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愛しのマリィ~幼馴染み♀を優先する糞野郎(夫)に離縁書を叩き付けたら溺愛されました~

作者: 一之瀬 椛


「マリエル、すまない。この埋め合わせはまた後日するから」


申し訳なさそうに言ったのは、夫セルジュ=ティエールだった。


マリエル=ティエールはそれを冷めた気持ちで見た。

夫が、妻ではない女が抱き付いて来ても拒むことはなく、その肩を抱いて言うのだから。


例え相手の女がセルジュにとって幼馴染みで気安かろうと、今は自分の夫なのだ。

妻からしたら、夫の幼馴染みという立場以前に一人の女でしかない。明らかな好意を自分の夫に向け、自分の敵意……優先されると解るとマリエルに対して勝ち誇った表情をするのだから気分は良くはない。

だが、夫の気持ちは自分に向いていると思っていたから我慢が出来た。


しかし、度重なっていけば、その気持ちを疑う気持ちにもなる。

新婚当初から……否、婚約者となった当初からだったか。

定期的に二人で逢い関係を作り上げていく場に毎回彼の幼馴染みのニコレット=カリエが顔を出して来るか、相談があるとか言い急な呼び出しをして来るだ。

守ってあげたくなると言われる愛らしい容姿に、男好きし易い性格。精神的にも弱く不安定らしく、誰かが傍にいてあけなくては何をするか解らないという。

学生の頃から第二王子殿下や後はその側近となる令息達とも懇意にしていた彼女は日頃から優遇されていた。

夜会にはエスコートされるが、第二王子殿下達の輪に彼女に引っ張られて行ってしまうので話が終わるまで放置。戻るまで待つ様に言われても、散々待たされた後に一人で帰る様言われる時もある。

互いの誕生日や記念日も祝おうと約束しながら、急な呼び出しで一度として祝ったことは無い。連絡も無く、延々待たされたことも。

そちらを常に優先し、妻を省みない。

彼にとって自分は何なのか解らなくなる時があった。


マリエルは子爵家でセルジュは侯爵家、ニコレットは伯爵家。

結婚前は自分より高位の……しかも、王族とも縁のある者相手に意見を言ったところで、意見した側が責められる。第二王子殿下達の婚約者達を見て解り、口を出すことはせず。

諦めた気持ちで、黙って下がっていた。

というより、下がるしかなかった。


その度にセルジュは「この埋め合わせはまた後日」と申し訳なさそうに言う。

ただ、マリエルは埋め合わせをしてもらった記憶は無い。

当然だ。埋め合わせと言って約束をしても、ニコレットが必ず二人の間に割り込んで来るのだから。

詫びに花の一輪でもあれば、手紙の一つでもあれば、憂いは拭えたかもしれないが、それも無いまま。


夫婦となっても、変わらなかった。

二人で出掛ける時にはニコレットは何処かから話を聞き付けて現れた。領地の視察の際も。

一番驚かされたのは、結婚式後の蜜月を過ごす為にもらった休みの間、ニコレットが夫婦の新居に上がり込み、居座ったことだろうか。

セルジュが客として彼女を持て成した為に、客のいる時は……とマリエルが受け入れられず初夜は何も無いまま。

翌朝からも妻となったばかりのマリエルではなく、ニコレットをべったり寄り添わせて座り、ニコレットと過ごす時間の方が多かっただろう。

小侯爵夫人となって、伯爵令嬢の彼女より立場は上になっても、夫であるセルジュが良しとすれば口は出せなかった。


休みもそうしている内に終わり、忙しいセルジュはほとんど家には帰れず。

たまに帰って来ても、明らかに女性の香水だろう匂いを纏わせていたので、夜は気分ではないと拒み続けた。

無理強いをしないセルジュとは、もうじき二年が経とうというのに白い結婚と言われても仕方がない状況が続いていた。


セルジュのことは昔から好きではあった。

一目惚れと言っても良いかもしれない。

多くのご令嬢が焦がれた美しい容姿に、珍しい黒く艶やかな濡れ髪に、海の様に深い蒼に、マリエルも見惚れ心惹かれた。

低位の家である我が家に、彼の家から婚約の話があるとは思わなかったから、当時は本当に驚いた。格別美しくもなく、金がある訳でもない、功績を残し勲章を幾つか持つだけの子爵家の娘だったのに。

高位の家を相手に断れる筈もなく、恐縮しながらも婚約を受けることになった。


思い返せば、婚姻前に二人で逢ったのは侯爵がセルジュを伴い子爵家に婚約の書類を持参した時だけ。

まだ、彼と幼馴染みの関係を知らずに、優しい彼に胸をトキメかせていた。


それが、今では、マリエルの気持ちは冷めていく一方になっている。

所詮は都合の良い従順な妻という立場に据える女を選んだに過ぎなかったのではないかと一年が経った頃から思っていた。よく我慢した方だろう。


埋め合わせは後日と言って、それはいつになるのか。

そもそも、今日が度重なる約束を反故にしてきた埋め合わせではなかっただろうか。


「……それはいつです?」

「え?」


いつも「わかりました」と言い、下がっていたマリエルが聞き返したのでセルジュは目を丸くした。


「あ、いや、すまない。まだ次の休暇は決まっていないんだ」

「そうですか。わかりました。では、もう埋め合わせは不要です」

「え、待ってくれ。次は必ず時間を」

「結構です。旦那様はお忙しいでしょうから、私なんぞの為に時間を取る必要はありません」


では、と頭を夫にだけ下げて、背を向けた。

「マリエル」と少し焦りを滲ませ呼ぶ声が聞こえたが、振り返ることはなく屋敷に戻った。


夕食はニコレットがセルジュにくっついて屋敷に来たのでマリエルは部屋に運んでもらい一人で食べ、遅くまで屋敷に留まったニコレットと顔を合わせる気はなく早々休み、言葉を交わさず終わった。

翌日から、また忙しくなったセルジュとは顔を合わせる機会は減り、朝食時と就寝前に運が良ければ逢える程度。

以前は言葉を交わす努力をしていたが、マリエルが笑顔を見せず、聞かれても端的にしかに話さなくなったことで会話も極端に減ってしまった。戸惑った様子のセルジュに気付きながら、見てみぬふりをしたから余計だろう。


マリエルは冷めた気分で、一つ計画を立てていた。

この国では、婚姻して二年、子供が出来なければ離縁出来る。白い結婚であると示せば、確実となる。

セルジュを含め、周囲に気付かれない様に教会に相談をし、離縁書を手に入れていた。

婚姻が成立した記念日に、サインを頼むつもりで。


近付くにつれ、昨年の記念日を思い出す。

婚姻して一年ということで記念に祝おうと約束していたが、ニコレットが自死を図ったと知らせが入った。夜景が美しいと評判の、予約をしていたレストランに丁度着いた時に。

マリエルに何も言うことはなく、マリエルをその場に一人残して行ってしまったのだ。

一人で食べる気にはなれず、馬車を呼んで屋敷に帰り、彼の帰りを寝ずに待ったが、彼がその日帰ることもなかった。

せめて、一言あれば……と思っても、過去の話。

それ以前の誕生日や記念日にも騒ぎを起こす彼女と、彼女の元に行く彼。

心配は構わないが、この先も繰り返されると考えると虚しさを感じた。始めから、約束などしなければ期待もしないのに。


自死を図ったと言っても、彼女が怪我をしたことは一度も無い。傷を付ける前に、薬を飲む前に使用人が気付き止めていたという。

翌日にはいつも通りの元気で明るい彼女に戻っているらしい。

本気ではない様に思えた。

わざわざセルジュとマリエルの特別な日を狙って騒ぎを起こしているのでは、と勘繰りたくなる程に他の日には騒ぎを起こしたことが無いのだ。


故に、婚姻して二年の記念日にも何かする様な気がしていた。

だからこそ、離縁書を用意した。

彼女の元に行く前にサインしろ、と言うつもりで。


懲りずに、セルジュは祝いの席を用意すると約束してきた。

また店に一人取り残されたくないマリエルは屋敷での食事を望んだ。


そして、その日は来て、彼女はまた自死を図ったという。

伯爵家の使用人がセルジュを呼びに来た。

「セルに会いたい」と泣きながら言っていると。

これまで通りであれば、セルジュだけではなく、第二王子殿下やその側近達にも「会いたい」と伝えられているだろう。


席を立つセルジュ。

マリエルは「お待ち下さい」と言った。


「マリエル、すまないが……」

「行くな、とは言っていません。行くのであれば、先にこちらにサインしてから行って下さい」


テーブルの上に離縁書を叩き付けた。マリエルのサインがすでにされている離縁書だ。


困惑した声で「どうして」と呟くのを聞く。


「どうして?……もう疲れたからですわ。二年経ちましたし、離縁出来る条件も満たされています。ですから、サインして下さい」

「何故、今日なんだ?今日は……」

「どうせ祝うつもりなどありませんでしょ?今日という日をわたくしは晴れやかな気分で終えたいのです。記念日なのですから」

「駄目だ。……マリエル、帰ってからゆっくり話そう」

「ゆっくり話す時間なんてあります?あなたはいつもお忙しいのに。また明日になれば、顔も合わせることさえ減ってしまうじゃありませんか」

「いや、必ず時間を作るよ」

「それはいつです?いつまで待てば良いのですか?時間を作る、埋め合わせはする、と繰り返しながら、わたくしの為の時間など一度もありませんのに。これ以上待てないのです。旦那様が今屋敷を出て行かれるのでしたら、わたくしも出て行かせていただきます」


侍女に目配せをすれば、一度下がり、すぐに纏めた荷物を持って戻って来た。

本気なのだと解ってもらう為だ。


「そして、ここへは二度と戻りません」

「マリエル……」

「美しくもなく、特別優秀でもないわたくしを妻にした理由は最後まで解りませんでしたが、もう終わらせてほしいのです。この自由も幸せも無い生活を。わたくし達の婚姻には政略の要素はないとは思います。だからと言って愛情もありません。続けていくだけ不毛でしょう。何れ、侯爵となる旦那様ならもっと良い方を見付けられます」


その相手がニコレットとは言わない。

離縁した後に彼女を妻とするかもしれないが。


言い切り、訪れた沈黙は居心地が悪い。

「そうだな」と言われ、あっさり離縁書にサインをされたらされたで哀しみはある。彼と彼女に憂いを感じる必要が無くなることで、前を向けるとは思うが。

ただ、都合の良い存在としてここに残ることだけは避けたい。


どんな答えを出すのか。


沈黙を破ったのは、セルジュでもマリエルでもなく……。


「あ、あの……小侯爵様」


伯爵家からセルジュを迎えに来ていた使用人だった。

早く彼を連れて帰りたい様で「ニコレットお嬢様がお待ちです。お急ぎ下さい」と急かしてくる。

部屋の外で待たせていたというのに、不躾にも勝手に入って来た他家の使用人に眉を顰めたのはマリエルだけ。

屋敷の主人であるセルジュは、やはり咎めないのかとすでに他人事の様に思っていた。まだ女主人であるマリエルから咎めない理由だ。

眉を顰めたのも一時的で、感情を消した。


「行かれては?その前にサインを」


「……出て行け」


冷たく、低い声が聞こえた。

これまで聞いたことが無い声に、一瞬マリエルは誰が発したものか解らなかった。普段の優しく穏やかなものしか知らなかったから。


伯爵家の使用人も驚いた様子ではあるが、自分に言われたとは思っていない様で「小侯爵様、お急ぎ下さい」と再度言った。

使用人に対してでなければ、マリエルに対して言ったと思っているのか。

主人が主人なら、使用人も使用人。

格上の家の夫人の存在を甘く見ている。

不快ではあったが、マリエルは背筋を伸ばし、セルジュの方を向いて座っていた。


「聞こえなかったか。出て行け」

「……旦那様の声が聞こえていないの?伯爵家の者は礼儀も知らない?」


「え、わ、わたし……ですか?」


本当に自分に言われているとは思っていなかった様だ。

はぁ、と解り易くマリエルが溜め息を吐き、「旦那様のせいではなくて?」という意を込め、咎める視線を送る。

セルジュは少し怒気を含んだ表情していたが、マリエルの視線にピクリと肩を震わせ、伯爵家の使用人に顔だけを向けた。


「こちらも大事だ。カリエ伯爵令嬢には行けないと伝えろ。殿下達にも伝えたなら、私一人いなくとも慰め役は足りる」

「しかし、お嬢様は……」

「大事だと言っただろう」


言いながら、マリエルに近付き「部屋に行こう」と抱き上げた。

もう伯爵家の使用人には目もくれず、夫婦の部屋に向かった。


屋敷の使用人達から伯爵家の使用人は白い目を向けられていたから、追い出されるだろう。

セルジュが来ることを望む彼女にどう伝えるか。

邪魔をしたと思われ、周囲に泣き付く光景が見える。

後に、自分が何らかの形で彼女と彼女を優遇する者達に責められる未来にマリエルは気が重くなった。

訳も何も知らず、婚約当初にセルジュを引き留めた時の様に第二王子殿下を筆頭に酷く罵られるだろう。セルジュのいないところで。

彼女とのことに、口を出さない大きな理由だ。


「サインをしてくれれば、もう何も言われないのに……」


夫婦の部屋に入る頃に、零してしまう。

「サインはしない」と近くで言われて、ハッとした。大切な離縁書を置き忘れたことに。

ベッドの下ろされたので、取りに立とうとするとセルジュに抱き締められてしまい、ベッドに留められる。


「何も言われないのに、と言ったね?誰に何を言われるんだ?」


言ってしまえたら、楽になるだろう。

だが、彼女達側に立つ彼に言ったところで責められるのは自分の方になるのではないかと思い、言えなかった。

口を横に振り、「何でもありません」と答えることしか。


「何でもないことはないだろう?」


気に掛けるなら、もっと早くに気に掛けてほしかった。

妻は自分なのに、家族になった筈なのに、真っ先に気にするのは他の女のこと。幼馴染みで家族の様な存在だとしても、妻を置き去りにする理由にはならない。


沸々と込み上げてくる。


「……旦那様が離縁書にサインさえして下されば済むことです」

「駄目だ。何度でも言うよ。サインはしない」

「何故です!?こんな無意味な婚姻を続けるなんて堪えられないのです!」


堪えられなかった。


「わたくしは強い人間ではないのに、ずっと一人!死にたくなるぐらいに辛い時があったってあなたはわたくしをまったく見ても下さらない!口を開けばニコレットニコレットと、そんなに心配なら彼女と結婚したら良かったじゃないですか!?下らない茶番劇で足蹴にされるなんてもう嫌!!当て付けで死んでやる様な馬鹿なことはしたくないの!わたくしは愛されて幸せになりたいの!!こんな馬鹿みたいな結婚で一生を台無しにしたくなんかない!だから!離縁書にとっととサインしろ!糞野郎!!!」


マリエルは決して大人しい性格ではなかった。

両親から、素を見せたら……粗っぽい性格を見せていたら幸せな結婚など望めないと幼い頃から言われ続けてきたことで、大人しく従順な娘という姿を見せてきた。大人しくはなかったが、お伽噺のお姫様に夢を見る少女であったからだ。


我慢に我慢を重ね続けたことで、爆発した。


セルジュの胸を叩き……というより、殴り、押し退けて。

綺麗に整えた髪を掻き、振り乱して、これまでの彼女が口にするとは思えない言葉を言い放つ。


終わった、とマリエルは思う。

普通に考えて、こんな口汚い女を妻に置いてはおかない。離縁書にサインするだろう。

離縁は結果としては望んだ通りになるが、離縁した後の人生も終わった。

白い結婚で清いままだとしても、気性が荒く品の無い女だと知れ渡るだろう。

新しい嫁ぎ先など期待出来なくなった。


ベッドの上に膝を付いた状態ではあるが、膝から崩れ落ちた気分。

いっそ、泣き崩れて「旦那様を一生お恨みいたします」と言ってみるか。マリエルはそうしたい気分だった。今更汐らしくなど恥ずかしくて出来ないが。


早く答えが欲しくて、白いシーツに落としていた視線を上げる。

セルジュが自分に向ける視線に嫌悪が込められていたとしても、やってしまった、言ってしまったことを今更無かったことには出来ないのだから受け止めなければならない。

口汚かったのは自分、一発ぐらいは殴られることも覚悟した。


が、セルジュがマリエルを見る金色の瞳に嫌悪は込められてはいなかった。表情も……。


「やっと、本音で話してくれたね」


マリエル、と柔らかな微笑み、甘く名前を呼ばれる。


───何?


気付くと腕の中に閉じ込められていた。

驚いて身体を捩るが、痛みを感じさせない適度に力が込められた腕から逃がしてはくれない。


「だ、旦那さまっ!?」


口汚く罵ってしまったというのに、抱き締められているのは何故か。

「離して!」と言っても離してもくれない。


「少し意地悪をしたら素を見せてくれると思ったのに、婚約してから四年も猫を被り続けるなんて随分と辛抱強かったね?猫を棄てるより先に離縁を切り出してくるとは思わなかったよ」

「ね、ねこ……?いじわる?」

「離縁は駄目。わかった?」

「え、何が?どういうことです??」

「また猫を被る気?」

「いや、聞け!」

「聞いてる聞いてる。マリエルは素が一番可愛いよ」

「どこが!?」


あまりの変わり様に、マリエルはただただ混乱した。




翌日から、セルジュは突然長期休暇を取った。

曰く要領の悪く不出来な第二王子殿下やその側近達の代わりに、必要以上の仕事を任されていたことで屋敷にも帰れない日々が続いていた。

が、それは後々有無を言わせず長期の休みを得る為にやっていたこと。素をさらけ出したマリエルと過ごす為に。


二年越しの冷戦状態だった夫婦関係から一変しての蜜月期間。


セルジュの思惑を含めたこれまでのことを聞いて「はあっ!!?」と声を荒らげたが、セルジュは終始笑顔でいた。


婚約をしたのは、四年前。

それまでは、一つ違いの二人は先輩後輩として何度か軽く言葉交わした程度というのがマリエルの認識だった。

しかし、それよりずっと前に出逢っていた。

それも挨拶を交わした程度ではあったが、セルジュには忘れられない出逢いとなった。


まだ素を隠し切ることの出来ない幼いマリエルは、招かれたお茶会で度々やらかしていたので目に付いていた。

だが、その令嬢らしくない失態だけで心が惹かれた訳ではない。

貴族の令息令嬢となれば、幼い頃から優劣を付けた環境で育つ。

親に伴われ、早くから始まる社交の中では親より与えられた情報で才能に恵まれない者や生まれを卑しむことも少なくはなかった。

セルジュが見たのも、その一貫だったのだろう。

人目を忍ぶ庭の少し奥まった場所で、庶民的に言えばイジメと呼ばれるソレが行われていた。

正義感と言える程の気持ちも、誰かを守れるだけの腕も無い幼いセルジュは見てみぬふりをしようとしたところに、お茶会でやらかしていた令嬢が現れた。

「なにしてんのよ!」とイジメていた側の令息と令嬢に小さな身体で体当たりをしたのだった。

幼い子供同士の掴み合いの喧嘩となり、親達が集まって来て、イジメていた高位の家の令息や令嬢は彼女を全ての元凶にした。元からやらかしてしまっていたかから、皆が納得し、責め立てられた。イジメから庇ってもらった筈の令嬢まで彼女が悪いと言い出し、孤立する。

それでも、泣きもせず、真っ直ぐ立ち、イジメていた令息や令嬢達を見据えていた。

「くそみたいなヤツらのからっぽのコトバじゃ、なにひとつわたしにはささらない」と淡々とした声で言い、走り去った。

そして、社交会で彼女を見ることは無くなり、またその時は強く意識することは無く頭の片隅に消えていった。


セルジュが十になる年。

そろそろ婚約者を、と話になる。

母……侯爵夫人は自分の親友の娘、ニコレットを推して来た。

セルジュ自身が好んで共にいた訳ではなく、侯爵夫人が将来の嫁にと考えてセルジュと赤ん坊の頃に引き会わせて、何かにつけて「ニコレットと」と言い共にいさせてきたのだ。

残念ながら、侯爵はニコレットをセルジュの婚約者にすることを認めなかった。侯爵夫人が務まる器ではないと思ったからだ。侯爵夫人はまだ幼いからこれからだと言うが、侯爵が頷くことは無く。

政略結婚をさせる気も無い様で、気になる娘はいるかと聞いてくるぐらいに息子の気持ちを大切にしてくれた。

セルジュもニコレットと夫婦になることは考えられなかった。日頃から我儘に付き合わされて、それが一生となるのは嫌だったからだ。気になる娘、と言われて、何故か浮かんだのは頭の片隅に消えた筈の令嬢のことだった。

名前も知らない……恐らく低位の家柄と思われる令嬢。明るく柔らかな金色の髪に、好奇心を滲ませた芯の強さを感じさせる青い瞳を思い出した。

何故思い出したのかは解らなかったが、父である侯爵に話し、令嬢を捜すことに。


金色の髪に青い瞳など貴族には珍しくはなく、なかなか見付からなかった。

色だけなら、ニコレットも似た色をしていた。

だからか、侯爵が婚約を認めないから、自分と似た雰囲気の女を妻にしたいのだと思った様だった。違うと言っても照れているのだと勘違いされ、勝手に盛り上がる。婚姻した現在も、マリエルとは仕方なく婚姻し、気持ちはニコレットにあると思われているという。原因は限りなく、妻より優先してきたセルジュにあるが。


社交会で見付からないなら、学園に期待した。

学園に通うことは王侯貴族の子息、息女の義務だからだ。

歳の差はあっても、一つか二つ。出逢ったお茶会に連れられる子供の年齢層がそれぐらいだったので。

学園内でも付き纏うニコレットやニコレットに懸想する第二王子殿下達を煩わしく思いながら、捜した。

一年目は見付からず、二年目に入ってすぐよく似た令嬢を見付けた。それがマリエルだ。

始めは似ているだけかと思う程に大人しく目立たない存在だった。セルジュに面と向かって素をさらけ出すまで変わらなかった、良く言えば慎ましやかで。

本人であるか確かめる為に偶然を装い、言葉を交わした。返ってくる言葉は常にお手本の様な言葉で、セルジュは正直つまらなく感じた程。

捜している令嬢であれば、礼節をわきまえたとも言えるが、求めた存在ではない。


マリエルから一旦は興味を無くしたが、その後起きたことで捜していた令嬢だと解り。また、彼女が普通の令嬢を装っているだけだと知る。

接触する為に一時的にでもニコレットを遠ざけたことが功を奏したというべきだろうか。彼女にとっては迷惑なことこの上無かったとは思うが。

学園生活では挨拶以外で知り合いでもない者に話し掛けることの無かったセルジュが話し掛け挨拶以上の会話を何度もしていたと、人伝に聞いたニコレットが友人を(けしか)け、セルジュはニコレットと幼馴染みで昔から想い合っているのに邪魔をするな、彼に色目を使うな、と責め立てた。言葉だけではなく、押し倒したり、彼女の所有物を棄てるなど陰湿なことまで。

知ったのは、だいぶ後になってからだろう。興味を無くして、彼女を気にしなくなっていたから。

偶然、居合わせただけ。

付き纏うニコレットを撒いて、他の学生もほとんど来ることの無い手入れもされていない敷地内の一角で静かに過ごした時。そこに彼女が現れた。丁度、死角になる位置にいて気付かれなかった。

ドスと鈍い音と木の葉が揺れる音がして、セルジュは彼女に気付いた。覗き見れば、木の幹に拳を当てていた。

殴った?声を掛けることも出来たが、それをしなかったのは纏う雰囲気が普段と違ったからだろうか。木に身体を、額を寄せて、何かブツブツと言っている様でもあり、声を掛け辛かったのもある。

いったい何を言っているのか。耳を澄ませ、意識を集中すると聞こえた。


「だいじょうぶ、わたしは大丈夫。わたしは普通の令嬢だ。あんなクソみたいな奴ら相手にわたしの努力を台無しにしたりはしない。幸せになるの。素敵なひとに見初められて幸せな結婚をするの。わたしは普通の令嬢……普通の」


自分に暗示を掛ける様に繰り返していた。普通の令嬢という割りに、目は据わっていたが。

その雰囲気と、呟きで何となく理解した。これまで社交会には出ず、あの頃には無かった教養を学んで、お手本の様な令嬢を彼女は演じていたのだと。それが幸せな結婚に結び付くのだと信じて。

「クソみたいな奴ら」という言葉に笑いが込み上げた。いたのだろう。そんな奴らが。

表面上でしか人を見ていなかった自身の浅はかさを悔いると共に、本質的なところはあの頃と変わっていない様子を見せる彼女をもっと知りたいと思った。

とはいえ、婚約者にするかは別の話だと思っていたが、侯爵に件の令嬢を見付けたと報告したら、名前を聞かれたので答えたら直ぐ様先方の家に話を持って行ってしまった。

同年代でまだ婚約者がいない令嬢は少なくなっていたからか、息子が初めて気に留めた令嬢だからか。他から話が行く前に、せめてあちらと繋がりをと考えたのかもしれない。侯爵家程の名家から声が掛かったとなると、低位の貴族からしたら半ば強制だろうとセルジュはご機嫌な父を見て思ったが。

案の定、マリエルの家からの返事は早かった。

母は最後まで反対したが、父は息子を連れ、婚約の為に必要な書類を持って出向いた。

学園の外で初めて二人きりになり、少しでも素を見れたらと少しからかってみるもお手本の様な笑顔を張り付けたままだった。

それでも、彼女からの好意は感じ、素の彼女はもっと可愛らしく笑うだろうと思ったからこそ婚約の話を進めた。


しかし、婚約も成立しても、学園では学年の違う彼女と過ごす機会には恵まず……。婚約者のところに行くと言って席を立つと必ずと言って良い程、ニコレットが張り付き、ニコレットにくっついて第二王子殿下達も来る。

低位の貴族の婚約者からしたら王族はただただ恐縮する存在でしかなく、ますますお手本の表情が分厚くなり、学園では距離を置かれてしまった。邪魔だと思うが、邪魔とも言えず。空気を読んではくれないから、学園内では諦めるしかなく。

これからどう切り崩すか。

婚約者との定期的な交流を楽しみにしていた。学園では生徒会に属し、侯爵家の後継ぎとしての仕事もしていたので、頻繁には時間を取れなかったが。

ようやく、婚約者となって初めての交流の日。

何処からか……恐らくセルジュの母である侯爵夫人から話を聞いたのだろう、ニコレットが邪魔をしに現れた。婚約者の前で腕を絡めて抱き付いてくる非常識な行為に流石にセルジュも咎めようとしたが、ふと見たマリエルの表情は普段のお手本の様な表情ではなく、明らかに不快感を表す表情だった。目が合うと、またお手本の笑顔で「そちらの方は?」と小首を傾げた。

煩わしさしかないニコレットを初めて使えると思った瞬間だった。

こういう形で人を利用することに罪悪感がない訳ではないが、日頃ニコレット自身がしていることと変わらないと思えば気は楽になり。それより、悪くはないマリエルを傷付けることの方に罪悪感があった。

だが、普通の会話の中では素を出させることは難しい。幼い頃にマリエルを見たと話しても、忘れましたと惚けられるだけなのだ。

元々、自身に意地の悪さがあるのを知っていたセルジュはこういう形を取ってしまった。婚約者より他の女を少し優先させるという形。

その後はマリエルも知るところ。

本当は、数度ニコレットを優先させるだけで怒って素を見せてくれると思っていたのだが、マリエルの認識は想像以上に強かった。

まさか四年も耐えるとはセルジュも思わず、引くに引けなくなっていた。

優先したと言っても、外で逢う時にはマリエルが無事に屋敷に帰り、中に入るのを見届けてから戻り、ニコレットの相手をした。数分程度だが。そして、送り届けさせる。

学園を卒業してからのニコレットの度を越した行い……夜這いや薬を盛るなどには頭を抱えることになったが、母と第二王子殿下達という盾を置くのであまり強くは言えなかった。もっとニコレットを気に掛けてやれと彼らから言われる始末。

婚約者のいる男に別の女を気に掛けろとは彼らの神経が理解出来ず。呼ばれた時のみ変わらず数分話し相手をした。使用人を必ず一人は立ち合わせて。マリエルにニコレットを優先させる様に見せる時も二人きりにはならず、すぐに帰らせていた。

それが気に入らない様で、絶対にセルジュに来させる方法として自死を図ろうとしたと虚言してまで呼び付けた。実際はそんなことはしておらず、使用人達と口裏を合わせているだけ。精神的に弱ったフリをして、呼び寄せた母や第二王子殿下達に泣きすがっているのだ。セルジュとマリエルの二人になる時間を潰す為に。

婚姻してからは忙しい中で取った貴重な休み……マリエルとの記念日などを狙って自死を図ろうとしたと知らせを送って来る。虚言に付き合いたくはないが、無視すれば母や第二王子殿下達が五月蝿い。まだ、縁を切るには早いので顔は見せには行った。勿論、泊まる様なことはしない。

屋敷に戻らなかったのはマリエルが不満を募らせ、怒ってくれたらと思ってのこと。残念ながら、張り付けた面は強固で剥がせなかった。

それどころか、分厚くなっていないか?とセルジュを困惑させていたが、あの日、強固だった面に皹が入ったと感じ内心喜んだ。

その後、結婚記念の日に素をさらけ出すより先に離縁書を叩き付けられるとは思っていなかったので、焦ったが。

よくよく考えれば、有り得ない話ではない。




話し終えれば、マリエルは盛大に顔を顰めた。貴族の令嬢や夫人のする顔ではないが、セルジュはこれまでの作った顔よりずっと可愛らしく思えた。


四年、近くからではないとしても婚約者として、妻として見てきて。向けられた好意や優しさが本物だと気付き、セルジュ自身もただ気になっていただけの存在から愛しさを感じる様になっていた。勿論、異性に対するものであり、欲も孕んだものだ。


マリエルからしたら、冷たかった夫が急に甘くなり、戸惑いしかない。

「ふざけるな!」と言いたい内容ではあるし、そんなことで四年間も苦行を強いられていたなど許せるものではなかった。

けれども、夫を、セルジュを嫌いになり切れずにいるのも確かで。抱き締めてくる腕の中で、突っぱねるのが精一杯だった。


素を見せてほしい、と言われたところで幼い頃から両親に「素を見せたら可愛げなんてないから幸せな結婚は出来ない」と言い含められていたので見せることはなかっただろう。セルジュに見せてしまったのは、単に我慢の限界が来てしまっただけ。見せるつもりはなかった。次の結婚で幸せになりたかったから、離縁書にサインをしてもらい終わる筈だった。


……のに、素を見せたら、抱き締められて甘い言葉を囁かれる。

「な、なんで……」と戸惑いの声を零せば、「なんでだろうね?」と蕩ける様な笑顔で返され、ますます混乱した。


結婚記念日の翌日から、ずっと傍にいるだけではなく、抱き締められて過ごし、「仕事は?」と問えば平然と「休んだ」と。数日そんな会話が繰り返され、マリエルはいつまでか解らない長期休暇をセルジュが取ったことに気付く。日数は教えてもらえなかった。「そんなの気にしないでこれまでの分も甘えて」と言われるだけ。

実際、これまでが嘘の様に甘やかされた。


嬉しいと思いつつ、これまでのことを忘れてはいない。流されまいと口汚く悪態を吐いても笑顔で全て受け取られてしまい、次第に夫の甘さに流されてしまいそうになる。

その前に、と早い頃に一度待ったを掛けた。


「離縁書にサインして下さい!」


抱き締めようとしてくるセルジュに手の平を向けて。


「私の気持ちがまだ伝わってない?あんなにも愛してあげたのに。離縁はしないよ」


もっと愛してあげようか?と甘い表情を見せられ、ドキリとしながら、横に首を振った。


「わたくしも今は離縁しません!が、完全に信用はしていません!四年蔑ろにされたんです。妻に愛想を尽かされて離縁なんて醜聞ですからね。一時甘い言葉を囁いて、丸め込もうとしているだけかもしれません」

「そういうのじゃないんだけど……」

「わたくしは結婚したからには一生幸せでいたいのです」

「うん、前からずっと言っていたね」

「なので、離縁書にサインして下さい!」

「だからなんでそうなるの?」

「保険です。旦那様がわたくしを幸せでいさせて下されば持ち出したりしません。ですが、前みたいなことをまたしたら、すぐに提出させて頂きます!」


暴力を振るう人間の中にはいるらしいとマリエルは聞いたことがあった。暴力を振るわれても、次の瞬間には「ごめん」と謝り甘く優しくなる者がいるのだと。その優しさに絆されてズルズルと別れられずにいるのだと。

自分はそんなことにはなりたくなかった。

幸せになるなら、ずっと幸せが良い。

セルジュがそんな人間だとは思いたくないが、信じるにはこれまでが酷過ぎた。暴力ではないが、心は大いに傷付いた。


「離縁されたくなければ、わたくしをずっと幸せでいさせたら良いのですからサインしたって問題ない筈です」


セルジュもこれまでのことを考えれば、マリエルが不安になるのも仕方がないと思った。やり過ぎてしまったと理解もしている。

言われたことはその通りであった。

信じてもらうには、少なくとも同じ時間は必要だろう。

離縁書を提出する条件が不幸せだと思った時であるなら、そうは思わせず、幸せにすれば良いだけの話。そうしていれば、信用も信頼もされる様になる。


「解った」と、預かっていたマリエルが用意した離縁書を取り出した。

彼女の覚悟の証、だと思ったから簡単に要らない物と棄ててしまうことは出来なかった。

そこに自らもサインして、マリエルに渡した。


「サインはしたよ。でも、それをマリエルが次に手にする時は私がマリエルを蔑ろにした時だけだ」


受け取るその手を掴み、よく言い聞かせる様に言った。


「マリエル。幸せには君だけがなるものじゃない。夫婦なんだから、二人で幸せにならないと」


ずっと自分が幸せになることばかりを考えていた。

けれど、夫婦となるなら、そうではない。

二人で、ということが沁みる。

自分のことしか考えていなかったのはマリエルも同じだった。

「……はい」と小さく答えると、セルジュが身体を寄せて来て。


「今まで本当にごめん。これからは大切にする。また間違えることもあるかもしれない。その時は叱って?夫婦は互いに間違いを正し合うものでもあるから。それでも、私が正せない時は見切りをつけてくれてかまわない」

「夫婦は互いに。……なら、この離縁書は互いが手に取れる場所にしまっておきましょう?侯爵家の嫁として、旦那様の妻として至らぬところの多いわたくしに旦那様が愛想を尽かしてしまう時も来るかもしれませんから。でも、至らぬことがあった時はわたくしにも教えて下さい。がんばって、直します」

「そういう時は来ない思うけど……。じゃあ、さっそく一つ良い?」

「え、さっそく?何かしていましたか?旦那様」


さっそく、愛想を尽かされる様なことをしてしまっていたのかとマリエルは狼狽える。

それが目に見えて解り、セルジュは可愛いなと思いつつ、婚姻してからずっと気になっていたことを口にした。


「その“旦那様”というのは止めよう。婚約者の頃だって“ティエール様”だったし。私は名前で呼んで良いと言ったの、忘れた?」


忘れてはいない。

ただ、名前で呼ぶとニコレットやニコレットと懇意にしている者達に不必要に責められた。

彼らは「想い合うセルジュとニコレットを引き裂いて何様だ」と。侯爵家から話があったからマリエルが引き裂いた訳ではないが、ニコレットを優先する素振りを見せていたからそうなのだろうと名前で呼ぶことはしなかった。自分が二人を引き裂いた訳ではないと一度否定した時は手をあげられたので、口答えも止めた。手をあげられ続けたら、相手が王族でも殴り返していただろう。そうなれば、不敬罪となり、下手をすれば家族まで危うくする。


セルジュの言葉を素直に受け取るなら、名前で呼んでも良いのかもしれない。誰かに何かを言われる筋合いもないのだから。


緩く首を横に振ると……。


「じゃあ、呼んで?……あ、いや、どうせなら愛称の方が良いかな?“セル”って」


“セル”と心の中で呟いた。

が、それは呼びたくなかった。


「イヤです。……旦那様に好意を持ったカリエ伯爵令嬢(ほかのオンナ)に呼ぶことを許した呼び方なんて」

「それは嫉妬?別に私が許した訳じゃないんだけどね。ニコレット(アレ)は母の親友の子だから、母がそう呼ぶ様に教えたんだよ。まぁ、“セル”が嫌なら…………“セジュ”は?」

「“セジュ”……様?」

「様はいらないよ。幼い頃は自分の名前をきちんと言えなくてね。何度言っても“セジュ”になっていたらしいよ。からかい半分である程度大きくなるまでは“セジュ”と父は呼んでいたんだ。今はもうそう呼ぶ人はいない」

「“セジュ”……わたくしにこう呼ばれてもイヤな気持ちになりません?」

「他の人なら兎も角、嫌じゃないよ。むしろ、マリエルに呼ばれたら……少し甘えたくなる」


肩に額を押し付けられて、擽ったくなる。

“セジュ”という呼び方は彼を童心に返す言葉でもあるかもしれない。童心というには、腰に回された手が少しばかり不埒ではあるが。


「マリエル……私の、愛しい“マリィ”」


そう呼ばれてから気付いたら、初夜を終えていた。

初夜どころか、たっぷり三月可愛がられた。






三月も経てば、貴族達は社交シーズンに入る。


休暇もそろそろ終わりという頃に、ティエール家と縁のある侯爵家から夜会への招待を受けた。夫婦で、だ。

招待状は準備もあるので、かなり前に貰っていた筈だが、前夜になってマリエルは知らされた。

いきなり言われても行けるものではない。

今シーズンの為のドレスの注文もしていないことに気付いて、食事中にも関わらず「ドレス!」と立ち上がった。

対して、夫はこの三月と変わらずニコニコと笑顔で「もう準備はしてあるから大丈夫だよ」と言ってのける。いつの間に……。


翌日、マリエルは朝から隅々まで磨かれることになった。

人目には触れない足の、爪の先までピカピカ。

そこまでする必要があるのかと思うが、マリエルが思っていた以上に支度を終えた自身の姿は美しく見えた。

深い赤色のサテン生地に青い刺繍と青い薔薇がふんだんにあしらわれたドレスには、改めて驚く。


青は神聖な色であり、神から贈られた無償の愛情を表す色。

この国では男性から女性に、または、夫から妻に贈られるドレスにどれだけ青を織り込まれているかでその愛情の深さが表れるという。


首から胸元に掛けて、肩から腕に掛けて、深い青のレースが肌の露出を隠す様に覆っている。

青だけではなく、赤もまた意味を持つ。

忠節……本来は、妻から夫に贈るハンカチや装飾品に使われる色だ。でなければ、自ら用意したドレスで相手に尽くす意を示すか。

夫から妻に贈るドレスや装飾品に、まず赤は使わない。男は女に尽くすものではないから。


全てセルジュが指定した物らしいが、本当にこれで良いのかと不安になった。

青も赤も使われたドレスを見た者はどう思うか。

青は贈られた物なら愛情だが、自身で用意した物なら相手から愛されているという見栄になる。

赤は自身で用意した物なら相手に尽くすという意味になるが、相手に贈らせた物なら傲慢と捉えられる。

世間の噂から捉えられるなら、マリエルは見栄を張ったか、無理矢理夫に貢がせた傲慢な女となるだろう。


あまり気乗りはしないが、待たせる訳にもいかず。すでに支度を終えている夫の元へと向かった。


階段の上から見えたセルジュは、着飾り綺麗にしてもらったと思って満足していたマリエルにも羨ましくなるぐらい美しかった。

濡れ髪を後ろに流す髪型は色気を感じさせ、見惚れる。


「……あぁ、マリィ。着飾った姿も格別美しいね」


マリエルが来たことに気付き、まるで太陽を見上げる様に目を細めて微笑む。

そして、こっちにおいで、と言う様に手を差し出してきた。


ハッとして、急いで階段を駆け降りる。

もうだいぶ前に彼は支度を終えたと聞いていたので、これ以上待たせてはいけないと。


「急がなくて良いよ。転けたら大変だ」

「こんな低い靴じゃ転けたりしませんよ?」

「それでも、だよ」


ドレスなら、ハイヒールを履くのが通常。

しかし、セルジュの指定した靴はローヒールだった。

ドレスもコルセットを使用しないタイプ。

身体に負担を掛けないものを選んでくれていた。

ハイヒールもコルセットもマリエルが苦手としており、久しぶりの夜会ということで気遣ってくれたのだろうか?と思った。


「今日は最後まできちんとエスコートするから、君も離れないでね?」

「化粧直しは……」

「行かなくても良いよ。マリィは素顔でも十分過ぎるぐらい綺麗だから」

「…………」


いや化粧直しはさせてほしい、とマリエルは思う。

素顔でも美しく華やかさのあるセルジュと違うのだ。化粧をしなければ、この艶やかなドレスでは映えないだろう。

ただでさえ、美しいセルジュの隣に立つだけでこれまで……恐らく、これからも神経をすり減らすことになるのだから、せめて夜会開始時点の姿を保っていたかった。つまり、化粧直しは必須となる。

必要な時が来たら、改めて言おうと決心する。どうしても駄目だと言われたら()()()を使えば引いてくれるだろう、と。


「行こう」と差し出された腕にマリエルが手を添えるとその手にセルジュの手が重ねられた。

馬車に乗る時も、降りる時も。会場に着いてからも、以前より近かった。近いからこそ、ドキドキと高鳴る鼓動が聞こえてしまうのではと落ち着かなかった。

形は違うが、夫には今もずっと振り回されている気がして「なんかムカつく」と呟いて……。


「えっ、医者を……」

「いりません!」


会場入りする前に、極端な程心配するセルジュと医師を呼ぶ呼ばないで問答をしてしまった。呼ばずには済んだが。


すでに賑わう会場に入ると、注目を浴びた。

マリエルのドレスが原因だろうか。不仲と噂なのにセルジュが妻にこれまで誰にも向けたことのない甘い笑顔を向けていることか。

元々注目されることの多い、慣れた様子のセルジュとは違い、マリエルはこの上無く居心地が悪かった。


多くの視線を感じながら、主催者に挨拶しに行く。

そこでも何か言いたげな視線を感じたが、告げられたのは第二王子殿下達も来ているという内容で。視線で彼らのいるところを教えられた。セルジュは視線も向けなかったが。

会場の一角にあるテーブルを第二王子殿下と側近達、そしてニコレットが囲っていた。

壁沿いには彼らの婚約者達はいないので、ニコレットだけを全員でエスコートしてきたのか。

後で、セルジュも自分を置いて、あそこに行ってしまうのかだろうか。

見上げても、笑顔が返されるだけだった。


ある程度挨拶が終われば、いつも通りに壁の花になれるかと思っていたが、手を重ねた手を離してはくれず「離れないで、って言ったよね?」と。

第二王子殿下達のところへは行かないのか。

少なくとも王族相手だから挨拶はするべきだろう。


いつもなら、そろそろニコレットが呼びに……。


「セル!」


思ったところで、その声は聞こえた。

マリエルを押し退けてセルジュの腕に抱き付きしなだれるまでが恒例なので、強く当たられる前に離れようとしたが、手は離れず、反対に抱き寄せられる。抱き付いてきたニコレットを避けて。

まさか避けられるとは思っていなかった様子のニコレットは勢い余ってよろけ、近くの人に支えられていた。


「もう!ひどいわ!」と可愛らしい頬を膨らませて、今度はゆっくり近付いてきたニコレットの視線はマリエルに向けられる。

どうやら、マリエルがセルジュを押して避けたのだと思われた様だ。


騒ぎという騒ぎにはなっていないが、ニコレットが大きな声を出したからか第二王子殿下達まで来てしまう。


「どうした?ニコ」

「ジョス聞いてよ!マリエルたったらひどいのよ。セルを呼びに来ただけなのに、私を転ばせようとしたの」


甘えた様に第二王子殿下にしなだれる。


「君に怪我が無くて良かった。夫人は嫉妬しているんだろう。恥ずかしげもなくあんなドレスを着て来るぐらいだからね。セルがニコを自分より大事にしているのが許せないんだよ」


と第二王子殿下が返すので、セルジュに否定しろと思う。

当のセルジュはマリエルしか見ておらず、話もまともに聞いていない様だ。


セルジュと向き直る第二王子殿下は先程までいたテーブルへと促す。「セル、久しぶりだな。あちらに行こう」とニコレットの肩を抱いて。


聞いていなかったセルジュはマリエルが腕に添えていた手で軽くつねられたことで返事をして、マリエルを伴い向かおうとした。


「悪いけど夫人はいつもみたいに待っていてくれないかな?仕事の話もするから、関係ない人間にいてもらっては困るんだ」


振り返った第二王子殿下はマリエルに言う。

口調は穏やかではあるが、睨む様な視線を向けていた。

よく向けられる視線なので、怯むことはない。

待つのもいつものことなので、構わなかった。

セルジュが手を離してくれないので離れられないだけ。


「それなら、カリエ伯爵令嬢も関係者ではありませんよね。置いて行くべきでは?」


ようやく彼らを前にまともに口を開いた。


「他人行儀な言い方をするな。ニコは我々の仕事のことを理解してくれているだろう?それにこの前のこともある。ニコは君にとても会いたがっていたのに三月も放っておくなんて可哀想じゃないか」

「この前、ですか?」

「三月程前、ニコが会いたいと呼びに行かせたじゃないか。いつもならすぐに来るのに、君は来なくて……どうせ夫人が我儘を言って引き留めたのだろう。ニコが大変だというのに」


自死を図ろうとした、とは言わない。

第二王子殿下はニコレットに好意を持っているから、マリエルに対してとは違い、醜聞になりそうなことを口にしたりはしなかった。

その上で、マリエルが嫌な女だと言ってくる。


「いいえ。送り出してくれようとしましたよ」

「なら、何故来なかった?」

「あの日、妻の体調が悪かったので心配で」

「体調が悪いと引き留めたのだろう。ニコが大変な時に嘘を吐いてまで君を……」

「妻は優しい女性ですから、自分の体調の悪さよりカリエ伯爵令嬢の元に行く様に言ってくれたのですよ。でも、私が妻の方が心配なので妻の傍にいることを選んだだけです」

「だが……」


セルジュの言い分を疑う様に視線を向けてくる。

嘘なので、居心地は悪さを感じるマリエル。口を閉ざした方が利口な気がして、何も言わなかったのだが……。

「ウソよ!」とニコレットが声をあげた。


「あの日のマリエルは元気だったと呼びに行った伯爵家(うち)の使用人は言っていたわ。行かないように言われたんじゃないの?私達、幼馴染みで、日頃から仲が良いから……私のことを心配するセルをマリエルが責めたんでしょ?あの日の二人は険悪な雰囲気だとも言っていたわ」


不貞ではないのに見苦しく嫉妬した妻、にしたい様だ。険悪な雰囲気だったのは間違いないが。


「夫人、そんな嫉妬ばかりされたらセルも息苦しくなる。だから、ニコに癒しを求めているんだ。離縁されたくなかったら、もう少し寛容になるべきじゃないか?」


セルジュの言葉よりニコレットの言葉を信じ、責める様に少し声を低くした。

離縁、と言われて顔色を変えたのはセルジュの方だが、気付いたのはマリエルだけだった。


「えぇ、離縁ならいつでもして差し上げますわ」


飛び切り良い笑顔をセルジュに向ける。


「なんだったら、今すぐ帰って提出してきます。今日中には処理されるかもしれませんよ」

「まっ……マリィ、離縁はしないよ!?」


すると焦った様に、行かせない、と抱き締めてくる。


「わたくし、今、不幸せな気分です。“旦那様”が何も言って下さらないから、謂れの無いことばかり言われて不快です」

「“セジュ”と呼んで!君にだけはそんな他人行儀な呼ばれ方をしてほしくない。……ごめん、マリィがあまりに可愛い顔をしていたから見惚れていたんだよ。しゃんとするから離縁だけは考え直して?ね?」


彼の口数が減ったのは、マリエルが不快感を表し始めた頃からだ。可愛い顔とはその顔か。冷めた目でセルジュを見ると照れられた。


……何故?


急に焦った様子を見せたセルジュに呆然としていたニコレットや第二王子殿下達は、二人の温度差を見て、ハッとする。


「セル、離縁するって言ってるんだから離縁してもらったら良いわ。おじ様が勝手に決めた結婚だったんでしょ?私は……おじ様には認めてもらえなかったけど、ティエール家は恋愛結婚を推奨していたじゃない」

「そうだ、セル。侯爵が決めた婚姻を一度はしたんだ。義理は通したのだから、次は望む妻を迎えたら良い」

「ずっとニコレットは待っていたもんな」

「それに侯爵家には跡取りがいるんだから、子どもも出来ない女をいつでも傍においといても仕方がないじゃん」


また勝手なことを言い始めた。

最後のは、三月前まで白い結婚状態だからどうしようもない。

また、セルジュを見上げると笑顔をマリエルに向けた後、彼らに視線を向ける。その顔に、もう笑顔は無く。


「何か勘違いしてる様ですが、私の可愛いマリィとの婚姻は私自身が望んだものですよ。せっかちな侯爵(ちち)に話したらすぐに婚約の話を持っていってしまったので、恋愛はする時間はなく、マリィには無理強いしてしまいましたが……」

「だが、君はニコを」

「カリエ伯爵令嬢は侯爵夫人(はは)の親友の子。勝手に自分達の子供を婚約させようと約束していたみたいですけど、恋愛結婚推奨なので私の気持ちがカリエ伯爵令嬢には向かなかったので侯爵(ちち)が婚約させる訳ないでしょう?」

「あんなにもニコのことを大事にしてきたのにか?」

侯爵夫人(はは)からしつこく気に掛けろと言われていましたし、何より第二王子(ジョスラン)殿下にはカリエ伯爵令嬢を不埒に輩から守ってやれと命があったからです。でなければ、愛しい(マリィ)をほったらかしにはしません」


命令、という言葉にはマリエルも目を丸くした。

王族からの命令であれば、婚約者より妻より先に護らなければならない。只のお願いであっても、そう言わなければ、臣下には解らず、命令として受け取ることもある。

困惑した表情をする第二王子殿下は、お願いのつもりだったのだろう。セルジュもそのつもりではあったが、利用した。


「しつこく……言われて?命、令……だったから?」


一番、ショックを受けたのはニコレットだった。だが、認めたくない様で。


「でもでも、私のこと抱き締めてくれたじゃない?マリエルの前でも。それって私のこと好きだからでしょ?マリエルに私のことが好きだって見せつけたかったのよね?」

「私がカリエ伯爵令嬢を抱き締めた?……あぁ、カリエ伯爵令嬢はいつも勢い良く抱き付いて来ますからね。それに寄り掛かっても来る。殿下達は知っているでしょう?私は座り仕事ばかりなので非力なんです。女性であってもしっかり抱き止めないと倒れてしまうので、ああいう形になってしまっていました。愛しい(マリィ)の前で、女性一人も支えられずに倒れるなんて格好悪過ぎるじゃないですか」


またショックを受けるニコレットを他所に、心の内で「うっわぁ……」と思うマリエル。

尤もらしい言い分には聞こえるが、マリエルは知っている。それが嘘だと。

確かに座り仕事ばかりなのだろう。細くも見える。

しかし、この(おとこ)の身体にはしっかり筋肉が付いていた。三月、たっぷり見たので間違いない。思い出して、頭を振って、ほんのり熱を帯び掛けた顔から熱を振り払う。

なので、ニコレットより細身ではあるが、背は大差無いマリエルを苦も無く抱き上げられるセルジュがニコレットを支えられない筈はないのだ。

ニコレットは勿論、第二王子殿下達も知らない様で信じたのか苦い表情をしていた。訂正はしなかった。


どうしても信じられない様子で「嘘、嘘よ」と繰り返すニコレット。

幼い頃からセルジュと結婚するのだと両親やセルジュの母である侯爵夫人から言い含められ、美しいセルジュに惚れ込んだ。何より、自身もセルジュに並ぶに相応しい美しさを持ち、誰からも持て囃され、願いは何でも叶ってきた。セルジュとの結婚以外は。

セルジュも愛してくれていた筈なのに、彼の父である侯爵だけが認めてはくれず、別の女をセルジュの妻にした。侯爵と一緒に愛し合う自分達を引き裂いた許せない女……マリエル=ビオ。

自分より全てにおいて劣る女がセルジュと婚約どころか婚姻までしたのが許せなかった。婚約した時から、それ以前から、お前(マリエル)ではなく自分(ニコレット)(セルジュ)に愛されているのだと知らしめてきたというのに太太しく妻におさまった。だから、仕方なくマリエルと婚姻するしかなかったセルジュの為にマリエルの邪魔をした。祝いたくもない結婚や誕生日に休みを取る彼の為に、会いに行き、自分のところに呼んだ。必ず会って、自分を優先してくれる彼からの愛を感じて、自分は正しいのだとニコレットは気持ちを高揚させていった。

彼は忙しいので毎回ほんの少しの時間しか共にいられなかったし、外聞もあるので二人きりにはなれなかったが、幸せで。また彼もその少しの時間に癒しを求め、幸せを感じてくれているのだと思っていた。


しかし、今、自分への愛を否定し、憎い筈の女を如何にも愛おしげに抱いているのは何故か。

公の場だから?違う。彼はこういった夜会でも自分が誘えば、マリエルをおいて来てくれる人だ。

ニコレットには解らなかった。突き放される理由が。


心配する第二王子殿下達の声にも耳を傾けず、憎い、憎い女……マリエルを睨んだが、それからも庇う様にセルジュがマリエルを抱き込む。

そこにいるべきなのは自分の筈だと、胸を掻きむしられる思いがした。


そう、そこは私の……。


ギリッと歯を食い縛り、隠された女を睨む。


「セルにいつまでくっついてんの!離れなさいよ!私とセルの周りをうとろちょろして、私とセルの幸せの邪魔ばかりする……この害虫女!!とっとと駆除されろ!」


セルジュの腕の中にいることが許せず、引き剥がそうとした。

が、それを止めたのは他の誰でもなくセルジュだった。


目に付いたマリエルの髪を鷲掴もうとした寸前、反対に手首を掴まれる。

捻り上げられ、突き飛ばされた。

床に倒れ込むニコレットは、顔を上げて初めてそれを誰がしたか知る。

酷く冷たい、射殺さんばかりの鋭い目で見下ろされていた。セルジュに。


「お前と、私の幸せ?そんなものはこれまでも、これからも無い。私と(マリィ)の周りをうろつく害虫はお前の方だろう?勘違いするな。愛しい(マリィ)を害されない為にお前を連れて離れていただけだ」

「セ、セル……?」

()()お前に名前で呼ぶことを許した覚えはない。況してや愛称など……。(マリィ)の名前もだ。伯爵家の令嬢がマナーの一つも無いとは呆れる」


吐き捨てる様に言われて、ニコレットは顔色を悪くする。


「セル、言い過ぎだ。ニコレットは君の大事な幼馴染みじゃないか」


床にペタリと座ったままのニコレットを心配し、駆け寄る第二王子殿下は彼女に手を差し伸べながら庇う様に言う。


「先程も言いましたが、言い付けられて相手をしていただけです。古い付き合いなので、節度を守って接してくれたなら家族の様にも思えたかもしれませんが……思い込みだけで私の気持ちも蔑ろにしてきた者に何の情もありません」

「だが……」

「それに(マリィ)を今も害そうとした。カリエ伯爵令嬢(それ)には罰が必要です」

「戯れの様なものだ」

「いいえ、未来の侯爵夫人である(マリィ)だけではなく、未来の侯爵(わたし)の子まで害そうとしたのですから許されることではありません」


……子?


会場が静まり返り、そして徐々にざわつき出す。

マリエルも目を丸くして、セルジュの腕の中から見上げた。

「気付かなかった?」とマリエルには優しく問い掛ける。


気付かなかった。

月の物は不定期で、まだ来ないのはそれが原因だと思っていた。

疑う気持ちがあって「本当ですか?」と聞けば、「一月ぐらい前に風邪を引いたよね。その時に医師に診てもらったら……」と。

子供がいることが解ったのは偶然だった。

屋敷の者達と一緒になって、それとなく気付く様にお茶をハーブティーに変えたり、服もゆったりした物に変えたり。勿論、夜もその頃から控えめになっていたがマリエルはまったく気付かなかった。

今回のドレスや靴もその為。必要以上に心配した理由も……。


自分の腹に手を当て、ここに子供が……と思うと感慨深くなる。


反対にショックを隠し切れないニコレットに、何故か第二王子殿下達もショックを受けていた。

追い討ちを掛ける様にセルジュは言う。


「侯爵家を害する行いをしたカリエ伯爵令嬢それとあなた方の(マリィ)への度重なる暴言も正式に訴えます。今後我々には近付かないで下さい」


訴えると言えるぐらいに、彼らとの関係にしっかり線引きをしていた。

と、彼らの様子を見て、マリエルは理解する。


主催者や他の夜会の参加者達に騒がせたことを謝罪し、セルジュとマリエルは下がらせてもらった。


セルジュの言った通り、その後、彼らに抗議した。

ニコレットや第二王子殿下、側近達と関係する者によって広められた悪意あるマリエルの噂。今回の夜会でのマリエルに手を出そうとしたことに加え、彼らからの誹謗中傷。

侯爵家に傷を付ける様な行いとして、訴えた。

愛妻家の王陛下や王太子殿下は、セルジュの訴えを深く受け止め、彼らの行いを罰した。


彼らのティエール家への接近を禁じ、しばらくの謹慎期間が設けられた。

それが開けたら、第二王子殿下は婚約者との婚姻。側近達もだ。

ニコレットへの懸想から渋り、先延ばしにしていたが、これ以上は王家も各家々も許さなかった。

セルジュがマリエルと離縁することを前提に考えていた、まだ婚約者のいないニコレットは王都やティエール家の領地より離れた修道院か、王家が決めた縁組を受けるかを迫られた。「どっちもイヤ!私はセルと結婚するの!」と突っぱね続けた結果、より厳しい修道院に入れたらしい。


セルジュは第二王子殿下から離れても、城勤めは変わらず。

以前より王太子殿下に声を掛けられていたことから、この機に王太子殿下に支えることになったのだ。

出世と言えば出世ではあるが、第二王子殿下の時とは違い、無理な仕事を回されないのでセルジュとマリエルが一緒に過ごす時間は圧倒的に増え、関係を深めていけた。

また、侯爵は早くに隠居し、爵位を息子(セルジュ)に譲ったことで忙しくはなったが、侯爵と侯爵夫人として夫婦で視察など仕事中も一緒にいられることが増えたので絆も強くなっただろう。


だからといって、その後も二人が平穏に過ごすことは無かった。


度々、妻が「もう離縁よ!糞野郎!」と離縁書を抱えて屋敷から飛び出し、夫は焦った様子で後を追い掛ける姿が目撃される。

嫁姑問題、別居騒動、浮気疑惑、等など。


それでも、二人は最期まで夫婦で在り続けた。




二人が幸せだったかは、二人だけが知るところ。









【愛しのマリィ】






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