21:ろ―二七
それから二十分ほど歩き、ようやくコミュニティーにたどり着いた。だが、灯りのともる民家を前にして、さてどうすればいいのか分からない。
下手に動くと通報されかねないことに、ふと気づく。
「どうする?」
「いちばん近い家に行ってみよう」
「大丈夫なの?」
「なるようになるさ」
鷹揚な態度で、最初に見えた木造のみすぼらしい家の、背もたれがささくれ立つ籐椅子のあるポーチに上がったマクブライトは、エメラルドグリーンの塗装がまだらに剥がれたドアを叩いた。ドア脇の小窓からは薄明かりが漏れ、中に家人がいるのは分かったが、案の定だれも出てこない。
「ほらな、通報されるのがオチだぞ。行こう」
呆れながら言うと、
「まあ、見てな」
マクブライトが笑んで、
「ブエノス・ノーチェス!」
と、大声で中に呼びかけた。
その声へ応えるように中から小さく物音がし、しばらくして鍵のひらく音が聞こえ、ゆっくりとドアが開いた。そこから恐る恐る顔を出したのは、左手にランタンをさげた褐色の肌の中年女で、ひっつめにした黒髪は、生活の苦しさをあらわすかのように艶をすっかり無くしていた。
「ダレ?」
片言で訊ね、女がマクブライトのつま先からスキンヘッドまでを不審そうにして見ていく。ドアの縁にかけた右手の甲には、円の中に×印が描かれたタトゥーが刻まれていた。
「旅の者だ。ヴィアヘーロ、分かるか?」
マクブライトが言うと、女は急に相好をくずしてうなずき、
「タビビト。ウナ・イグレシア」
と応えながら、村の先にある建物を指さした。
ここからは暗くてよく見えないが、それは周りの民家より、ひと回りほど大きな建物だった。
「グラシアス」
マクブライトが言うと、女は笑顔のままうなずき、ドアを閉じた。
「何語だよ、今のは?」
「おとなりの〈リオ・ロホ〉で使われていた言葉だ。まあ、おれも片言でしかしゃべれないが、それでも役には立ったようだな」
得意げにマクブライトは言い、そして建物を目指して歩き出した。
ハナコたちもそれに付き従う。
しばらく行くと、村の一番奥に目指す建物があった。
雑木林を背後に湛えたその建物は、貧しい村のものだとすぐ分かるみすぼらしい教会で、その横には、小さな物置小屋が寄り添うようにして建っていた。
樫でできたくすんだ茶色のチュニジア扉を叩くと、中からさきほどの女とおなじ褐色の肌の、黒い詰め襟の服に身を包む男が顔を出した。鬢付け油でうしろへ流したうすい頭髪には、ちらほらと白いものが目立ち、顔には深いしわがいくつも刻まれ、六十をとっくに過ぎているだろうことが分かる。
「こんばんわ。旅の者ですが、一晩だけ泊めていただけないでしょうか? できれば、なにか食事まで頂けたらありがたい」
マクブライトが挨拶もそこそこにして不躾に言う。ハナコはそれを諫めるようにして肩を小突いたが、マクブライトはどこ吹く風とばかり満面に笑みを浮かべて男を見ている。
それを受けて、「どうぞ中へ」と男が流暢な公用語で応じた。
外からの雰囲気とは打って変わり、礼拝堂はドーム天井のお陰か、あまり狭苦しくない印象だった。そこに描かれた、ラッパを吹く天使のフレスコ画には、圧倒されるほどの威容さえ備わっている。
「この国で旅の者とは、また珍しいですね」
男は静謐な声でゆっくりと言いながら、礼拝堂の奥のドアを開き、目顔で入るよう促してきた。
入ると、そこは礼拝堂とはまたちがい、質素を絵に描いたような食堂だった。
その歪さが、そのままこの村の貧しさなのだろう、とハナコは思う。
中央のダイニングテーブルに案内されて座ると、しばらくして裏の厨房から男が木の皿を盆に載せて現れ、それをひとつひとつ《《態度の大きな》》客人たちの前に配り置いていった。
見ると、中には湯気の香るコーンスープがなみなみと注がれ、男はつづいてスープ皿の横に大きめのコーンブレッドを置いた。
「あまりいいものではありませんが、どうぞ」
言って、また男が裏に引っ込んだ。
と同時に、トキオがコーンブレッドを頬張る。
さっきからの男どもの無遠慮さに辟易としたが、空腹には勝てず、ハナコはいちど短く手を合わせてからコーンスープに手をつけた。たしかに質素なもので味も薄かったが、それでも空きっ腹には染みる。空腹こそ最上の調味料とはよく言ったものだ。
見ると、となりのアリスもまたコーンスープをゆっくりと口へ運んでいる。
「すみませんね、今ちょうどコーヒーを切らしているもので」
食事をすませたタイミングで、男が茶渋の染みついたコーヒーカップに淹れられた白湯をそれぞれの前に置いていく。その手の甲には、さっき教会を教えてくれた女のそれとおなじ模様のタトゥーがあった。
「粗末な物ですが、お口には合いましたか?」
男が本当に申し訳なさそうな顔をして言う。
「ごちそうさまです。あたしらも毎日おなじようなものを食べてるから、特に不満もないです。むしろ感謝しかありません」
ハナコは、慣れない言葉遣いで謝辞を述べて頭をさげた。
「いえいえ、当たり前のことをしたまでです」
男がにっこりと笑う。その瞳には、なぜか哀しみが宿っていた。
「わたしは、この村で神父をつとめさせていただいている、アントニオ・パブロ・アリスタという者です」
男――アントニオが名乗ったことで、はたと自分たちが名乗ることさえしていなかったことに気がついたハナコは、居住まいを正して自己紹介をすませ、トキオたちもそれに従った。
「そうですか、九番街で運び屋を」
言って、アリスに視線を走らせる神父。
一瞬、その目が鋭くなったのにハナコは気がつく。
だがすぐに神父は柔和な表情に戻り、ハナコに視線を戻した。
当事者のアリスは、緊張からか無関心からなのかまだ名乗っておらず、太ももに乗せたクニオフィンチに、細かく砕いたコーンブレッドを食べさせている。
ハナコは「この娘は、アリス。あたしの妹です」と、へたな嘘をついた。
「……妹、ですか。まあ、詮索する気はありません。偽りは罪ですが、人を疑うこともまた罪になりますからね」
言って、アントニオはなにかを言い聞かせるよう、二度うなずいた。
「それにわたしも四十年ちかい昔は軍人だったのでね、人の罪を糾弾できるような人間ではありませんし」
「四十年前といえば、独立戦争の頃だな」
マクブライトが言う。
「ええ、あの時、わたしは数多くの罪のない人間を手にかけてしまいました。その罪に耐えきれずにね、《《ここ》》へとやって来た。そして流浪の果てにこの村へ辿り着いたわたしを、先代の神父が手厚く保護してくれたのです」
昔を思い出すようにして遠い目で語るアントニオ。
「神父の優しさに胸を打たれてここで暮らすようになった当時のわたしは、それでも神を信ずるには、いささか現実を知りすぎていたのです。思えば毎日のように神に祈る先代の背中を、最初はまるで滑稽なものを見るような目で見ていまし――」
「すいません、トイレは?」
神父の独白を遮って、トキオが言う。
その顔が、青ざめていた。
「おい、大丈夫か?」
思わず声をかけると、
「大丈夫ですよ。本当にただトイレに行きたいだけです」
と言って、トキオは力なく笑顔を作った。
「ご案内しましょう」
促されて立ち上がったトキオは、おぼつかない足取りで神父について食堂脇の廊下へと出ていった。
「おい、大丈夫なのか、相棒は?」
「ゲイの野郎にうけた傷のせいかもね。ここに医者でもいれば、ちゃんとした治療を受けさせてやりたいんだけど」
ハナコがマクブライトに応えるのとほぼ同時に、廊下からなにかが倒れる鈍い音が聞こえてきた。
嫌な予感がしてそこへ向かうと、トキオがうつぶせに倒れ、その背中に手を置いて神父が呼びかけていた。
「大丈夫か?」
駆け寄り、神父と同じく背中に手を置いて揺すってみたが、目をつぶったままのトキオは、苦しそうな息を漏らしながら喘ぐだけで、返事をする余裕さえない様子だった。
「ここには医者はいる?」
焦り、丁寧な言葉遣いをすら忘れて訊くと、
「ええ、いま呼んできます」
と言って、神父は教会を出ていった。
脂汗の浮き出た額を拭いてやり、トキオのシャツをめくると、肩に巻かれた包帯にうっすらと血が滲んでいた。
傷ついたトキオを前にして、今までに幾度となく経験した、己の無力さに歯噛みするあの感覚が湧いているのを感じ、ハナコは床に拳を叩きつけた。




