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第八話:君に恋をするなんてありえない

 いつも目が合うあのビールの売り子さんの名札には、大きく“じゅんな”と書かれている。感じの良い美少女だ。あの初めて話した日以来、バイトに出る日には常にあの子の姿をどこかに探している。蘭が試合がある日には毎日シフトを入れてくれていたおかげで、あの子と常に同じバイト先で働いているのだと思うと、蘭には頭が上がらない。なんとかして知り合わないと損だと思えてきた。


 そして今日もワゴンの前を左から右へ流れるように歩いていくあの子。俺といつものように目が合い、ちょっと笑って会釈してくれた。これはもしかしたら気があるのではないか、期待値は上がるばかりである。


 今日はいつもよりお客さんが少なく、珍しく休憩所での短い休憩をもらえた。普段はお客さんが途切れることがないので、今まで一回も休憩したことはなかった。チームの成績が悪いとお客さんの数も減るから、自動的に仕事も少なくなる。それと同時に徐々に仕事を覚えてきていた俺は、始めたての頃よりも手際が良くなっており、それほど疲れることもなくなった。体力が有り余っているのに休憩にいかせてもらうより、一番しんどいときに休憩に入れさせてもらえたら良かったのに。なんだか損した気分。


 休憩所は長机にパイプ椅子が並んでいる会議室のようなところで、窓がないためどこか閉鎖的だが、かすかに歓声が聞こえてくるためかろうじて球場にいるという感じを失わずに済む。休憩時間は合計でも三十分しかないが、この三十分の間にもしあの“じゅんな”ちゃんがここに来てくれたら。もしかしたら話す機会があるかもしれない。


 しかし現実はそう甘くはない。スマホをいじって飲み物を飲むことくらいしか出来ない。何をしに球場に来たのかわからなくなるくらい余力があり余っている。どうせ検索するのは今この扉の外でやっている試合の状況か、他球場の情報か、それくらいだ。イヤホンを持ってきていれば動画サイトでいくらでも蘭の動画を見たり出来たのに。


 そう思った矢先、数人の売り子さんが休憩にやってきた。膝にはサポーター、重たいビールサーバーを背負っていないのがなんだか不自然に見える。そのなかにあの子を探すが、見つからなかった。休憩時間残り十分となって、いよいよ気持ちを入れ直さないとと思った矢先、別のワゴン販売のスタッフが部屋を出ると同時に売り子さんが入ってきた。手にはスマホとイヤホン。名札には大きく“じゅんな”と書かれている。あのじゅんなちゃんが入ってきてくれたのだ。


 じゅんなちゃんは俺とは近からず遠からずのところに座り、イヤホンを耳に入れてじっとスマホの画面と対峙している。俺は休憩室にいる約六人の他人を細かくチェックし、彼らにばれないように気配を消しつつじゅんなちゃんの視線にちょうど入るか入らないか微妙なラインにある席に座った。


 相変わらずスマホにしか視線が向かないじゅんなちゃん。俺の休憩時間は残り五分。そろそろ出ないと間に合わない。今日はダメだったかと席を立った瞬間、俺の脚が長机の脚に当たってしまい、ガタッとずれて、その衝撃でじゅんなちゃんの手元が少し動いた。あ、すみません。そう言うとほぼ同時に一瞬でじゅんなちゃんと目が合う。その一瞬から、まるでじゅんなちゃんと俺の視線がちょうど一直線で繋がり、どう顔を動かしても繋がっているような、そんな感覚に陥った。


「あっ、どうも」

「あ、あのときは、どうも」

「いえいえ……」

「あ、えっと……じゃ、行ってきます!」

「あ、はい」


 あと三分は話せたのに、俺はどうすれば良いのか分からなくなって、その場を飛び出した。覚えていてくれた。俺のことを覚えていてくれた。それだけでも嬉しくなって、スキップに近い大股でワゴンに戻り、またいつもの作業に戻った。一言や二言だけの会話だけど、一瞬だけでも接点ができた。俺にとっては大きな一歩だった。


 バイトが終わってポーチにお釣りをしまい、鍵と一緒に受付に持っていく。無愛想なマネージャーに判子をもらって、球場を出ようとしたその瞬間。搬入口の近くでロッカー使用を待っているじゅんなちゃんと偶然遭遇した。じゅんなちゃんは俺に気付くと、すぐさま声をかけてくれた。


「あ、どうも」

「お疲れ様です」

「お疲れ様です。よく目が合いますね」

「じゅんなちゃんも目があうこと、気づいてくれてたんだ」


 頭の中にあったことが予想外にもそのまま口に出してしまった。いきなりじゅんなちゃんだなんて失礼じゃなかろうか。


「もちろんですよ。絶対毎回あそこのワゴンですもんね」


 意外と呼び捨てには抵抗がないらしい。仕事中ビールを買うお客さんからいつもそう呼ばれているから抵抗がないのか。またはただ単にスルーしただけか。しかしそれはともかく、無理やりシフトを入れてきた蘭に、今は感謝しかない。蘭のおかげで今俺はじゅんなちゃんと話せているのだから。


「実は知り合いにじゅんなちゃんみたいな売り子さんがいて、その人にこの仕事紹介してもらったんだけど、無理やり全試合のシフト入れられちゃって。今はその人もうやめててなんかユーチューバーやってるんだけど……」


「え、それってもしかして蘭ちゃん?」


 まさかの反応だった。じゅんなちゃんが蘭を知っているなんて。確かにバイト先に友達がいても全くおかしくはないが。蘭つながりだなんて、まさか運命の出会いなのではないかとも感じた。


「そうだけど……知り合い?」


「そうですよ、蘭ちゃんものすごく体力もあるし美人さんで人気があるから売上一位とかになったこともあって。何回かコツとか聞いたけど、体力つけるために走ってるとかスクワットしてるとか、この人ガチだなぁってみんなの間ですごく噂の子でしたよ」


 どうやらじゅんなちゃんは蘭が元野球部であることを知らないようだ。ということは元男だったということも知らないのだろう。そこには触れずに、楽しい会話を続けた。


「で、蘭に無理やり研修やらされて、そのまま現場に出されたっていう感じ」


「蘭ちゃん強引だなぁ。蘭ちゃんらしい。あ、空いたみたいなんで、そろそろ行きますね」


「あ、うん、またね!」


 ただ順番待ちをしていただけだというのをついつい忘れていた。時間も忘れて会話に夢中になれるなんて、もしかして相性が良いのかもしれない。期待は膨らむばかりだ。


「あ、そうだ……あのっ!」


 その場を離れようとした瞬間、じゅんなちゃんの声が聞こえたので声の方を見ると、ひょこっと顔を出しながらスマホを振っている笑顔があった。


「連絡先、交換させてもらっちゃってもいいですか?」


「えっ」


 これは思わぬご褒美だ。不自然なほどすんなり連絡先をゲットし、またその場で分かれた。その間だいたい一分足らず。こんなにすんなりいけるものなのかとしばらく固まってしまった。女子の連絡先を女子から教えてくる。これはもう脈アリどころの騒ぎではない。一瞬で頭から蘭や杏のことが消去され、頭の中はじゅんなちゃん一人だけになった。昔の青春なんかより、目の前の幸せ。なんて幸せものなのだろうかと、自分で自分が怖くなった。


 搬入口から出て球場のそばの自転車置き場からまずは踏切の信号まで漕いだ。ぞろぞろ歩く観客達にもまれるようにゆっくりと漕ぎ、踏切の所までつくと、ギュウギュウ詰めにされている乗客たちの姿が道路からも見えた。かわいそうに、と思いながら自転車で家まで漕いだが、脚がものすごく軽く感じたのは、きっと気のせいだろう。


 今日は本当にタイミングが良かった。休憩室でもロッカーの前でも会って話ができたなんて。しかも向こうはかなり積極的。不自然なほどグイグイ来る。滑り込むように家に着き、晩飯代わりのカップ麺が出来上がるまでの間、じゅんなちゃんに連絡しようとスマホを握りしめた。


 さて、なんてメッセージしたら良いのだろう。こういう場合、やっぱり男の方から今度お食事にでも、とか言ったほうが良いのだろうか。それとも丁寧なうやうやしいご挨拶を差し上げたほうが良いのだろうか。いやしかし……。好かれたいと言うより嫌われたくないという気持ちのほうが強く、どう文章を書けばよいのかわからない。文章が書けないとしたら電話か、とも思ったが、連絡先を交換していきなり電話するほうがハードルが高いし、なによりなんて言えば良いのかは文章でも口頭でも同じであると気づき、やはりここは文字で行こうと決めた。


『こんばんは、バイト先で今日連絡先交換させてもらった長澤良です。これからよろしく!』


 至って普通。何の変哲もない。当たり障りのないものだったら、嫌われることはないだろう。ドキドキしながら返信を待っていると、数分で返事がきた。


『萬田純奈です。今日は話せてよかったです。こちらこそよろしくおねがいしますね』


 へぇ、じゅんなって純奈って書くんだ。純粋な子なのかな。なんて想像をふくらませる。良いイメージしか浮かんでこなかった。


 さぁ、ここからどうつなげていけば良いのやら。そもそもここからつなげても良いのか。いやいやつなげないと純奈ちゃんに失礼になるかもしれない。女子と出会ってからどうすれば良いのかなんて、女の子に慣れているプレイボーイくらいしか知らないのではないかと思うくらい、自分が如何に女子と接してこなかったかがどんどん明らかにされているような気がしている。


 何を話せば印象に残るのか、それでいて嫌われないのか。それだけを気遣って会話を進めていくことにした。こういうのは男も女も知っている蘭に相談するのが一番なのだろう。しかし、なんとなく恥ずかしいのでそれはやめておいた。誰かに恋の相談をするなんて中学生かよと自分で自分にツッコミを入れる。成人済みの男が誰かに恋の相談をするなんて、カッコ悪いことだと思っていた。



 その時、また通知が鳴った。純奈ちゃんが連続でなにか送ってくれるなんて積極的だなと思ってその連絡を開くと、杏からだった。

 

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