藍玉の味を知る
蝉の大合唱も、吸い込めばむっとするような空気も相変わらずで、首筋がじりじりと太陽に焼かれるのを感じながらリョウヤは岩場に座り込んでいた。けれどカモメの声と目の前の海水は涼しげで、海底の珊瑚や魚が見えるほど透き通っていた。リョウヤはそんな海面を睨みつけながら必死にこぼれ落ちそうな涙をこらえた。
わかってもらえなかった。結局、大道ヒデトは自分が何か特別なことと繋がっていたくて、ただそれだけで、ラピの夢を手伝うと言っていたのだとリョウヤは思った。ラピのように、あんなにまっすぐに、夢を語る誰かの姿なんて、見た事がなくて。何にもない自分でも助けられることがあるのなら、それで彼女の夢がかなうなら、ラピの夢がかなってほしいと。いつかラピが桜を見て、幸せそうに笑ってくれたら、どんなに自分も嬉しいかと。そんなリョウヤの気持ちは、大道ヒデトにはわかってもらえなかった。それがどうしようもなく悔しくて、惨めで、悲しくはないのに、涙が溢れてきた。
「リョウヤ?」
ちゃぽんと、心の奥底にも波紋が広がるような静かな音とともに、ラピが現れた。不安そうにリョウヤが座る岩場に泳いでやってきた。リョウヤはあたかも太陽が目に染みたかのように目をこすって涙を拭った。
「今日も暑いね」
リョウヤが言った。
「ええ」
少し濡れたリョウヤのまつげから目をそらすと、ラピはそのころころとまろやかに光る尾ひれを海中で動かした。その影で岩陰にいた小魚の群れが、無駄のない動きでさっと逃げていくのがリョウヤには見えた。なのでラピがもうリョウヤの座っている岩の横の波打ち際まできていることに、すぐには気がつかなかった。ラピは螺鈿のような瞳を、暑い日差しにきらりと煌めかせながら首を傾げた。白い虹が、その眼差しが、リョウヤの心に優しい刃を突き立てたようだった。さっきようやく堪えたはずの涙が、今度はどうしようもなく流れて、止まらなくなった。ぽろぽろと落ちていく涙はまるで玉のようだった。蝉の大合唱が相も変わらず聞こえ続ける。リョウヤは涙が頬を伝わるのを感じながら、ラピを見つめてようやく言った。
「わかんない」
自分がしゃくりあげているのがわかった。
「どうして泣くのか、わかんない」
自分の気持ちがそっくりそのまま大道ヒデトに伝わらなかったのは確かに悔しくて、惨めだとリョウヤは思った。けれど今流している涙の理由は、もっと違う理由な気がして、それでも、それが何なのかが、わからなかった。今までこんな気持ちになったことはなかった。だから、どうして泣くのかわからなかったし、自分の感情がわからないなんて、リョウヤには理解ができなかった。
声はあげなかったものの、ただひたすらにしゃくりあげながら泣くそんなリョウヤに、ラピが静かに言った。
「リョウヤ。それはね、あなたがもう、ひとりじゃないから、流す涙よ。それはあなたに、自分の気持ちを知っていてほしいと思う相手がいる証拠だわ」
リョウヤは頷かなかった。今までだって、そんな相手なんていなかった。これからだって、別にいなくていい。
「孤独っていうのはね、誰かと一緒にいる時にも味わうものなのよ」
ラピがしかたがない、というように肩をすくめた。その言葉を聞いた途端、リョウヤは顔を上げて大声で言った。
「僕は誰かと一緒になんていない!」
そう睨みつけたリョウヤの瞳には、もちろん、ラピが映っていた。
「・・・友達なんて、僕にはいないよ」
リョウヤはまだ少ししゃくりあげながら、再び岩場に座り込んだ。それでもラピの言葉で、つかえていた何かがことんと外れ落ちた。ずっと一人だった。今まではそんなことを気にしたこともなかった。けれど今、ラピや大道ヒデトや下野エイタとほんの少しだけ時間と言葉を交わして、気がつかないうちに、いくつかの感情も交わしていたのかもしれない。そんなやり取りの後に躓けば、もちろん孤独だって感じるだろう。以前よりも、もっと。
少し高い波がきて、波しぶきがリョウヤにかかった。塩辛かった。海の水が塩辛いなんて、知らなければただの青い海だ。でもリョウヤは知っている。この青い海は、塩辛い。これから先も、口にしなくたってわかる。海の水は、塩辛い。
「おーい」
背後から声がした。もちろん大道ヒデトの声だ。もちろんその後ろには下野エイタがいたが、リョウヤはもう驚かなかった。ヒデトは片手をぶんぶん振りながら元気よく岩場を駆け下りてきて、リョウヤには目もくれずにまずラピに挨拶した。
「よ!」
エイタも片手を上げた。
「こんちゃ!」
ラピは肩をすくめて微笑んだ。
「こんにちは。ヒデト、エイタ」
ヒデトは岩場の影で目を赤くしているリョウヤの方に向き直った。それから数歩大股で近づき、何の迷いもなく頭を下げた。
「リョウヤ!許せ!」
あまりに突然の出来事で、リョウヤはぽかんとしていた。目の前で頭を下げているヒデトを見つめたまま、何も言えないでいた。するとヒデトが顔を上げ、頭を掻きながら言った。
「だからさ、いろいろ悪かったって言ってんだよ。ラピの事ばらそうとしたり(ラピが驚いてヒデトの方を見た)、お前がゲームしてるとか嘘ついたり。お前、嘘なんかつかないのに、あの時は俺が悪かったのに、お前は嘘ついてさ。だから、なんだ・・・」
ヒデトはこれが一番謝りたくて、でも口が動かないとでもいうように口をもごもごさせながら、ようやく意を決したかのようにはっきりと言った。
「偽善者とかいい子面とか言って、ほんとさ、悪かったよ。ごめんな」
リョウヤは自分が何を言いたいのかわからなかった。だから、ヒデトの口からリョウヤの気持を言ってくれた時には、もう、何も言えなかった。
「お前はラピの夢、叶えさせてやりたかっただけなんだよな?」
リョウヤは再び熱いころりとした涙がふた粒、自分の頬を伝ったのを感じながら、大きく頷いた。