海を泳ぐ 上
「それにしても、ヒデトくんとゲームしてたんだ、か」
ヒデトが素足を海中に浸しながら真っ青な空を見て言った。ラピが頬を膨らませてヒデトを睨む。
「ゲームの話なんかより、私のことをばらそうとしたなんて、あなた最低よ!この約束破り」
ヒデトもラピがそこまで本気で怒っている訳ではないのがわかったのだろう。すぐに白い歯を見せてにかっと笑った。
「わるかったって」
「まったく、もう」
ラピはぷいとそっぽを向くと、器用にその尾ひれでヒデトに水をかけた。ヒデトは頭からずぶ濡れになった。そして怒ったような顔をすると、服を着たまま躊躇いなく海に飛び込んだ。
「やりやがったな!」
ざぶん。
ヒデトが飛び込んだ海に水柱がたち、しぶきがリョウヤとエイタにもかかった。ヒデトは運動神経抜群だった。勿論泳ぎも大得意だった。そんなヒデトも人魚に敵うはずもなく、いとも簡単にラピに負かされていた。ラピは声をあげて笑いながらヒデトがかけてきた水を避け、ヒデトに水をかけまくっていた。目の前で二人してきゃっきゃとはしゃぐその姿を見ていたリョウヤは、いつの間にか声をあげて一緒になって笑っていた。エイタはそんなリョウヤを見るのが初めてで、少し驚いた顔をしていたが最後にはみんな一緒になって笑っていた。
ラピがヒデトの顔面に海藻を投げつけた時、リョウヤは目に涙を浮かべて大笑いした。まるでかつらでも被ったかのような姿になったヒデトが笑いながらリョウヤとエイタを呼んだ。
「おい!お前らも高みの見物なんかしてないで、こっちこいよな!」
エイタは少しためらっているようだったが、ちらりとリョウヤを見た。けれどすぐにヒデトの方に向き直ると頷いて、それから海に飛び込んだ。リョウヤはどうしようかと迷っていた。そんな迷う思考回路を断ち切るように、海から白い手が伸びてきた。ラピの手だった。
「ほら、リョウヤもはやく!」
「こいよー」
後ろからヒデトがそう言った。リョウヤはもう半ばやけくそになって、ラピの綺麗なその手をとると、ぎゅっと目をつむった。
どぼん。
次の瞬間、リョウヤは海に包まれた。柔らかな水の流れが、リョウヤを優しく撫でた。髪が上にたなびくのがわかった。海の中では魚と光も泳いでいた。遠くまで透き通った硝子のような海の世界。リョウヤが息を吐くと、泡がかこかこと水面へとのぼっていく。途端に空気が恋しくなって、リョウヤは慌てて海面を頭で突き破った。
「ぷはっ!」
穏やかな波に上下しながら、すぐ近くにラピとヒデトとエイタの顔があった。
「やっぱ海最高だわ」
ヒデトが顔の水を拭き、大空に向かって言った。蝉の大合唱よりも、波の音とカモメの鳴き声が聞こえた。ここからの命の叫びは海なのだと、リョウヤはふと思った。そして改めて陸の方に目をやった。万華鏡山の濃い緑が、陽の光を容赦なく浴びてところどころ輝いていた。春にはあれが全て桜色に染まるなんて、よくよく考えてみると不思議な気がした。
「ねえ!」
そう声をあげたのはラピだった。みんなでラピの方を振り向いた。
「みんな、私についてきてよ」
ラピの目はどうしてか嬉しそうに輝いていた。
「ついてくっつったって、どこいくの?」
ヒデトがそう尋ねると、ラピはにこりとした。
「素敵な景色は海にもあるってことよ」
リョウヤとヒデトとエイタは顔を見合わせた。しかしラピは彼らに選択権を与えるつもりなどさらさらないようだ。
「いいから、早く潜って」
全員言われるがまま海に潜った。再び広がる海の世界。銀の鏡のように水面の裏に自分の顔が映っていた。リョウヤはしばらくその不思議な光景を見ていたが、ふと両の頬に柔らかな何かが触れた。はっとするや否や、ラピの顔が目の前にあった。
陽だまりの髪は一本一本が優しく輝いて、海の中でたなびいていた。陶器のような肌に螺鈿の瞳。長いまつげがリョウヤに触れそうなくらいに近かった。だから、ラピのそのほんのり春の色に染まった唇が自分の唇に触れたのかどうか、リョウヤにはわからなかった。
リョウヤが我に返った頃にはもうラピは少し離れたところにいた。リョウヤは訳も分からず自分の唇に触れた。何が起きたのかわからなかった。ただ、それはヒデトもエイタも同じようだ。二人ともぽかんとしてリョウヤと同じ格好をしていた。一つはっきりしていることは、今は空気が恋しくないという事だった。
「ラピ、今・・・」
リョウヤがまだぽかんとしたままラピの方を向くと、ラピは肩をすくめて笑った。
「いいから、早く来て」
それからラピはくるりと背を向けて海の中を泳ぎ始めた。はっとした三人の子らは慌ててその後を追った。