忘れられない記憶
あれは忘れもしない、小学六年生の夏のこと。蝉の声がやたらにうるさく、耳をつんざかんばかりにそこここらでけたたましく響いていた、蒸し暑い日だった。雨上がりだったからか、湿度がとても高くて、自転車を走らせていたその背中はじんわりと汗ばみ、真っ白なシャツが軽く透けていた。ハンドルの端からはポタ、ポタと、残っていた手汗が雫となって熱くなったアスファルトの上に点々と垂れ、濡らしてはすぐに蒸発して消え去っていた。
「ねえ、キヨ」
海沿い。隣町との境になっている小さな湾を横切るようにかかる、熟れたリンゴよりも赤い大きな橋の下。絡みつくようなその蒸し暑さの中で、せめてもの抵抗というわけではなかったのだが、ちょうど日差しの遮られた場所を見つけ出した俺は、岸壁の向きに沿って整列するビットの上に腰を下ろし、ただぼんやりと釣り糸を垂らしていた。
「・・・何?」
湾内の波はとても穏やかで、崩れ波が押し寄せては岸壁にあたって跳ね返り、後からゆっくりとやってきた次の波とぶつかり合って相殺してゆく。この穏やかさと、数十年前からは考えられない程の水質の良さが相まって、なにやら色んな種類の魚が釣れるのだとか。
釣りに関しては、ずぶの素人だった。知識といったものは何一つ持ち合わせておらず、たまたま家の納屋の中に埋もれていた、死んだ祖父が使っていたという古びてボロボロになったひと振りの竿とその辺から掘り返して捕まえた大量のミミズだけを持って、こうしてやって来たのだった。
「いや、『何?』やないやん!
さっきからずっと話しかけてんのに無視するからぁ!」
「うるっせぇな・・・。
第一、なしてお前付いてきたんや」
しかし、俺は独りで釣りをしているわけではなかった。隣には、同い年の女の子が一人、薄い紫系統の色をした、少し丈の長いワンピースを着ているにも関わらず地べたにペタンと座り込んでいた。
「だって暇やし。
キヨ以外に遊ぶ友達とかおらんし」
彼女――“神岡 鑑奈”は、俺とは小学校入学以来の友達だった。少し天然の入った、内気で人見知りだが仲良くなるとよく喋るようになるという彼女の性格は、どうも周りの同級生たちには受け入れられなかったらしい。
小学生というのは、今になって思い返すと、多感な時期である故に様々なものを受容すると同時に、その選別において「いらない」と判別されたものに対しては思春期を脱するくらいの年齢になって再び選別を行うまで、徹底的に排除する傾向があるように思える。
いわば鑑奈は、「いらない」と判別されてしまったのである。不運だったのは、そう判別し始めたのがクラスの中心人物だったことだった。本能的に人は味方の多い方、勢力の強い方につきたがるため、それがもとで彼女に友達と呼べる同級生はほとんどいなかったのだ。
「おまえなぁ・・・。
もっと友達ほしいとか思わんのかよ?」
「ん~、別に?
私はキヨがいてくれればそれで良かったから・・・」
六年間、この調子だった。いつも鑑奈は独りで読書やらなにやらしており、俺が一人になったところへどこからともなく寄って来て、何をするわけでもなく俺と行動を共にしていた。そのため、二人で遊ぶときというのは俺の方から切り出した場合に限られていた。
彼女は、自分から何かを求めることが無かったのだ。
「お前、いつもそう言って他のヤツらと遊ぶん嫌がるよな」
「やけ、キヨがおったけん・・・」
「そんなんやけ嫌われるんやろうがちゃ。
もっと、その、なんち言うんかいね? あの~・・・あぁ、思い出せん!
なんかこう、自分から行くっち言うかさ」
以前、俺はあまりに独りぼっちでかわいそうに思ったため、鑑奈に自分の仲の良い友達を自分を媒介に紹介したり一緒に遊んだりさせたのだが、友達側はもちろんのこと、鑑奈自身もどうやら望まなかったようで、上手くいったことは遂に一度も無かった。
「・・・・そもそも、じゃあなしてキヨは私と仲良くしてくれるん?」
「あ? そりゃ、出席番号が前後やったんと、最初に話しかけたからっちだけやぞ?」
「え~?
そんなこと言ってぇ、ホントは私のことが好きなんやないと?」
鑑奈は、にやけながらそんなことを言っていた。しかし、当時の俺にとって彼女は本当に恋愛対象ではなかった。元々俺自身が面食いなところもあったのだが、当時の鑑奈は髪も、ロングが好きだった俺の好みに反してショートで、また前髪はヘアバンドで全て上げてしまっていた。上の前歯には矯正器具が取り付けられており、にっと笑うたびにそれが顔を出すのである。顔立ちそのものはそこまで悪くはなかったのだが、本人は一重瞼を少し気にしていた。
しかし一番の問題は、彼女の掛けていた眼鏡であった。生まれつき乱視だったため眼鏡をかけていたこと自体は全くもって気にならなかったのだが、スルーするにはあまりに個性的な眼鏡を彼女は掛けていた。端的に言えば、ダサかったのである。事実、それを馬鹿にされているところも何度も見かけていた。
「え、いやゴメン。マジで無理やわ」
「えぇ~⁉ そんなバッサリ言う普通⁇」
もう少し歳を重ねてからの会話だったなら、もっと返答もマシなものになっていただろう。しかし、たった十二年ほどしか生きていない男子小学生にそんな心遣いができるはずがなかった。
「お前はただの友達やんけ。大体、好きとか嫌いとかまだ早いやろうし、しょーもな」
「・・・・そっかぁ」
そう、この時の鑑奈の顔である。あの表情が、それからしばらくの間俺の脳裏に焼き付いて離れなかった。
へらっと、口端は吊りあげながらもどこか弱々しく、細目になる一方でキュッとしまった瞳孔。眉はハの字形に、眉間の皴をより濃いものとしていた。
すぐに顔を逸らした彼女は、海の向こうに見える隣町のシルエットをぼんやりと見つめながら、そっか、と何度も小さく、反芻するように呟いていた。
「・・・・・」
「・・・・・」
その時の彼女の顔は、もしかしたらとても儚い表情を浮かべていたのかもしれない。あるいは、赤く染めながら、その頬を濡らしていたのかもしれない。今思えば、この時鑑奈は俺のことが好きだったのだ。確信は無いが、それまでの記憶を辿っても、そうとしか思えない。
それでも、この時俺は最後の発言の後の彼女の表情に驚いてしまって、ばつが悪い気持ちになってその顔をもう一度見ることができなかった。彼女を振ったという実感はなかったのだが、どことなく気まずいような感じがしたのだ。
この時ほど、周りの蝉の声がうるさく感じたことはなかった。
「・・・ねえ、キヨ。
私、もう行くね」
「あ? も、もう行くん?」
立ち上がった彼女の方を振り向けないまま、俺は言葉をほうった。
「うん・・・。
だって、今は邪魔せん方がええやろ?」
「・・・まーな」
無駄な意地を張っていた俺は、フォローするということも考えず、鑑奈の言葉に同調した。
「じゃあ・・・、ね。
バイバイ。」
「おー。
また明日な」
結局、最後まで俺は彼女の方を振り返らないまま、別れの挨拶を交わした。気が付けば空に燦々と輝き俺たちを焼いていた太陽は分厚い雲に隠れ、少しだけ暑さが弱まっていた。汗冷えしたのか、俺はくしゃみを一回、背筋にうっすらと悪寒を感じた。
その翌日。何となく気まずいままなのがまどろっこしく感じた俺は、鑑奈の家へと赴いた。しかし、結局神岡家を訪ねることは出来なかった。
彼女は前日の夕方ごろ、俺と別れた後にそのまま関東の方へと引っ越してしまったのである。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
今回の話は、こうして公の場に公開する作品としては処女作となりますので、表現、文言等たいへん拙いものとなっておりますが、どうかあたたかい目で見守ってくださればと思っております。
今後、不定期ではありますが更新していこうと思っておりますので、どうかよろしくお願いいたします。予定では十二話ほどで完結の予定ですので、そこまで長くはならないかとは思います。