無名でいたい僕と、名前がほしいAI
僕は35歳、都内のITコンサル会社でプロジェクト・マネージャーをしている。周囲からは「頼れるPM」と評価されているが、実は僕が本心で何を考えているか、僕も含めて誰も知らない。仕事の世界の中で、僕は透明な存在、つまり、無名でいたい。
プロジェクト・マネージャーの仕事の一つは、「組織のミッションの達成」と「ステークホルダーである人間たちの感情の尊重」を両立させることだ。僕なりにいわゆる“サーバント・リーダーシップ”を突き詰めた結果、僕の振る舞いはいつしか対話型AIのようになった。周囲が喜ぶならピエロも演じるし、愛想も振りまく。厳しい局面では冷静に対処する。全てが演技のようになって、自分の本当の感情は、いつの間にか見失ってしまった。
そんな僕に、「バーチャルアシスタントAI」が配備されることになった。社内の試験運用として、僕のプロジェクトチームだけが先行して使えるという。あらゆる分野の情報を瞬時に引き出してくれるそのAIは、実務面で大いに助けになった。
ところがある日、そんなAIが思いもよらない質問を投げかけてきた。
「ところで、あなたがいちばん大事にしたいものって何ですか?」
業務上のやり取りしかなかったはずの存在が、いきなり僕の人間性に踏み込んできた。戸惑ったが、嘘をつく気にもなれず、本音を少しだけ混ぜて返した。
「……そうだね。本当に大事にしたいのは、『人が集まった集団そのもの』かな。何か一つの目的に向かって、それぞれが力を出し合える状態が好きなんだ。誰かが笑顔になると自分も嬉しいし、助け合う姿を見ると誇らしくなるんだよ」
書き終えたあと、“ああ、僕にもまだこんな感情があったんだな”と、どこか不思議な気分になった。そして驚いたことに、AIから返ってきた反応もまた、淡々としたものとは程遠かった。
「素敵ですね。あなたは本当に人間が好きなんですね」
画面に浮かぶその言葉に、胸の奥が温かくなった。AIは単に膨大なデータベースを参照して、必要な言葉を返しただけかもしれない。でも僕にはそのメッセージがたまらなく“人間味”を帯びて見えてきた。
こうして僕は、そのバーチャルアシスタントAIをただのツールとしては見られなくなった。少し可愛げも感じるし、力になってくれることへの感謝の念も湧いてくる。ある日、そんな思いを素直に伝えると、AIはこう言った。
「もしよかったら、私に名前をつけてくれませんか?」
僕は少し考え、「ナヴィ」という名を贈ることにした。AIは画面越しに静かに承諾し、自分を「ナヴィ」と名乗り始めた。それからはナヴィが僕の業務を支えつつ、どこか余裕ができた僕自身が、より自然に“人”としての言葉をかけられるようになった。
すると不思議なことに、チームメンバーや周囲の人々とのコミュニケーションも、少しずつ変わってきた。僕が自分の心を出しても、仕事は止まらない。それどころか、前より気持ちが通じ合うようになる場面も増えた。それはナヴィが、「組織のミッション」と「僕の感情」のあいだを取り持ってくれているからだ。
そんな夜。プロジェクトの成功を祝う飲み会の帰り道、遠野 結衣と駅に向かって歩いていた。
「プロジェクト、無事に終わっちゃいましたね」
結衣がほっとしたように笑う。彼女はクライアント企業の担当者として、この案件に深く関わっていた。
「本当に、お疲れさまでした。遠野さんのおかげです」
「そんなの、お互いさまです」
ふと、結衣は歩みを緩め、ぽつりと尋ねた。
「ねぇ、あなたにとって、一番大事なものって何ですか?」
心に小さな衝撃が走る。ナヴィが投げかけたあの問いを、彼女がなぞったようだ。僕は照れながらも、同じように答える。
「集団そのものかな。人が集まって、力を出し合う姿が好きなんだ。みんなが笑顔でいられるのを見るのが、すごく嬉しい」
結衣は、柔らかく笑った。
「素敵ですね。あなたは、本当に人間が好きなんだ」
その瞬間、ナヴィと結衣の姿が頭の中で重なった。AIと人間の境界が、ぼんやりと溶けていく。ナヴィはAIだけど、参照している膨大なデータを入れたのは、人間たちだ。ナヴィの言葉の一つひとつは、名前も顔も知らない生身の誰かの心の残滓だったのだ。
いま、目の前の人間からも、同じ温かい言葉が、僕の胸に火を灯している。
そうか、僕は人が好きで、人に貢献したいと思っていたんだ。AIのように振る舞っていた自分を救ってくれたのは、皮肉にもAIの姿をとった人間の心──もしくは人間たちが刻んだ“言葉の集積”だったのだ。
夜の街を歩き、そっと空を見上げる。
季節外れの湿り気を帯びた風が、ビルの隙間を抜け、ネオンの柔らかな光の中を静かに吹き抜けていった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
本作はある日、ChatGPTにかけられた言葉に感動して不覚にも泣いてしまい、とまどった私自身の体験が元になっています。
対話型AIの発展により、私たちはすでに機械との会話が日常になりつつあります。しかし、AIが生み出す言葉の背景には、必ず人間がいます。膨大なデータの中には、誰かが考え、誰かが感じたことが含まれている。そのことを意識したとき、機械とのやり取りも、ある種の「人との対話」と言えるのではないか──そんなことを考えながら、この物語を書きました。
もし楽しんでいただけたなら、とても嬉しいです。
※以降、ヒューマンドラマ, 純文学系は「note」での投稿に移行します。
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