海を泳ぐ 下
はじめは珊瑚の上やさらさらとした砂の上を泳いでいた。目の前でゆったりと動くラピの尾ひれはどこか優雅で、どこか儚げだとリョウヤは思った。時折大きな魚がリョウヤ達を追い越した。ずんぐりとした唇で、頭にはこぶのある魚だった。しばらく泳ぐと海底には岩が増えてきた。ゴロゴロとした黒い岩には貝がはりつき、すき間にタコやウツボがいた。
景色が変わるのは突然だった。長い海藻をかき分けて進むと、がくんと底が抜けているのに気がついた。まるで巨大な崖のふちにいるようだった。ラピがとまってその暗い谷底を指さした。そちらを向いたが、リョウヤには何も見えなかった。いや、しばらく目をこらしていると、何かがある事に気がついた。一艘の、沈没船だった。何年前の沈没船だろうか。サビた鉄は茶色くなり、藻や海藻が生えていて、ちらほらと周りで魚が泳いでいるのがわかった。
「沈没船・・・」
リョウヤがもう泡の出ない声でそう言うと、ラピがこくりとうなずいた。
「以前はすぐ目の前にあったのよ」
ラピは海中の崖のふちに立ち、そう言って目の前の何もない場所を指さした。
「でも、ある時、海底が崩れてもっと奥底のあそこまで落ちちゃったの」
「沈没船が沈没したってか」
ヒデトが恐ろしいというふうに身を震わせた。ラピは頷きながら続けた。
「まあ、そんなところね。人間は地殻変動だとか言っているけれど、私は違うと思うわ」
ラピが崖の下の沈没船を見ながら悲しそうに言った。
「どうして?」
リョウヤとヒデトが同時にそう尋ねると、ラピは崖の先に進み出ながらそっと答えた。地上の崖なら奈落の底まで真っ逆さまだが、恐ろしい事に、この場所では先に進めた。
「硝子の割れた音が聞こえたからよ」
リョウヤ達は底が見えない上を泳いでいくのに精いっぱいで、ラピの返答など聞いている場合ではなかった。ヒデトは少しでも気を紛らわせようと、ひきつった笑顔で言った。
「ま、まあ、あれだよな。海には、ふ、不思議が、たくさん、てなわけだな。あは、あはは」
ヒデトは何の考えなしにそう言ったつもりだったが、その言葉がまさしくそうであるという事に一同は気がつくのであった。どこが底なのかわからない暗闇の少し先に、一点の青い光があったのだ。まるで、宇宙の中の星のようだった。
「ラピ、あれは・・・?」
リョウヤがそう尋ねると、ラピは振り向いてにこりとした。
「暗闇って、秘密を隠すのが上手なのよ」
ラピはそう言い残すと少し泳ぐスピードを速めて、その青い光に近づいた。
リョウヤ達も近くに来てようやくある事に気がついた。暗闇の中にぽつんと光の玉が浮いているのかと思ったが、それは違ったのだ。実は目の前に、真っ黒で巨大な岩がそびえたっていた。ずっと下からずっと上まで。ずっと右からずっと左まで。その岩の割れ目から、青い光が漏れていたのだ。思っていたよりもはるかに大きな穴で、小屋くらいの割れ目だった。ラピは迷うことなくその中へと入って行った。リョウヤ達が躊躇っていると、ラピが顔だけその青い光の中から出した。
「大丈夫よ。でも、確かにここに人間が来たことはないわ。人魚だってそうそう来ないわ。私みたいな冒険好きじゃなければね」
リョウヤとヒデトとエイタは再び顔を見合わせ、覚悟を決めた。そして、青い光に溶け込んでいったラピの後について行った。
しばらくリョウヤは目の前で動くラピの尾ひれについて行くだけだった。黒い岩の壁と青い光、そしてラピの桃色の尾ひれ。それだけの道のりが終わり、次に目の前に広がった世界を見た時のリョウヤの感情は、言葉では表せやしない。
水晶の砂は透明に輝き、ゆらめく透き通った緑の海藻。珊瑚やイソギンチャクは赤や青、紫に光り、そしてちらちらと光の玉を降らせていた。はるか上から差し込む光の柱は金剛石のようで、少しばかり、琥珀にも思えた。そして、透明な竜が泳いでいるかのように、目に見えない不思議な何かがゆったりと景色を横切っている。けれども何より不思議だったのは、海中に木が生えていることだった。一本の大木が、まるでこの空間の主のように、じっと佇んでいたのだ。驚くリョウヤに、ラピが教えてくれた。
「あれは木じゃないわ。岩にいろんなイソギンチャクや海藻が巻付いているのよ」
そんな不思議の木には青い花が咲いていた。青い海の世界に咲く青い花なのに、それは際立って美しかった。まるで命の光のようだとリョウヤは思った。けれど、けれど。
言葉がでない
この目の前に広がる景色はこの目で見ないと伝わらない。あますことなく写真や絵や文書で記録しても、この景色は伝わらない。リョウヤは、また涙が出そうだった。ここでなら、涙も海と化す。だから、リョウヤ自身も、ヒデトとエイタが感動していないとは言いきれなかった。壮大で、繊細で、威厳があって、儚くて、そしてなによりも、透明で。
ふとリョウヤの目の前に、不思議の木の命の光が舞い散ってきた。リョウヤはそっと手を伸ばしてその花びらを受け止めた。それだけでも、手におさまるこんな小さな花びらでも、桁違いの美であった。ただ美しいだけではなく、されど一片の無駄もなく。まるで、まるで命の口づけのようで。もしも、こんなものがある日ふと自分の前に現れたら。もしもこんな景色がどこかにあると知ることとなったら。リョウヤの脳裏にラピのあの言葉が蘇る。
「死んでもいいから、桜が見たいの」
リョウヤはそっと、その花びらをのせた手を上へとあげた。見えない竜が、あっという間に、それを連れ去った。