宰相府を去り、この部屋にはもう来ない。


 もっと話を聞きたい。

 彼女の、予測できない話を。


 そう思った瞬間、口をついて出ていた。


「まあ、この令嬢は針仕事ができないだろうから、好みに合わないな」


 最適解を、蹴った。

 生まれて初めて最適ではない選択をした。

 その信じられない事実に俺自身が一番驚いていたが、どうしても彼女ともっと話をしたかったのだ。


 そして帰り支度をしかけたリビアに、気づくと俺は声をかけていた。


「待て。これからどうするつもりだ」

「実家に帰るか、悩んでいるところです」


 実家に帰る。

 その言葉が妙に重く響いた。

 もし彼女が田舎に帰ってしまったら、俺たちはもう二度と会うことはないだろう。

 それだけは未来予知の力なんか使わなくてもなんとなく分かった。


 どうすればいい。

 生まれてから最適解を出し続けてきた頭が、今まさにこの侍女一人の引き留め方を必死に計算している。

 だが計算しようにも、この女の反応が見えないのだ。何を言えば残ってくれるのか分からない。


「それなら、うちで雇われないか。引き続き花嫁候補の資料をまとめてくれ」


 口から出た言葉は、我ながらみっともない引き留め文句だった。

 花嫁候補の資料など要らない。だが、それ以外に彼女を繋ぎ止める口実が思いつかなかった。


 「お前と話したいから残れ」と、言えなかったのだ。


 リビアは少し考えて「ありがとうございます。お世話になります」と頷いた。


「またおいで」


 穏やかに言えたと思う。

 少なくとも声は震えていなかったはずだ。


 彼女が宰相府の扉をくぐって消えた後、俺は執務机の前でしばらく動けなかった。


 明日、彼女は本当に来るだろうか。

 見えない。来るかどうかが分からない。


 俺の人生で『明日のこと』が分からなかった日など一日もなかった。

 明日の天気も明日届く密書の中身も、明日の謁見で腹黒い貴族が何を言い出すかも俺は全て知っていた。

 それが今。たった一人の平民の侍女が、明日の朝ここへやって来るかどうかが分からないというだけで、胸がざわついて全く落ち着かないのだ。

 ――これが『不安』という感情なのか。こんなにも心許なく、足元が揺らぐようなものなのか。


 だが同時に、もう一つ別の感覚があった。

 明日、彼女が来たら何を聞こうか。

 茶葉の話の続きだろうか。姉たちの話だろうか。それとも、まだ聞いていない何かだろうか。


 その「何か」が分からないことがこんなにも胸を温かくするとは知らなかった。


 期待。

 たぶん、これが期待だ。



 ◇



 それからリビアは毎朝来た。


 時折花嫁候補の資料を持ってくる。そして頼んでもいないのに応接室を片付け、茶を淹れ、侍従たちと何やら楽しそうに雑事をこなしている。

 その全てが予知できない。

 いつ来るか分からない。何を持ってくるか分からない。茶を淹れる時に鼻歌を歌うか歌わないかすら分からない。

 未来が見えない人間と過ごす日々は、俺に生まれて初めての感覚を与え続けた。

 「明日、何が起きるか分からない」。

 それがこんなにも心地良いとは。


 そしてもう一つ、不思議なことがあった。

 彼女が持ってくる候補が、悉く正しいのだ。

 俺が予知で計算した場合の最適解と同じ令嬢を、この侍女は侍女仲間の噂話だけで引き当ててくる。

 しかも、ご丁寧に最適な候補から順番にだ。

 勘なのか経験なのか理由は分からなかった。だが偶然だとは思えなかった。


 それでも、一人ずつ断った。

 針仕事ができない。高級茶葉しか知らない。里帰りが遠い。朝が遅そうだ。

 理由は何でもよかった。断る口実さえあれば。

 彼女とのお昼のお茶のために。

 この時間をあと少しだけ引き延ばすために。


 毎朝、リビアが扉を開けるたびに思った。

 「いっそ花嫁候補を探すのを止めて、お前が俺と結婚してくれないか」

 そして毎朝、飲み込んだ。


 奴隷の身から貴族を跪かせてきた俺の人生に、一つだけ欠けた経験があった。

 断られること。

 未来が見える以上、相手の答えは常に分かる。受け入れられる確信がある時だけ手を差し出し、断られると分かれば最初から引けばいい。だから俺の提案は一度も断られたことがない。


 ――それはつまり、俺の人生で『傷つく覚悟で手を差し出したことがない』という事実を意味していた。


 リビアだけが、俺にとって唯一『答えの分からない相手』だった。

 勇気を出して手を差し出しても「いらない」とあっさり切り捨てられるかもしれない。

 この国で一番の権力を持っているはずの男が侍女一人の返事が怖くて、黙って無意味な候補の資料を受け取り続けているのだ。


 我ながら、情けないにもほどがある。


 ある日、いつものお茶の時間にリビアがロアナの愚痴を語った。


「月曜に縫ったものを火曜にほどかされて、水曜に理不尽に泣かれるんですよ!私の仕事、毎週全部『間違い』にされるんです。でも別に死にませんから。木曜にはまた懲りずに縫ってますよ」


 笑いながら言っている。リビアにとってはただの愚痴話。

 だが俺は稲妻に打たれたような衝撃を感じていた。


 リビアは毎週『間違い』にされて、毎週やり直して、それでもたくましく生きている。

 普通の人間なら当たり前のことかもしれない。

 だが、簡単に正解を出し続けることができる俺には、それが途轍もない偉業に感じられた。


 俺が一度も間違えたことがないのは、一度も本気で傷つく覚悟を持たなかったから。持つ機会がなかったから。

 だが、彼女は何度否定されても、翌朝にはまた立ち上がって挑戦を続けている。


 俺は五人目の花嫁候補の資料をテーブルに伏せた。

 予知は使えない。この先に何が起きるかは分からない。盛大に間違えて拒絶されるかもしれない。


 それでも俺は。

 生まれて初めて、明確に『間違えるかもしれない言葉』を自らの意思で口にする。


「花嫁候補はもう要らない。俺が欲しいのは——」


 そこで止まった。


 ――欲しいのはお前だ。

 用意してあった語が喉の手前で止まった。

 その言葉が嘘に聞こえた。

 それは所詮、俺の頭が計算で組み立てただけの『最適な告白』に過ぎない。

 今まで通りの、ただの台本通りのセリフだ。


 それではだめだ。それでは今までと何も変わらない。


「……違う。欲しいんじゃない」


 テーブルに手をついて、うつむいた。


「お前がいない朝に飲んでいた、茶の味が思い出せないんだ。お前が来る前に、どうやって一日を始めていたか分からなくなった」


 紡ぎ出す自分の声が、情けないほどに震えているのが分かる。


「これは……なんだ。俺の知っている言葉の中に、これに当てはまるものがない」


 視界が滲んだ。頬に何かが伝っている。

 ――泣いているのか。俺が?


 国を動かし、全貴族を跪かせ、王すら裏で操ってきたこの男が。

 今、たかが侍女一人の前でボロボロと泣いているのだ。


 なんて情けない無様な姿だろうか。

 こんな結末、もし予知で見えていたなら俺は全力で回避していただろう。


 だが……見えなかったからこそ、俺は今ここにいる。

 見えなかったからこそ、この言葉を口にしている。


「だから、どうしても、ずっとそばにいてください」


 奴隷から宰相まで、全てを計算で勝ち取ってきた俺の、生まれて初めての、計算のない言葉だった。


 重い沈黙が落ちた。

 未来は見えない。彼女が次にどういう行動に出るのか、全く分からない。

 この恐ろしい沈黙がたったの一秒なのか、それとも一年にも及ぶのか、俺には全く見当もつかなかった。


 やがて。

 リビアが静かに手を伸ばしてきた。そして、涙で濡れた情けない俺の頬にそっと指を添え、優しく拭ってくれた。

 その指先の驚くほどの温もりすら、冷たい予知の映像の中では決して知り得ないものだった。


 それからその指は、ずっと気になっていたのだろう――俺の袖口のほつれた糸に触れて、何かを確かめるように止まった。


 返事をするために、彼女は小さく息を吸った。

 混乱すると変なことを口走るというその口が、また開かれた。


 ――そして。


「処刑なんてするわけないだろう」


 俺は笑いながら、そう返していた。

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― 新着の感想 ―
泣けましたわぁ。(ノД`)・。ほんとのきもちはゆうきいるよね泣いちゃうよね。よいおはなしでした(っ'ヮ'c)
いいな。すごくいい。 気持ちのよい笑みが溢れてくる。 粗忽だが外さない女に対して、完璧な男が完全に私情だけの告白がてえてえ。
メンタルつよつよなリビアがとても可愛くて面白かったです。 最後のリビアの答えがタイトルでしょうか。
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