【完結】冬の夜に鵺が鳴く
ぴー……ぴー……ぴー……
断続的に続く音から、逃れるように私は掛け布団を鼻の上まで引っ張り上げた。布団から出ていた鼻や耳がひりひりと痛い。ヒーターの消えた冬の夜は凍死しそうなほど寒くなる。私の家は古く断熱材なんてものは入っていないからだ。
何の、音だ? 冷蔵庫の開放アラームか? 私は寝ぼけた頭で発生源を推測する。
今日は特に冷える。開けっぱなしにしておいても変わらないだろう。無理やり自分を納得させ、また眠ろうとした。
本当にそうか? アラームは、こんなに長い時間、鳴り続けない。
……外からだ。小さく、高く。音が聞こえる。
ぴー……ぴー……ぴー…
機械のように一定で、何とも偏執的。しばし思考を巡らせ、私はスマホで検索することにした。
どうやらこれは、とらつぐみという鳥の鳴き声のようだ。一説では鵺という有名な妖怪の正体とされる。
なるほど。納得の不気味さだ。
他の事をしていればきっと気づかないような小さな鳴き声。だが、一度気づいてしまうと、決して頭から離れない。
ぴー……ぴー……ぴー……
鳴いているのは鳥なのだから。まだ深夜なのだから。明日も仕事だから。たくさんの理由を並べ、布団に潜りこんで目をつぶる。
ぴー……ぴー……ぴー……
だめだ。音が気になって目が覚めた。
一度外に出てみようか。森の奥で鳴いている鳥の姿は見えなくても、どうせ眠れないんだ。ちょっと外の空気を吸ってこよう。
私はパジャマ越しに肌を刺す冷たい外気に耐え、ジャンパーを羽織った。家族を起こさないようにそっと玄関の戸を開ける。
私は一人きりで真夜中の冒険に出かけた。
ぴー……ぴー……ぴー……
しぃん、と静まり返った夜の森の奥から、その鳴き声は聞こえ続ける。鳥だと分かっていても、何とも薄気味悪い。
しかし、耳さえ塞げば私の好きな静かな冬の夜だ。
凍てつく寒さにきらきら輝く根雪と夜空に冴えわたる星明かりが空と地の境を曖昧にする。昼間の地吹雪が嘘のように静まり返り時間すらも眠りについた。私だけの静謐な世界。
神聖な光景のはずなのに、私は道ならぬ恋人との秘密の逢瀬へ向かうような背徳感と劣情にかられる。美しい冬の夜は清いだけではない、抗あらがいがたい、妖あやしい魅力があった。
こちらにおいで。
私を呼ぶ声がした。不思議なことに私は何の疑問も持たなかった。愛しい恋人が私を呼んでいる。
いつのまにか夏の蛍のように美しい光がきらきら、ちかちかと明滅しながら辺り一面に漂っている。
行かなければ。
私は恍惚として、ただその光に導かれるように着いて行く。
その時だった。
グオおォォォウゥォオオオオオオゥオ
突然の風が長く回転する咆哮をあげた。私を誘う眩い光はあっという間に消え去ってしまい、暗闇が残る。暗い鬱蒼とした森から獰猛な肉食獣が襲い掛かってくる恐怖感が私をその場に縫い留めた。
風が雪を呼び私の視界を白く染めあげていく。思わず天を見れば荒れ狂う風が私の髪を翻弄し私はたたらを踏んだ。
巻き上がる雪は礫となって私の全身に降りそそぐ。口や鼻にすら容赦なく飛び込んでくる苦しさに私は咳き込んだ。
うまく息が出来ない。目を開けることも出来ない。
風はいよいよ咆哮をあげ、全てを閉ざす。
地吹雪だ。
早く家に戻らなければ。激しい地吹雪は方向感覚を狂わせ、簡単に人を死に誘う。
家からほんの数歩出ただけだ。このまま戻ればいい。私はじりじりと後ずさりした。永遠のように感じる数歩を経て、私の足は玄関の敷居に躓き、そのまま尻もちをついた。
玄関へと体が入った途端、外の地吹雪はぴたりとやんだ。まるで初めから何もなかったように。全身冷え切っていたが、髪にも身体にも小さな雪すらついていない。
しばらく茫然と座り込んで私はようやく立ち上がった。這うように部屋に戻りヒーターのスイッチを入れる。ヒーターはすぐについて身体は徐々に温まってくる。
気づけばとらつぐみの鳴き声も何も聞こえなかった。
私は確かに何かに呼ばれたのだ。あのままついて行ったらどうなっていたのだろう?
そしてあの突然の地吹雪。
私以外誰も居ないはずだった。なのに私には聞こえたのだ。
まだだめだよ。
もう少しだね。
誰かが囁ささやきあうのが。
それが意味することは分からないし、知りたくもない。今回は突然の地吹雪が私を助けてくれた。でも次は?
私は自分の体を抱きしめながら、いつまでも震えが収まらなかった。
音も人も何もかも飲み込む冬の夜の話だ。
蛇足になりますが、鵺の鳴き声は、とらづくみという鳥です。とらつぐみは冬の夜に1羽で鳴き続けます。また鵺はよくわからない、正体のつかめないものという意味もあります。最初に聞いた鳴き声はとらつぐみだったとしても、後から聞いた話声はいったい何だったのでしょうね。