始まりの夏
潟柿リョウヤは、離島の病院で働いていた。明治時代に建てられたこの病院はとても小さく、白い塗装もあちこちが剥げていた。海辺の近くにあるせいで、病院を囲う柵もさびて茶色くなっていた。それでも花が植えられ、日向ぼっこをする患者が近所の島民と話すこの場所は、今も昔も変わらず、島にとって大切な場所だった。それに、この病院の北の窓からは、島のてっぺんにある万華鏡山が良く見える。山はいくつもの湖で囲まれており、その名の通り、万華鏡のように水面に山が映るのだ。そして春になると、その山は美しい桜が咲く。
小さな病室で、おさげ髪の少女が窓辺の向こうの海を見ていた。やせ細って、片方の腕には点滴をしていた。げっそりとしていたが、その目には幼い元気が弾けていた。リョウヤが病室の扉をノックすると、彼女はぱっと顔を振り向かせた。
「アヤノちゃん、入るよ」
リョウヤが聴診器を首から取り外しながら部屋に入ると、アヤノと呼ばれた少女はにこりとした。リョウヤは彼女の体温を測り、それから血圧と脈拍を確認した。彼女は慣れているらしく、片腕をリョウヤに突き出したまま海の向こうを見ていた。港町では漁師たちがせわしなく働いている。脈を測り終えたリョウヤは一度頷き、そっと彼女に話しかけた。
「今日も海、綺麗だね」
アヤノは海を見つめたまま頷いた。その時、あまい潮風と共に花びらが一枚、病室に舞い込んできた。ひらひらと自分のベッドに舞い降りたその花びらを、アヤノは骨ばった手で拾い上げた。長いまつげをしばたたかせた後に一言、
「さくらだ」
と呟いた。それは確かに、桜の花びらだった。リョウヤもその花びらを見つめながら頷いた。
「本当だ。綺麗だね。きっと、万華鏡山からとんできたんだろう」
「私、春が好きなの」
かすれた声で唐突にそういう彼女の手で、桜の花びらがひらりと風に撫でられた。
「僕も好きだよ。桜を見ると、いつも・・・」
彼はふと心の底からこぼれ出そうになった記憶に、慌てて口をつぐんだ。脳裏で小さな三人の影がちらついた。目の前の少女と同じくらいの年齢だ。
「・・・いつも?」
アヤノが不思議そうに首を傾げたので、リョウヤは微笑んでから首を振った。
「ごめんね。何でもないんだ。ちょっと昔のことを思い出しただけだから」
「昔の事?」
アヤノがその先も聞きたそうに言ったので、リョウヤは少しためらった。それでも彼女のその手の上で儚く散ってきた桜の花びらを眺めているうちに、彼は話すことにした。いや、目の前の幼い少女の瞳が、そうさせたのかもしれない。
「信じてもらえないかもしれないけれど、これは、僕が、僕らが、子どもだった時の話なんだ。そう、ちょうどアヤノちゃんぐらいの歳だよ」
リョウヤはそう言いながら窓の向こうに目をやった。海の向こうで真っ白な雲がゆったりと流れていた。リョウヤはその雲の影に、再びあの三人の影を見た。
島の学校には数人の児童がいた。潟柿リョウヤは当時5年生だった。物静かで内気。友達よりも冒険小説と過ごす時間の方が長かった。木造で軋む廊下をばたばたと駆ける他の子たちと、一緒に遊びたいとも思わなかった。彼は今、荒れ狂う海を航海している最中だったからだ。
<面舵だ!でないとあの化け物イカに捕まってしまう!野郎ども、銛を持ってくるんだ!>
頬に勇ましい傷跡のある船長が、波しぶきを浴びながら怒鳴っていた。船はもういたるところが砕け散り、海水が流れ込んできていた。雷もなり、大嵐で足元もおぼつかない。その上、目の前には怒り狂った巨大なイカがいる。リョウヤはごくりと生唾を飲み込みながら次のページをめくろうとしていた。その時、リョウヤの頭に何かが当たった。
「いたっ!」
そう言うと同時に頭を押さえた。飛んできたのは、ボールだった。遠くから声がした。
「あー、わりーわりー。ごめんな」
その声を聞いてリョウヤはうんざりした。ガキ大将の、大道ヒデトだ。小麦色に日焼けした肌に白い歯を見せて笑いながら、彼は駈け寄ってきてボールを拾った。
「睨むなよ。わざとやったわけじゃねーんだから」
口をとがらせて彼はそう言った。リョウヤは本に目を戻しながらそっけなく言い放った。
「ボール遊びは外でしてよ」
ヒデトはばつが悪そうな顔をして鼻をならしたが、それ以上何も言わずに他の男子を率いて教室から出ていった。それを横目で確認したリョウヤは、ため息をついた。再び本に集中しようとしたが、もう船長も化け物イカの姿も現れることはなかった。リョウヤは再びため息をつくと、本をランドセルにしまい、それから教室を出た。
下駄箱で靴を履き替えて外に出ると、夏だと言わんばかりの日差しがリョウヤを照らした。蝉の大合唱は耳をつんざきそうだし、吸い込む空気はモワッとしていた。歩き出す前に汗が噴き出るほど暑いのに、校庭ではヒデト達が元気いっぱいにドッジボールをしていた。
「おいパスしろ、パス!外野に回せよ!」
ヒデトがコートの中心で誰かに向かって叫んでいる。その向こうでは小柄な男の子が両手を上に伸ばしながらパスを待ってぴょんぴょんと跳ねていた。リョウヤはそんな彼らからすぐに目を離したが、ヒデトはリョウヤに気がつくと大声で呼んだ。
「おい潟柿!お前もたまには入れよなー!」
むすっとしながらボールをリョウヤの方へと投げてきたヒデトだったが、リョウヤがボールを転がして返すと更にむすっとした。
「僕はいいって」
ぼそりと言ったその声が彼に聞こえるはずもないとリョウヤは思ったが、どうやらヒデトには聞こえている様だった。けれど彼はぱっと笑顔を見せた。怪訝に思ったリョウヤは思わず首をかしげたが、すぐに納得した。リョウヤの後ろの職員室の窓から、体育の小林先生が顔を出していたのだ。ヒデトは目立ちたがり屋だ。それに先生に構ってもらえるチャンスには喜んで飛びつくことをリョウヤは知っていた。
「お前ら、あっついのによく遊ぶなー。水分補給、しっかりとれよー!」
半ば呆れて半ば感心するようにそう呼びかける先生を、ヒデトが呼んだ。
「せんせー!せんせーもやろーぜ!」
小林先生は苦笑いしながら手を振った。
「あー、だめだめ。先生、忙しいから。テストの採点とか明日の授業の準備とか、いろいろあるの。なによりあっちぃし」
もちろんそんな事でヒデト達は引き下がらない。
「えー。いいじゃん!ちょっとだけ!」
小林先生はめんどくさそうにうなだれたが、まんざらではない事をその場にいた児童みんなが知っていた。
「ったくー。しょうがねえなあ。じゃあ、ちょっとだけだぞー。ほら、待っとけ。今から行くから」
「っしゃーーーー!!!!」
児童達の歓声を浴びながら小林先生は職員室から出てきた。靴のつま先をとんとんと地面にぶつけ、それから体育の先生らしい準備体操をしてみせた。ふと、隣で事の成り行きを見ていたリョウヤに気づいた彼は、肩をすくめた。
「なんだ、潟柿。お前も行こうぜ」
当たり前のようにリョウヤのランドセルをぽんと叩いて、一緒に校庭まで行こうとした小林先生だったが、リョウヤはぶんぶんと頭を振った。
「やらないのか?」
リョウヤが答える前に向こうからヒデトが答えた。
「潟柿はやんないってー。せんせー早く来てよ」
「え?ああ、なんだ。そうなのか。まあ、あっちいもんな。潟柿、気をつけて帰れよ。お、それとも残って先生のウルトラスーパープレーを観戦していくか?」
小林先生は自信満々そうに肩を回したが、リョウヤは苦笑いをして断った。この学校にいるみんなが、小林先生が以前自身のその“ウルトラスーパープレー”で職員室の窓ガラスを見事に割ったことを知っていた。
先生も加わり、背後の彼らの叫び声にはより一層熱がこもった。リョウヤは首筋や額から汗が流れるのを感じながら、一人で蜃気楼の中を歩きだした。波の音が聞こえる。それもそのはずだ。学校のすぐ隣が海だからだ。なのでリョウヤはそのまま浜辺に向かった。先程読んでいた物語の海とはだいぶ違う、穏やかな海が目の前に広がっていた。それは夏の絵葉書の題材にもなるような海だった。カモメが飛び、空には大きな大きな入道雲があった。