世界を広げる方法は
緞帳のように宵闇が世界を包む。
街の一角にキラキラと色を変えながら浮かぶ光は、まるで無数の雫……それは遠目に見た夜会の姿。夜会会場となっている邸宅の中は煌々と灯りに照らされ、シャンデリアのクリスタルガラスが夏の昼間の光のように反射し、強く輝いていた。
絶対君主制だった昔とは違い、今や王の存在は象徴に過ぎず、国は議会で回っている。
それでも上流階級は存在し、夜会は社会的地位の証明でもあった。
名ばかりとなってしまった爵位だが、その称号を欲する者も多くいる。称号は格式とステイタスであり、公ではないが、既に金銭での譲渡も行われていた。
時代は変わったが女性の地位は低い。政略結婚は形を変えて存在している。
例えば称号の譲渡の為、売り渡す行為のような。
ローラ・アトキンスもそのひとり。
彼女はフロックハート元・子爵家の長女である。『子爵』の称号を譲渡するためにアトキンス家に嫁がされていた。
「──きゃっ! なにをなさるのです?! ローラ様ッ!!」
「…………」
ローラは勝手にワインをドレスに引っ掛けて自分のせいにする女を、興味無さげに見やる。茶番劇の中の茶番劇など、どうでもいいことに過ぎない。
女に駆け寄った自分の夫がなにか喚くのを無視し、背を向けてホールから出た。
──全く馬鹿馬鹿しい。
付き合ってやる気には到底なれないし、それが賢い選択だった。
ただでさえ『金で称号を買うこと』を嫌悪する人間も多いというのに、よく公衆の面前であんな茶番劇に及べるものだ。しかも結婚してからまだ三年も経たないというのだから、呆れてものも言えない。
そもそもこの夜会に呼ばれたのは、フロックハート時代のローラの縁故からだ。珍しく行くと言った夫が『幼馴染』と称する女をエスコートして別の馬車に乗った時には、頭の中味が藁ででもできているのではないかとローラは本気で疑った。
ローラは28になる。彼女が25まで結婚しなかったのは、爵位を売るためにとっておかれたからだ。
領を持つ程力を持った貴族は、ほんのひと握り。勿論フロックハート家に領などとうの昔になく、名残としていくつかのファームを経営している。
だが、その経営状況も芳しくはなかった。
一念発起した父が、山師のような男に唆され事業に手を出した時も、ローラは必死で止めた。しかし父は娘の言うことなど歯牙にもかけないどころか、ローラを失敗した時の『保険』として残しておいたのである。
その結果がアトキンス家のお坊ちゃま、ジェームスとの結婚。
先代の強い意向から夫となった4歳年下の男には、ずっと想い人がいるらしい。抗いきれずに結婚しただけだったのだろう。夫は殆ど家に帰ることはなく、帰っても一度も閨を共にしたことはない。だがそんなのは、端から見たらわからないことだ。
このままいけば『石女』として離縁されるか、相手女性に子ができ離縁するかだろう……そんな風に考えていたローラは、いつでも出ていけるよう荷も纏めていたというのに、これだ。
人目のつかない中庭の中腹あたりまで歩き、ローラは独り言ちる。
「はぁ……馬鹿馬鹿しいにも程があるわ」
「全く同意だね」
予想だにしなかった返事に声の方へ顔を向けると、小さな東屋。金属製のガーデンテーブルに置いたボトルワインを手酌で飲んでいる男がいた。
40も半ば……くらいだろう。
年齢の割に服の上からでもわかるしっかりとした体躯のせいか、派手な風貌ではないのに妙な色気がある。
「飲むかね、お嬢さん」
「お嬢さんという歳でもありませんが」
「私にしてみればお嬢さんさ」
どこか小馬鹿にしたような男の言葉に、抑えるのに慣れた筈の本来の気性で答えてしまったが、今更取り繕う必要もない。
「……頂きます」
そう言って名乗ることも無く空いてる椅子に腰を掛けた。
男は小さく笑うとテーブルの鈴を鳴らし、現れた使用人にグラスを持ってくるように申し付ける。人を使うのに慣れているな、とローラは感じた。
身なりも地味だが良い生地で拵えの良い物。くだけた感じだが、品と余裕がある。高位貴族なのだろう。人の邸宅での自由気ままさといい、場馴れした雰囲気を感じる。
高位貴族は数える程度。目の前にいるのが誰か大体予測はついたが、男はおそらくそれを望んでいない。敢えて名乗らないままにして、男の名前を聞くのも控えた。
(──嫌だわ、相手を値踏みするような)
日々の生活の中で、碌に家にも帰らない夫の代わりに家で来客の対応をしなければならなかったローラについた癖。この場でもそうしてしまった事を恥じたが、先の答えは正解のようだ。男は機嫌よく「虚栄ばかりの夜に」とグラスを傾ける。
ローラはそこで久しぶりに自然に笑った。
「こちらにはお一人で?」
「ああ、家人が行けと煩くてね。 今更こんな夜会などさしたる意味もない、と言ったんだが……君は?」
苦々しげに笑うと男はワインを飲み干した。どうやら中での騒ぎなど全く知らないようで、悪気なく話を振る。ローラも苦笑しながら空のグラスにボトルを向ける。
「ああ、やめてくれ。 そんな真似をさせたい訳では無い」
「はしたないですか?」
「私はそうは思わないが、そう思う、古い人間もいるだろう。 面倒だから手酌で充分だ」
「面倒……手酌……」
なにを言っているのか──最初はそう思ったローラだが、そもそもボトルをキープしていること自体の可笑しさに気付き、噴き出した。淑女としては失格だとわかっているが、笑いが止められない。
「……そんなにおかしいかね?」
可愛いらしく小首を傾げる仕草が、全く似合っていなくてまた笑う。
「うふふ……ええ、とても」
「君はよく笑う女性だな」
「……そうでもないですよ? 久しぶりにこんなに笑いました」
「それは驚きだ」
「失礼、淑女にあるまじき行為でしたね」
「朗らかでいいさ。 君の笑顔はなかなかいい」
結婚前からずっと被り続けていた淑女の皮はすっかり剥がれてしまったが、それが心地良かった。
馬鹿馬鹿しいのは自分自身もだ。
今更だと思いながら、どこまでも茶番劇の与えられた役に徹していたのだから。
ゆっくりとグラスを傾け、月明かりに照らされる庭の花を眺めた。今なにが咲いているのかすら、ここ数年気に留めたことなどなかったことに、薄い唇が歪む。
これからフロックハートに戻ったところで先はない。今度は安く買い叩かれるのを待つだけだった。
何故そんな人生に抗おうともしなかったのか。
──今更?
……いいえ。
ローラは小さく頭を振った。
「アディンセル卿」
目の前の男は少し瞠目したが、動じはしなかった。しかし嫌そうに眉を顰める。
「……なんだね」
──コンラッド・アディンセル侯爵。
先の内乱で騎士としても活躍した武人でもある。
ローラは立ち上がり恭しく淑女の礼をとるが、自らは名乗らないまま言葉を続ける。
「申し訳ございません。 不躾なのは承知でひとつだけ質問をお許しください」
頭を下げたままなので、表情は見えない。しかし小さな溜息のあと「言ってみなさい」と、教師のような言葉が続いた。そこに呆れは感じたが、先程のようなあからさまな不快感は感じられなかった。
「侯爵家で人員に空きはございませんでしょうか。 例えばメイドなどの」
「…………ん?」
「……」
「……」
「……」
(ああ、私、なにを言っているのかしら)
ローラの脳内は妙に冷静でありながら、気持ちは揺れていた。馬鹿馬鹿しいことから抜け出したつもりで、やっていることはあまりに馬鹿馬鹿しい。しかも矛盾が生じている。
形振り構わず状況を変えたい気持ちも事実。だが名を名乗り、事情を話して同情を引くのは嫌だ、というのもまた事実だった。
「──お嬢さん、とりあえず顔を上げて座りなさい」
暫しの沈黙の後、コンラッドは苦笑混じりにそう言う。顔を上げると実際、彼は微妙な表情で笑っていた。
「君、世界は広いと思うかね?」
「え……」
ローラはコンラッドの質問に面食らった。
だが、それが彼の気遣いだと気付くのにそう時間は掛からなかった。
「──広いのかもしれませんが、狭いです」
「そうだろうね。 世界はいつだって理不尽で不自由だ。世界を変えるのは難しい」
「……ええ」
「だがね、お嬢さん。 ほんの少しだけなら世界を広げるのはそう難しいことじゃない」
俯きかけた顔を上げる。
初めてちゃんと彼の顔を見た。
ロマンスグレーとは程遠い、武人らしい精悍な顔つき。額にうっすらと残る傷跡。
「そして、広がれば視点が変わる。 世界は変わってなくても違って見える」
そこで会話は中断する。
「──まあ、ローラ! こんなところにいたのね?!」
「シンディ…………」
この夜会のホストである、マート家の妻君シンディがローラを探しに来たのだ。シンディはローラの友人で、姉のような存在でもあった。彼女の登場に、ローラは先の出来事を丁寧に詫びた。
先に止めても聞かないことはわかっていたし、こうなることも予測はしていた。せめて一番揉めずに済む方法をとったつもりだが、放置したことにも変わりはない。
「ごめんなさい、こんなことなら来るべきではなかったのだけれど」
「いいのよ、私の方も受付に厳しく言うべきだったのだから……あの方は招待状がないことを理由にお帰り頂いたわ。 旦那様も……息抜きに楽しんで欲しかったのに、こちらこそごめんなさいね」
「いえ、お陰様で楽しく過ごさせて頂いたわ」
そう言って、ローラはコンラッドの方を向くと再びカーテシーをとった。
「……アディンセル卿、今夜はありがとうございました。 それでは御機嫌よう」
「アディンセル卿!? ……嫌だわ、私ったら気付かずに……あっ、ローラ?!」
「お嬢さん」
「!」
足早にその場を後にしようとするローラに、コンラッドが声を掛ける。
振り向かずに足を止めた。
「世界を広げるのならば、必要なのは、ほんの少しの勇気と覚悟だけだ」
振り向き再び軽く頭を下げ、歩く。
どうしようもなく胸が高鳴った。
『自分がどうしたいか』──今まで考えてもみなかったことに気付いて。
そこからはなにもかも早かった。
家に着くなり喚く夫を無視して、宛てがわれた自室に戻るとローラは着替えを済ませ、纏めておいた荷物をクロゼットから取り出した。次に引き出しから予めしたためておいた手紙と一枚の紙を出す。
扉を開けると待ち構えていたように夫がやってきた。
「ローラ! 君は自分の役目を……ッ」
「貴方のお望みはこちらでしょう。 今夜は十二分にご活躍してくださいましたから、御褒美に差し上げましてよ」
そう言って自分のサインの入った離縁状を突きつけた。
「妻としての役割は終わり。 さあ、サインを」
今までなにをしても、ただ寡黙に従うだけだった妻の不遜ともとれる態度に、ジェームスは怯んだ。
「なにを躊躇することがあるのです。 これで晴れてミアンダ嬢を妻にお迎えできましてよ」
「……外聞というものがある」
「あら、申しましたでしょう。 貴方は今夜十二分に活躍された、と。 もう今更引き延ばしたところで余計な詮索を生むだけです」
「…………」
困惑を隠さないままジェームスがサインをすると、ローラは奪うようにそれを取り、しっかりと懐に入れる。
「これは明朝私が神殿へ提出致します。 間違いがあっては困りますから。 フロックハートの方には早馬で手紙を送りますので、こちらにもサインを」
差し出した封筒を前に、ジェームスが吐いたのは意外な言葉だった。
「……君は、それでいいのか?」
「! …………ジェームス様」
先にも述べた通り、ジェームスとローラの婚姻は、アトキンス家先代当主の圧によるものだ。
確かに坊っちゃまは家の思惑に巻き込まれたのかもしれないが、こちらもそれは変わらない。数々の酷い振る舞いを忘れてはいないし、今夜はいい大人があんな品位と知性の疑われる陳腐な方法で、一応は妻である自分を嵌めようとしたのだから許せる筈もない。
ジェームスの表情は微妙で、ローラにはその複雑であろう心を理解することはできない。してやりたいとも思ってはいなかった。──だが、そこに含まれる僅かな気遣いに気付いてしまった。
彼は彼なりに悩んできたのかもしれない……フト、そんな気持ちになる。
彼の非は拭えない。しかし自分も夫となった男の顔に、こんな風に向き合ったことはなかった。
自分の気持ちを吐露することも、また。
……きっと自分にも非はあったのだ。
ローラは少しだけ瞼を閉じて、ゆっくりと開く。
今抱いた小さな気持ちを大切にするように。
「──世界は変わりません。 でも……視点は変えられます。 貴方も、私も」
「……君のそんな笑顔を見るのは初めてだ」
そう言ってジェームスはひとつ、溜息とも深呼吸とも言えないような息を吐くと、丁寧にサインをしローラに渡した。
そのまま立ち去ろうとする彼女がカーテシーをとると、引き留めて執事になにかを持ってこさせる。
「これを」
「……ジェームス様」
袋の中には金子が詰まっていた。平民ならば3ヶ月は生活出来るほどの。
「こんな日の為に貯めておいた。 ……少ないが足しにしてくれ。 今夜は街の南にあるエルドラドというホテルに泊まるといい。 この家には、居たくないのだろう?」
「……お心遣い、感謝します」
──狭い世界でただ足掻いていたのは、自分だけではなかったのだ。
彼も私も、きっとほんの少しの勇気と覚悟が足らなかっただけ。
「これからどうするつもりだ?」
「わかりませんが、フロックハートには戻らないと思います」
「そうか……」
それは意外にも円満な別れだった。
馬車に乗るローラを見送りに出たジェームスに、心から「お幸せに」と告げれたことに、彼が小さく「今まですまなかった」と告げてくれたことに、わだかまりが少し解けるのを感じた。
ジェームスから餞別を貰うのは想定外だったが、お陰でこれからの道を模索する期間に少し余裕ができた。彼に告げた通り、もうフロックハートに戻る気はない。
ホテルは一流で、部屋に風呂も付いていた。
湯を張りゆっくりと身体を沈めると、今夜の出来事が目まぐるしく思い出される。
(……思ったよりも疲れていたのね)
ベッドに横たわると身体が重く感じた。
それは悪い気持ちではなく、どこか達成感に似ていてローラは笑いを漏らす。
まだなにもしていない。
ただ……ほんの少し世界が広がっただけ。
──翌日。
ジェームスは気を利かせ、朝食の手筈まで整えてくれていた。好意に甘えることにし向かった宿のレストランで、コンラッド・アディンセル侯爵に再会したのは全くの偶然である。
通常特別な場以外でカーテシーはしないが、それに似た感じで軽く挨拶を行うと、席に呼ばれた。躊躇いもあったが、従うことにした。
「……事情はマート夫人から聞いたよ。 離縁するつもりかね?」
質問には答えずに苦笑するだけのローラに、コンラッドは言葉を続ける。
「不躾ですまない。 私は侯爵というより軍人でね。 まだるっこしい会話は得意ではない」
さして気にしてない感じで謝るコンラッドの率直さに、ローラはまた可笑しくなって表情を緩めた。
「では昨夜は随分気を回してくださったのですね?」
少し照れたように、バツの悪そうな顔をした彼に「この後神殿に参りますの」とだけ答えると、何故か付添人として申し出られた。
この国での婚姻契約の管理は神殿を介し、神殿に書面が届けられた時点で事実上契約は成される。しかし、神殿は介しているだけなので国として正式な受理は時間がかかり、大体ひと月程してから控えが郵送されるのだ。
不文律ではあるが、付添人が有力者の場合受理を早めることが可能だった。……当然、裏金的な寄付金は必要となるが。
勿論この申し出に、ローラは困惑した。
そこまでやってもらうどころか、全く義理はない。しかしコンラッドは「これも縁だ」と強引に神殿まで送る約束を取り付け、神殿ではなし崩し的に付添人としてサインと寄付金を差し出した。
慌てて止めたがもう、時既に遅し。
「何故こんなことなさったんです……」
「後悔しているのかね?」
「いいえ、それとは別の話です」
「ならばいい」
「…………」
話が通じない。ローラは呆れた。
「さて、君の用事はこれだけか? 私は君に用事があるのだが、時間の空きはあるかね」
「……ないと答えたらどうされます」
「待つさ。 ホテルの延長を……」
「いえ、大丈夫です!」
わざわざ延泊をしようとするのを慌てて止める。今度は間に合ったが、慌てさせられてばかりである。コンラッドの方は慌てたローラを意に介さないようで、精悍な顔つきで子供のようにキョトンとしている。
(高位貴族ってこうなのかしら……)
強引で自分勝手な振る舞いにも見えるが、特に善意を押し付けた感じでもなく、当然ながら、そこに悪意もない。ただただマイペースなのだろう。
なんだか毒気を抜かれてしまった。
脱力感と共に連れて行かれた先は、『王室御用達』の高級菓子店。二階はゆったりとしたカフェテリアになっていた。
「珈琲は飲めるかね?」
「はい」
コンラッドは行き付けているらしく、給仕に「彼女にも私と同じものを」とだけ頼む。一杯いくらするのか気になりながら、深い琥珀色の飲み物を一口だけ口にした。
「──昨夜、『侯爵家に人員の空きはあるか』と尋ねたが、まだその気は?」
「……! 雇ってくださるのですか?」
「ああ、君さえ良ければ。 ただし、メイドじゃない」
「なんでも精一杯勤めさせて頂きます!」
「なんでも……?」
その言葉にコンラッドは眉を顰め、ため息をひとつ吐く。
「賢しいと思っていたが……君は少し、世間知らずなようだ。 いいかい? 契約はしっかり確認して行うものだ」
「……」
なんとなく釈然としないが確かに正論ではある。少しイラッとしたが、素直に謝罪し改めて話を聞かせて欲しいと求めると、コンラッドは満足そうに頷き珈琲を啜った。
黙したまま懐からテーブルへ、一枚の紙。
それを見たローラは危うくカップを落としそうになるほど狼狽した。
「空きがあるのはそこでね」
「…………ご冗談でしょう?」
「私は冗談は好まない」
──婚姻契約書。
つまり、この国の婚姻届である。
「別に蹴ってもいい」
ローラはコンラッドの正気を疑い、一瞬眩暈がしたが……彼の言葉に態勢を立て直す。暫く無言で書面を眺めた後、コンラッドの顔を見つめた。
本人も言った通り、巫山戯ているとは思えないが、およそ恋愛的なものも感じ取れない。
再び書面に目を移し、持ったままになっていたカップに気が付いてゆっくりとソーサーの上に置いてから、尋ねた。
「条件はございますか?」
その質問にコンラッドは破顔する。
「やはり君は賢い」
条件は『侯爵家の妻』一通りの役目。
閨を含めた夫婦生活は、侯爵家内を含む表向き、良好に見えればいい。
相手に必要以上のことを求めないこと。
──つまり、内外ともに『妻』として認められる『飾りの妻』が欲しいのだ。
コンラッド・アディンセル侯爵は、夜会が好きではない。
前時代の遺物であり、無駄な散財であると考えている。付き合いや商談を兼ねるのであれば、小さなサロンの方が遥かに有意義だと思う。華やかな夜会には無関係な人物が多く、十二分に人脈のあるアディンセル侯爵家にとっては不要。ノイズでしかない。
──筈なのだが。
「旦那様、いい加減になさってください」
20年前に起こった北部での内乱に騎士として活躍した彼は、婚期を逃していた。5年ほど続いた内乱が終わり、復興の支援に更に5年。しかしその後領地に戻っても、ズルズルと独身でい続けるコンラッドに、家令のランドルフはすっかりお冠である。
上流階級も上流階級のアディンセル侯爵家だ。ほぼ称号など名ばかりとなったとは言え、できればそれなりの女性を迎えたいが、この当主は46になっても見合いを嫌がる。
『せめて夜会には顔を出せ』というのは家令として当然の主張だった。
コンラッドは別に枯れてはいないが、正直なところ女性は面倒で仕方がない。
好きな事を好きにやってくれればいいのに、いちいちなにかを求めてこられるのは、窮屈……彼は恋愛向きではないし、家庭向きでもない自覚があった。
仕方なく赴いた先の夜会で、ホストに挨拶を済ますと早々に時間潰しにかかった。
いちいち使用人を呼ぶのは面倒なので、ボトルを用意させ、人の少ないところへ移動する。コンラッドの常套手段である。
そこに現れたこの場に不満気な女性に声を掛けたのはほんの気紛れだった。
なによりもランドルフに言い訳がたつ。
そして、それは悪い判断でもなかった。
短い時間の大した意味もないやりとりだが……自分に対し余計な詮索もせず、気も使わせない。おそらく自分が何者か見当はついているようなのに、萎縮することも媚びることもなく、適度な距離を取りながらも遠慮なく笑う姿には場が華やぐように感じていた。
──コンラッドがローラに好感を抱いたのは事実である。
ただ、それ以上の気持ちは現時点、特にない。
あるのは互いの状況への認識と、利害の一致。
「……馬鹿馬鹿しい茶番劇の後に、また馬鹿馬鹿しい茶番劇の舞台に、役者としてお誘い頂けるとは思ってませんでしたわ」
「悪くない条件だと思うが、君の希望も聞こう」
「ではまず……」
そう言ってローラは婚姻契約書をツ、と彼の方に寄せて返した。──だが、それは契約を拒む意思ではない。
「婚姻は早すぎますわ。 舞台に設定はつきもの……小芝居は必要でしょう」
「──ほう?」
悪巧みをする少年のようなコンラッドの表情に、ローラも子供のようにワクワクする。どうせ馬鹿馬鹿しいなら、楽しめる方が良い。
その後ローラをホテルに残し、コンラッドは領地へと戻った。
困ったような瞳で見送るローラの手の甲に、コンラッドは切なげに唇を落とす。……新たな舞台の幕はもう上がっていた。
この後領地へ戻ったコンラッドは、ランドルフに「気になる女性ができた」ことを匂わせに匂わせた後、尋ねられてから「離縁が決まったばかりで相応しくないと断られたが、諦められない」旨を告白。
彼は彼女を説得し、どうあっても三ヶ月間はホテルに泊まり自分の連絡を待ってもらっている。ローラと夫であったジェームス・アトキンスに情はずっと前からないようだが、彼女はコンラッドの想いを信じてはいない。誠意を見せる為、三ヶ月後に再び想いを告げると誓い、彼女が落ち着くのを待って連れ帰るのだと言う。
ランドルフはあまりに出来すぎた話に疑いの目を向けたが、あれだけ筆無精だった当主が三日と空けず、いそいそと手紙を書く姿を見て考えを改めたようである。
これが小芝居だとは、誰も思わなかった。
ローラは『彼女に一目惚れして溺愛したがる侯爵様』との約束の為にホテルから出られないので、その分アディンセル侯爵家や領地について必死で学んだ。
全身の手入れも怠らない。ただし、服装や化粧はなるべく華美にならず、毅然として見えるように心掛けて。
そして舞台第一幕、クライマックスの日。
ホテルの中庭でのコンラッドのプロポーズ。
それを受けて、恥ずかしそうに馬車に乗り込むローラ。
三ヶ月……大切な彼女を侯爵様から預かっていたホテル側から、祝福の花束が贈られた。
にこやかな笑顔の裏で、ホテルから馬車が遠ざかると二人はグッタリしつつ、爆笑した。
「……コンラッド様、一先ずお疲れ様でした」
「ああ、ローラも」
「でもまだまだこれからですよ、領地に戻れば第二幕の幕開けです」
「第二幕か……なかなか上手いことを言う。 ふむ、さしずめ今は幕間というところか」
うふふ、とローラは笑う。
『冠になってくれないか、私の月桂樹』
プロポーズの言葉を思い出して、またクスクスと笑った。
──あの日彼女は尋ねた。
「もともとこんな計画があった訳ではないですよね? 失礼ですが随分と杜撰です」
加担すると決めたローラに、もう遠慮などはない。コンラッドはそれに愉快そうに答える。
「これは私が戦場で得た持論だがね、いい風には乗る。そのタイミングを逃してはいけない。 理由は後からいくらでもつけられる」
「……なるほど?」
「君の印象は良かった。 聞けば利害も一致する。 なにより名前がいい……勝利の象徴だ」
「まあ! そんな理由ですの?」
ローラの呆れた顔を見て、コンラッドは軽快に笑った。
「案外決め手はそんなものさ」
あの時から決めていた。
『名実共に彼の妻になる』と。
この胸の高鳴りをなんと呼ぶかはわからない。
ただのくだらない意地かもしれないし、妙な対抗心かもしれない。ある意味で、またひとつの世界に閉じ込められたことへの。
だがもう彼女は知っていた。
向き合うことを恐れなければ少しだけ、世界は広げられる。
必要なのはほんの少しの勇気と覚悟だけだ。
コンラッドの視線に気付き、ローラは顔を上げる。
「──どうされました?」
「ん? いや……君の笑顔はなかなかいい。 あの夜も言ったがね」
「貴方の前でだけです」
シレッとそう答える。それに予想していたよりも、コンラッドが強く動揺を見せたことには気付かないフリで、ローラは小首を傾げた。
「……あの夜も言ったような?」
「……いいや、そうは言ってなかったな」
「ふふ、そうだったかしら」
舞台はまだ序章に過ぎないが、一旦は幕を閉じた。
この後コンラッドの役どころである『彼女に一目惚れして溺愛したがる侯爵様』が事実となっていくのは……また別のお話。
ざまぁを書こうと思ったら、全くそうならなかった件……