真夏に語るは春の夢
リョウヤはしばらく海を眺めてぼんやりとしていた。しかしふと、砂浜の向こうにある岩場で、何か奇妙なものが光っている事に気がついた。それは桃色でまろやかに輝く不思議な光で、リョウヤは無意識のうちにそれに近づいていた。フナ虫がさささと逃げていくのにも構わず、リョウヤは光の源を覗き込んだ。そこにいたのは、人魚だった。自分と同い年くらいの人魚が、目の前にいたのだ。
水底に住むという人魚のくせに、その髪は陽だまりのようにあたたかく輝いていた。桃色に輝いていたのは、彼女の尾ひれだった。まるで、桃色の蛋白石だ。色白な肌には海藻が巻き付いていて、苦しそうに息をしていた。それに気がついたリョウヤは慌てて怯えて彼女に呼びかけた。
「だ、大丈夫ですか?ね、ねえ」
どうすれば良いのかわからなくなって辺りを見渡したが、周りに人はいなかった。自分がどうにかしなければ。そう思ったリョウヤは何とか頭を働かせた。そしてランドセルから中身をすべて出すと、一杯に海水を汲んできて彼女にかけた。海水がかかった彼女の体は、陽の光を受けてより一層滑らかに輝いた。何度かそれを繰り返すうちに、ようやく彼女は目を開いた。
ぎょっとしたリョウヤは海水の入ったランドセルを持ったまま固まった。ランドセルの中でちゃぷんと海水がはねた。陽だまりの髪を耳に掛けた彼女は、ゆっくりとその目をリョウヤに向けた。リョウヤはその目を見て、昔読んだ小説に出てきたラデンという言葉を思い出した。貝殻だけが持つ、貝殻の虹だ。人魚はリョウヤを一通り見ると、自分の体に巻き付いた海藻を取り除いて、それからぽちゃんと海へ飛び込んでしまった。波紋もすぐさま波に消されて、リョウヤの前に残ったのは岩場に張り付いた海藻だけだった。しばらくリョウヤは突っ立っていたが、ふと海から彼女が再び現れてリョウヤに声をかけた。
「あなた、私に水をかけてくれたの?」
リョウヤは驚いて海水の入ったランドセルをひっくり返してしまった。中からどばっと海水があふれ出た。彼女はそれがリョウヤの答えだと思い、クスリと笑った。
「ありがとう」
屈託のないその笑顔に、リョウヤは心臓を羽でくすぐられたような気がした。なんとかそれをごまかしたくて、リョウヤははにかんだ。
「干からびてるのかと、思ったから・・・」
少し失礼なことを言ってしまったかもしれない、リョウヤはすぐさまそう思ったが人魚は笑っていた。するすると泳いでリョウヤのそばまで来ると、その白い手を伸ばして彼女は微笑んだ。
「私の名前はラピ。あなたは?」
リョウヤはおそるおそるその手を握り返した。
「ぼ、僕はリョウヤ。潟柿リョウヤ」
「改めて、ありがとうね。リョウヤ」
リョウヤは耳まで真っ赤にして頷いた。誰かにこんな風に、まっすぐお礼を言われたのは、初めてだった。そんな自分に気がついたリョウヤは、なんだか空気を変えたくて彼女に話しかけた。
「ね、ねえ。ラ、ラピさんは、人魚なんですか?」
するとラピはクスクスと笑いながら頷いた。
「ええ、そうよ。ラピさんだなんて。ラピでいいわよ」
リョウヤはなおさら緊張してしまって、上ずった声で更に尋ねた。
「ラ、ラピは、人魚のお姫様・・・?」
すると彼女はきょとんとして、それから突然吹き出した。
「違うわよ!私みたいなのがお姫様なわけないでしょう!リョウヤって子どもみたいなことを言うのね」
ラピはころころと笑っていたが、リョウヤは違った。子どもみたい。その言葉にリョウヤはどう返していいのかわからなかった。子どもみたい。実際にリョウヤは子どもだ。でも、彼はその性格からむしろ大人びていると周りからよく言われていた。もっと元気だったら子どもらしいのか。もっと大口開けて笑っていたら子どもらしいのか。両親にも“もっと子どもらしくしなさい”と冗談交じりに言われることもよくあった。
「・・・リョウヤ?」
少し心配そうな声音のラピにそう呼びかけられて、リョウヤは我に返った。それから慌てて笑って見せた。きっと、こういう作り笑いも子どもらしくないのだろうと思いながら。
「子どもみたいって、僕、子どもだもん。小学生だよ」
それを聞いたラピははっとした顔になった。彼女の表情は目くるめく変わる。それから彼女は、そっか、と呟くと少し海の中に沈んだ。
「そうよね。見た目で判断しちゃだめよね。私と同い年ぐらいの見た目でも、あなたは人間なんだもの」
その言葉を聞いてリョウヤは少し不安になった。
「ラピは何歳なの?」
女性に歳を聞くのは失礼だと聞いたことがあったが、人魚は人間とはまた違う文化を持っているかもしれないと淡い期待を抱きながらリョウヤは尋ねた。
「女性に歳を聞くなんて失礼しちゃうわ」
人魚と人間にも共通の文化がある事をリョウヤは知った。
「ご、ごめんなさい」
慌ててリョウヤが謝ると、ラピは再びクスクスと笑いながら首を傾げた。
「でも、そうね。もういーっぱい生きてきたわ」
きっと自分には想像できないくらい長い間生きてきたのだろうと、リョウヤは彼女の声音を聞いてすぐに悟った。再びどう返せばいいのかわからなくなり、リョウヤは話題を変えた。
「どうして、こんなところにやって来たの?」
その質問に、彼女は島の向こうを指さした。万華鏡山がある方角だった。今は真夏で、熱さに負けじと涼しげな緑で眩しく輝いていた。
「桜を、見たかったの」
「桜?」
リョウヤが聞き返すと、ラピは静かに頷いた。
「そう。桜。昔、たった一枚だけ、桜の花びらが私のところまで流れてきたの。ほら、私の鱗の色と似ているでしょ。でも、私の鱗より小さくて、薄くって。なのに、私が今まで見た何よりも綺麗で。まるで、まるで春の口づけみたいな色をしていて。柔らかくて、優しい香りがした。見てみたくなったの。桜の花を、この目で、もっと近くから。あなた達からしたら、月並みな人魚の夢だと思うかもしれないけれど、私、本気なの」
最後の一言を言う彼女の目は何かを切る刃のように静かだった。その横顔にリョウヤが見入っていると、彼女はぱっと顔を上げて肩をすくめた。
「でも失敗しちゃったわ。海藻をまけば何とかなると思ったのに、まさか岩場でもう限界になっちゃうなんて」
リョウヤは何と言っていいのかわからなくて、彼女の真似をして肩をすくめた。そして励ますつもりで言った。
「夏にはまだ、桜は咲かないよ」
それからリョウヤもラピも黙り込んだが、蝉の大合唱だけは相変わらず真夏の蜃気楼をつんざいていた。リョウヤはいつも思う。たった七日しか生きられないんだ。あれは合唱なんかじゃない。叫びだ。その時彼女が呟いた。不思議なことに、その小さなつぶやきは命の叫びに少しもかき消されることが無く、はっきりとリョウヤの耳に届いた。
「死んでもいいから、桜が見たいの」
リョウヤは思わず顔を上げた。それでも到底自分には理解できない彼女の言葉を、もう一度聞きたいとは思わなかった。ラピの瞳はまっすぐ、リョウヤを見ていた。
「私、陸に上がって干からびて死んだって構わない。桜が見たいの」
リョウヤはこの時初めて、誰かの本気の夢を聞いた。彼女のその夢は、命にかけてみる夢だからこそ、蝉たちに負けなかったのかもしれないとリョウヤは思った。
「だからここへやって来たんだね」
リョウヤがそう言うと、ラピは静かに頷いた。少しだけ、彼女がうらやましくなって、少しだけ、自分の存在が無意味に思えた。リョウヤはふと顔を上げると、彼女に言った。
「きっと、見れるよ」
それから、少しでも自分に意味を見つけたくなって、ふと言葉がこぼれた。でも、断られてもいいようにと、リョウヤはわざと少しだけふざけた調子で言った。
「なんなら、僕が手伝おうか」
すると、意外なことに、ラピは目を丸くした。
「それ、本当?本当の本当?」
ラピの食い付きにリョウヤは思わず吹き出してしまったが、彼はすぐさま頷いた。誰かに、こんな風に、まっすぐに必要とされるなんて、初めてだった。
「うん。僕にできる事なら」
「ありがとう、リョウヤ!」
ラピは螺鈿の瞳を細めてめいっぱいリョウヤの手を握りしめた。ラピの手に残っていた海水はひやりと冷たかったが、彼女のその手はやはり陽だまり様に温かだった。それから彼女は言った。
「約束ね、私に桜を見せて」
リョウヤも頷いた。
「約束。君に桜を見せてあげる」