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第七話:秒速1円25銭

 試合の次の日、俺は求人情報誌をパラパラとめくりながらどんなアルバイトをしようかと悩んでいた。色々なものがあるが、これと言ってしたい仕事がない。高給だけど忙しそうなものや、面白そうだけど給料が低いものばかり。これはもしかしたら長期戦になるかもしれない。

 と思ったが、ちゅうど良いところで蘭から連絡が届いた。


『買い物デートいつ行くか決めようよー』


 その前段階としてまずはお金を貯めないといけないということを蘭は知らない。デートという文字が少し気になるものの、とりあえずテキトーに返信した。


『いま金無い。バイト探してるとこ』


『バイト探してんの? なら良いバイト紹介しようか?』


 良いバイト? 何だろう。蘭のことだから取材させてもらった所とかだろうか。さすが、頼りになる元男だ。俺は乗り気になってしばらくスマホから目を離さなかった。


『してして! お願いします!』


『球場のバイトなんだけどどう? 私、前にビールの売り子してたんだけど、そこの系列で球場で食べ物とか売るのがあって、そこならたまにプロ野球の試合チラ見したり出来るし、労働時間はそんなに長くないけどけっこう売れたら売れただけボーナスとかあるから良いかもよ』


『いいじゃんそれ!』


 まさか野球に関係するバイトが出来るとは盲点だった。野球場の売り子さん達といえば重たそうなビールサーバーを背負って歩いてビールを売る美少女が真っ先に思いつくけど、俺もあれをやるのか? 蘭は今は美女だからやっていてもおかしくないけど、俺は美女でも何でも無いし男なわけだし……想像がつかない。しかしプロ野球の試合を間近で見られるのは良いし、売れたらボーナスがあるとは。早速蘭に連絡をとってもらい、その返事を待った。


 しばらく時間がかかると思ったので暇つぶしに論文執筆でもしようと思ってパソコンの前で気合を入れる。データも参考文献の整理もしっかり終わって、あとは書き進めれば良いだけ。でも、それが一番難しいのである。三時間で千文字くらい書いたところで蘭からの連絡に気づいた。


「家の前にいるから上げて」


 時間を見るとほぼ一時間前。これはやらかした。急いで玄関でサンダルを履いてドアを開けると、溶けた雪だるまみたいな侘しい感じで背を向けて座っている蘭がいた。

 恐る恐る肩をトントンと叩いてみる。クルッと振り返ってきた蘭は俺の知っている蘭とはちょっと違っていた。


「おいこらぁ! いつまで待たせりゃ気が済むんじゃい!」


 野球以外でも蘭が“又田化”するところを見つけた。怒ったときだ。ごめんごめん、と手を合わせて中に迎え入れ、お詫びにペットボトル入りの炭酸飲料を渡した。蘭はそのままテーブルの前に座って俺の方を見ながらキャップを開けた。


 プシュッと気が抜け、こぼれそうになる炭酸飲料を迎える蘭の口元はもろに“蘭”の口元で、生唾を飲み込んでしまった。変幻自在な蘭に惑わされてしまいそう。


「で、急に何しに来たの?」


「あ、良のバイトのあれ、合格したから。来週からだから。今から研修お願いされたから。あと、この様子も撮影させてもらうから」


「ええ……」


 急展開すぎてついていけない。まず本人が面接に行っていないのに電話ひとつでバイトに受かるなんてありえるのか? しかも勝手にシフト組まれてるっぽいし。後日きちんと確認しないと。ていうか今から研修ってどういうこと? あらゆる面で現実味がなさすぎて、詐欺にあっている気分だ。


「まずは業務内容なんだけどね」


 そう言って話し始めた蘭。一方的な感じがますます詐欺師っぽくて胡散臭い。こいつ本当は俺の家に上がりたかっただけなんじゃ……ま、それはないか。一瞬だけパンツ姿の大川兄のあの姿を思い出して、それが蘭に重なった。デジャブみたいに既視感があったそれは、その後の蘭によるものすごく真面目な研修によっていつの間にか消え失せた。


 シフトは不定期。もちろん球場でプロ野球の試合がない日には仕事がないということだからなんとなく予想はついていた。つまり試合がある日はバイトで無い日はそれ以外のことをしていれば良いということだ。ワゴンと呼ばれる物品販売の指定場所で色々なものを売ることになるらしい。かき氷、弁当、フライドポテトにポップコーン。ビールの売り子は女の子のほうが売れるからやらなくても良いらしい。なるほどやっぱりそういうのもあるんだな。交通費もいくらかもらえるみたいだから、自転車で行こうっと。


 蘭がひと通り教えてくれて、それをメモに取っていたらもう外は日が暮れていた。そろそろ夕飯にしないと。


「お腹空いた? なんか食べに行く?」


「良のおごりなら行ってもいいよ」


「カネがないからバイトするんでしょうが」


「ケチだねぇ。一応女の子だよ? 男がささっと払ってくれたらかっこいいんだけどなぁ」


 一応ね。元男と言うだけあって、男の弱い部分も知り尽くしているようだ。


「はいはい。一番安いやつだけおごってやるよ。何食べに行く?」


 目の前にいる美女が嬉しそうに分かりやすく腕を上げて喜んでいる。本当に知り合いじゃなかったらこのまま一緒になってしまいたいくらいなのに。一回記憶を消すことができたら。俺はきっと目の前の美女のために必死になっていることだろう。だんだん蘭に惹かれている自分に気づいて自分自身にびっくりした。


 そのまま安めの晩飯を食べてそこで解散した。意外とすんなり帰っていく蘭の背中を見ていると、なんとなく寂しい気分になってきた。蘭は俺に対して変わらず親身になってくれているのに、俺はなんでこんなに過去にこだわってしまうのだろう。そう思うとなんだか蘭に申し訳なくなってきた。でも今さら又田だと思って接することは不可能だ。この複雑な気持ちをどう整理すれば良いのか、やっぱり分からなかった。


 実際にアルバイトが始まった。きれいめの質素な服装で集合場所につくと数人の同じような格好の方々とすんなり合流し、点呼をとってから球場内に入った。初めて入る球場の中は意外と普通で、ここにもし瞬間移動で飛ばされてきたりしても絶対に野球場の中だとは気付かないだろう。共有のロッカーで制服に着替え、受付のところで鍵やお釣りが入ったポーチを渡されて、ワゴンの方に向かう。マネージャーさんがもう先についていて挨拶を済ませ、今日のワゴンの準備に入る。夏休みが過ぎてもう佳境に入っているシーズン終盤の平日の客席はそれほどお客さんが多いわけではない。しかしそれでも一万人を超える人達が行き来している試合前の球場という空間は満員電車のようだ。せわしい球場でせわしくワゴン販売の準備をし、試合開始前にシャッターを開けた。


 背中越しに盛り上がったりやじが飛んだりするのを感じつつも、俺は目の前のことでてんやわんやになっていた。列に並ばないお客さんを誘導し、お釣りの数を数えて渡し、次の注文を聞き、割り込みのお客さんを注意したら逆ギレされ、アルコールを飲んで馬鹿騒ぎする人たち絡まれながら、四時間の業務を終えると、野球部の練習とはまた違う疲れがどっとやってきた。三連戦中だから明日も明後日もこんな目に合わないといけないのか。しかも野球の試合はほぼ見られない。やっぱり何かの詐欺だったんじゃないのかと呆れたが、時すでに遅し。シーズン終了までみっちりシフトが入れられていることをマネージャーさんのシフト表を見せてもらって知った。


 しかし悪い事だけではない。ワゴンで声を張り上げて宣伝していると、時々すれ違うビールの売り子さんがきれいな子で会釈とかしてくれることがある。その中でも、いつも目が合うビールの売り子さんがいた。その蛍光色の帽子の影から出しているくりくりとした大きな瞳が俺の視線を毎回奪っていた。やっぱりビールの売り子さんは美女が多い。美女じゃないとこの仕事できなかったりして。だとしたらそんな美女たちとお知り合いになれるチャンスがあるのかもしれない。そんなウハウハなことを考えつつ、その日はチュロスを袋に詰めてお客さんに渡していた。


「おい兄ちゃん、かわいい女の子の売り子さんなんで来ねえんだよ、なんとかしろ!」


 チュロスの袋入れをしているとき、急に後ろの席から酔っぱらいのおじさんに話しかけられた。こういうのが実は一番困る。全く準備していない状態で後ろから声をかけられるとそれだけでびっくりするし、それにだいたい前に集中しているから盛り上がっている球場内では後ろからの声は聞こえにくい。だからだいたい何度か無視する形になってしまい、いつも半ギレのような状態で接客しなければならない。今回もそういう感じだ。


「すみません、僕、売り子さんとは違うので、ちょっと難しいですね……」


「あ? 俺はお客さんだぞ? なめてるのか? 早くしてくれよなぁ」


 厄介なクレーマーに絡まれた。しかし窮地を救ってくれたのは、いつも目が合う、あの売り子さんだった。タイミングよくいつものように視界の左側から右側へ流れるように歩いていく売り子さん。途中でいつものように目が合うと、俺はとっさの判断で目で合図し、手元で小さく手招きした。気づいてくれ、と念じたおかげか小走りでやってくる売り子さん。機会的で業務モードの会話だが、はじめて話す機会に恵まれた。


「あの、こちらのお客様がビールをお求めのようでして」


「お、姉ちゃん姉ちゃんこっちこっち!」


「あ、はい、お伺いいたします、えっと……」


 慣れた手付きで注文を取り、酔っぱらい相手に笑顔で接客してくれた売り子さん。タイミングよく現れてくれて本当に助かった。その後は自分の方のお客さんの接客に追われゆっくりその様子を見ることは出来なかったが、接客が終わったのか帰り際にもまた目が合い、会釈してどこかへまた去っていった。目でありがとうと伝えたが、伝わっているだろうか。


 その時の笑顔は、なんとなく惹かれるものがあった。この瞬間、はじめてこのバイトを紹介してくれた蘭に感謝の気持ちが芽生えた。

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