第一話 説得
「ほんとにやるつもりなのか?」
目の前を歩く少女に話しかける。いくども繰り返し話しかけられると流石に無視はできないようだが腰を据えて話し合うつもりは毛頭ないらしく、彼女はその足を止めずにむしろ加速しながらこちらを振り向くことなく、正面に向かって言った。
「やるわよ。あなた、何度同じことを言わせるわけ? やると言ったらやるの。それはあいつらにだって伝えてあることよ。ここで行かなかったら家名に……まあ、それは関係ないわね……」
これが何度目のやり取りになるのだろう。いつものことだが、説得は失敗に終わりそうだ。というか、もう失敗している。
腰まで届く黒髪を揺らせながら歩く後姿を、彼女がホームルーム終了直後に教室を出て行ったときからその背中に張り付いて見つめている。
「このあとみんなでカラオケに行くけど、神岸もどう?」
僕の机までやって来た友恵が言ってきた。その背後には数人の女子と男子――正確な人数は覚えていないが、人気者の皆さんだった――が控え、カースト上位の自分たちと交われるという最大級の魅力を秘めた誘いに僕がどう答えるかなど火を見るよりも明らかであり返答を待つまでもない、と言いたげな自信と軽蔑の表情を浮かべていた。さて今度はどんな理由で断ろうかと、考えをまとめている僕の視線の端にスクールバッグを肩にかけて一人教室を出ていく彼女の後姿を捉えたときには、それはもう心臓を締め付けられる思いだった。
何かを叫ぶ友恵を放置し、慌てて追いつき説得を開始する。だがそんなことは地球の反対側で吹く風並み無関係だと思っているように無視を決め込みつかつか歩き出してしまった。これから行く場所に着いてきてくれと、まさか頼まれたわけではないし、どこに誰と行こうがそれは完全に彼女の自由意思にもとづくことで僕が関与できる余地は一切ない。近代社会に存在する普遍的な法則だからだ。だがそれを言うなら僕だってその法則の適用対象だ。僕が誰を守り、誰のために存在しているかということも完全に僕の自由意思にもとづくことで誰かが関与できる余地は一切……まあ僕の場合はそこまでは行かないか。
最終的な判断にいたる前の説得になびかれることや、誰かの意向が影響を及ぼす日々、僕はそれにしっかり影響されるのだから。
校門を出てから既に二十分は経過しただろうか……。冬の日の入りは早く、青い空がビルの隙間から見えていた天気は今になっても健在で燃えるようなオレンジ色が町を包み、西に立つビル群を照らしている。不可侵境界線のさらに遠くにそびえたつ山々にはうっすらと雪が積もっていて、そこから吹き下ろす風は耳が千切れるんじゃないかと思うほどに冷たく、鼻は冷凍庫に突っ込んでいるのではないかというほど痛く冷えてしまう。
前を歩く彼女の背中で多少は風を凌けている僕とは違い、学校指定の真っ黒の制服とズボンに身を包んだその身には他の防寒具の類を一切身に着けていない。それは急いで彼女を追ってきた僕も同じだった。かろうじてスクールバッグは持ってきたが、手袋と耳当て、マフラーはロッカーに入れっぱなしだちくしょう! 寒さは体力を奪う。一体どんな肝臓をしているんだ。
頭部を厳しい寒さにさらしているはずだが、きっとそんなことは目の前の少女には些細な問題なのだろう。気候や人間関係などの環境がどうであれ、いつでもどこでも自己を貫ける強さがあるからこそあんな誘いに乗ってしまうのだ。そんな強い人間が自分で決めたことを、肉体的にも精神的にも強くない僕のごとき常人の説得で曲げるわけがない。だからと言って、放っておけないのは僕が過保護だからなのだろうか? 彼女からしたら自分より弱い“保護者”……まったく笑われる存在だぜ――
「あんたもいい加減懲りたらどう? 前回だって巻き添えを食らって痛い思いしたでしょうに。私は好きでやっているんだし、仕事と言ってもボランティアみたいなものだからわざわざ来てくれなくていいのよ?」
説得をやめた僕を一応気にかけてくれたのか、これから起きる事態に巻き込むことを小さじ一杯ほどには申し訳なく思ってくれたのか……。視線だけを向けてそんな提案をしてきた。
「じゃあ、今すぐUターンしてカラオケにでも」
「却下」
やっぱり。
「あいつが私に舐めた言動を取った。慈悲深く寛容な器量を持つ私は暴力に訴えることなく、謝罪と訂正の機会を与えた。最初にして最後の機会をね。あいつはそれを蹴った。ということは、もう戦争なのよ」
「いや、横島くんが慈悲を蹴ったというけれど、そのなかには怯えてるメンバーだっていたんでしょ? 彼らは君から見ればとてもか弱い存在じゃないか。横島くんの挑発に乗ると彼らまで巻き添えに――」
「どういった背景があろうと、宣戦布告した私を前にしながら集団に属する選択をしたのならリーダーである横島の意向に賛同したということなのよ」
「厳しいなぁ」
「『言われてやったんです。本当はやりたくなかったんです~』って、はあ!? だったらやるなよ! どうしても現場に居合わせたならさっさと降伏して隅に引っ込んでなさいよ! 中途半端に戦意喪失しているくらいなら、はじめから戦わなければいいのよ」
「そんな強い考えを万人に当てはめてくれるなよ。長い物に巻かれる生き方を仕方なしにしている人種がいることも、いつかの事件で教えたと思うけれど……」
「長い物に巻かれ切れない弱さがいけないんだわ。強者はとことん強く、弱者はとことん弱く。どちらにもなれないものは蹴散らされるだけなのよ」
今まで歩いてきた住宅街、民家のコンクリート塀で囲まれた交差点を曲がると夕陽にその横顔が照らされる。引き絞られた双眸に、凍えとは無関係の赤い唇。突風と言うべき風が通り抜けて、夜の闇より黒くて暗い髪がぶわっと舞い上がった。
ああ、もう約束した場所が見えてきた。人口八十万人の大きな町を流れる大きな川。休日はバーベキューやサッカーで賑わう河原も平日の夕方、まして真冬の乾いた強風が暴れる日となれば誰もいやしない。
「私の理念に共感できないのなら、死ねばいい」
どうやら今回も本気らしい。いや、彼女が本気でなかったことなんて過去一度も――知り合う前のことは流石に知らないが――ない。
橋は片側三車線の道路を持ち、上流側に歩行者用の通路が設けられている。川に沿って南北に伸びるサイクリングロードを越え、幅が一キロ弱もある河原に降りる階段を下りて行く。まぶしい西日ももうすぐ山に隠れるだろう。夜がやってくる。
やれやれ、今回も頃合いを見て止めることしかできそうにない。一年で二桁の回数救急車を呼んだ人間は僕の他にどれだけいるだろうか。
「神姫ちゃん、たまにはお兄ちゃんの言うことも聞いてくれ」
つづく