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第二話:君のはちみつレモンが食べたい

 夏休みの延長戦のような、日差しは強いし蒸し蒸しするけど風の感じがまるで違う、不思議な日曜日。セミがまだ頑張って鳴いている中、縹川フラワーズの初練習が始まった。練習と言っても対岸でやっている母校の野球部のような規律的で無駄がない練習風景とはまるで違っている。ダラダラとキャッチボールをしてみるが、俺と同じように他の奴らも手や体幹部の感覚を忘れてミスばかりしている。


 美人野球ユーチューバーの蘭だけは、現役さながらの動きのキレがあり、変わり果てた姿と相まって男衆の視線をさらっていく。蘭がまだ又田だったころはそれほど上手い選手だとは思わなかったが、それだけ俺らが相対的に下手になってしまったということなのだろう。継続は力なりとは本当のことのようだ。


 ノックも本当はかわりばんこにノッカーを交代する予定だったが、蘭以外はまずバットとボールが当たらない。仕方なしに蘭が全員に向かってノックを行うが、簡単な弱い打球ならまだしも、少し打球が速くなるともう足が追いつかない。フライも取れないしゴロはトンネルする。ボールと自分の体の動きとボールの間のタイミングが悪い。自分の体ではないと思うくらい体が動かない。だんだん心配になってくる。いきなり試合じゃなくて本当に良かった。


 なにより心配なのが体力の衰えだった。まだ二時間ほどしか練習していないのに、もう息切れがしている。若さというのはもしかすると運動習慣によるものであって年齢は関係ないものだったりして。苦しくてその場で座り込む数人のチームメイトを見て、蘭は仕方なく休憩を促した。


「いやぁ、捕れないもんだねぇ」

「ボールとバットこんなに離れちゃって」

「てか無理。午後の練習はミーティングにしょうよぉ、居酒屋で」


 カバンをおいた草むらにへたり込むようにして座ると、もう立ち上がれないほどだった。汗がじわっとにじみ出てくる。


 ハナコウ野球部の伝統として、守備練習はグラウンド、日没してからは近くのバッティングセンターで打撃練習というのがいつもの練習の流れだった。しかしこの調子で守備練習を行うと、この炎天下の中なら数台救急車が必要になるかもしれない。休憩時間中、ほぼ全員対岸の後輩たちのキビキビした動きを見ながらため息をついていた。


「あ、そうだ」


 後ろの方から杏の声が聞こえ、振り向くと、杏はカバンの中から見慣れたタッパーを差し出してきた。大きめのタッパーの中にぎっしり詰まっている黄色。高校時代から何も変わらない、懐かしいはちみつレモンだった。


「こんなこともあろうかと、特製はちみつレモンを作ってきたから、しっかり食べてまた練習頑張りな!」


 待ってましたと拍手喝采。高校時代、試合の度に差し入れしてくれた杏の特製はちみつレモン。寒い日の試合はすりおろし生姜が入っていたりしたなとふと思い出す。杏のはちみつレモンはとにかく濃くなく薄くもなくちょうど良い味付けで、差し出すと一瞬でなくなる人気の品。三十数人いた高校時代はときどき逃すこともあったが、今日は全員で十人。十分味わうことが出来る。懐かしい酸味と甘味を堪能し、体力もなんだか回復してきた気がする。杏の魔法にかけられて、一気に体が軽くなった俺は、勢いよく走り出すと足がもつれてコケてしまった。


 午前中はそうして第一縹川グラウンドでしっかり汗を流し、近くのファミレスで軽く食事を済ませた後、裏にあるバッティングセンターに行き、大人の財力をしっかり使ってバッティング練習をすることになった。


 蘭はまた新しい動画を撮るのか、自分の打席の反対側にカメラをセットして、百三十キロのボールを軽く弾き返していく。高校時代は捕手だった蘭は太ももやお尻が大きくてしっかりしている。打席で構えると、ジャージ越しにそれが見えてきて、反応に困った。それまで普通の男の同級生だと思っていた人を、今日からは女として認識しなければならない。蘭が元男だと知らない人からすればセクシーな美女が百三十キロをただ打っている絵面であるが、過去を知っている俺らからするとまだどうも違和感が残ってしまう。色っぽいなと一瞬でも思ってしまった自分に違和感を覚えてしまうのだ。いつか蘭を普通の女として見られるだろうか。正直な所、まだ自信は持てなかった。


 蘭以外はと言うと、まず九十キロの遅い球がなかなか当たらない。まだ自分の感覚と実際の結果の間に微妙な距離がある。バットがすごく重たく感じる。そのため、フルスイングすると下半身が安定せずにフラフラする。守備もそうだったが打撃までボロボロ。ブランクというものは本当に怖い。


 そんな情けない男衆を尻目に、杏が打席に入る。そういえば杏は今までマネージャーに徹してきていたので、野球をしている所は見たことがなかった。意外としっかりどっしり構えていて、雰囲気はある。百キロの球を数球だが前に打ち返せている。最後の球もしっかりと前に打ち返し、颯爽と扉を押しながら出てくる杏。


「どうよこの実力! 実はたまに来てるんだよねぇ」


 なるほどそういうことだったのか。最近では野球を実際にプレーする女子が増えてきているようだ。蘭は力も実力も男子だが、今は女子。どういう扱いになるのだろうかとふと思った。蘭がもしきちんと女子扱いを受けるなら、女子プロ野球界でももしかしたら通用するかもしれない。


「長澤も百キロにしてみれば? あんまり遅いとボールが山なりで打ちにくいし」

「そうだな、そうしてみるわ」


 杏にバットを渡されて、そのまま百キロのところに入った。もしかしたら杏が後ろで見てくれるかもしれないと思って振り返ってみた。だが実際には誰も後ろで見ていなかった。ちょっとだけ期待した俺が馬鹿だった。


 打ってみると、やはりボールの軌道が多少は真っ直ぐなぶんバットは合わせやすかった。さすがマネージャー、的確なアドバイスをくれる頼れる存在。本当はしっかり見届けてほしかったけど、俺は杏のなんでもないのだから仕方がない。


 もし高校時代に一回でも告白していれば、今日みたいに再会したときに少しでも意識してくれただろうか。それとも昔のことだからと全く気にせず振る舞っただろうか。そんな事を考えながら打っていくが、全く当たらなくなった。邪念や雑念が入ったら打てなくなるのかもしれない。


 その打席が終わって休憩する。高校時代は後ろに監督が見張っていて気軽にジュースを買うことも座ってゆっくりすることも許されなかったな。そう考えると草野球というのは好きなことを気軽にできて、良い趣味である。雑談しながら涼しい室内にいると、それだけで勝手に時間が過ぎていった。


「長澤はもう打たないの?」


 杏がバッティンググローブを手にはめながら覗き込むように聞いてきた。あざとい、だがそこが可愛い。


「あ、うん、もう疲れたし良いかなって」

「体力落ちたねぇ。じゃあ、教えてくれる? バッティングフォームとかさ」

「うん、いいけど」


 杏はありがと、と一言だけ言い、俺を招き入れるようにして打席に入った。高校時代以来、はじめて二人きりの空間にいることに気づいた。ネット越し、扉越しだが、空調のきいている部屋にいる他の奴らとは違うところに今二人でいる。特別な感じがした。



 右打席にいる杏とは反対側の左打席に入って、鑑写しのようにして打撃フォームで気をつけることをアドバイスしていく。後ろの後はしっかり踏ん張って、前の足は軽く構える。バットは耳の後ろで、バットの軌道はこうで、ここで押し出す感じで……。ひとつひとつのアドバイスに真剣に反応してくれる杏の表情の豊かさに感心しつつ、その綺麗な顔を真正面から直視したいけど出来ない歯がゆさに悶々とする。杏はアドバイスどおりにはなかなかいかなかったが、相変わらず打球は前に飛ばしている。その真剣さに、本当は杏も高校時代は俺らと一緒に野球をプレーしたかったのかな、なんて思った。


 短い時間だったが杏と一緒に打席にいる時間は短いようで長くも感じた。本当はもっと一緒にいたい、でもここに一緒にいる事自体が恥ずかしくて逃げ出してしまいたいとも思う。そんな矛盾した気持ちを抱えたまま、あっさりと杏の打席は終わった。足元に転がっているボールを奥の方に投げてどちらが遠くまで投げられるか競ってみたが、やはりそこは俺の圧勝。腕をブンブン振り回して高く投げようとする杏も、それはそれで可愛かった。


 一緒に振り返って扉を開けようとしたとき、蘭の存在に気づいた。見られていたようだ。その隣には大川兄のどでかい体に似合わない小さく見えるビデオカメラ。しっかり撮影もされていた。杏と一緒に慌てて削除するように頼んだが、蘭も大川兄もニヤニヤしてそれを許してくれなかった。このとき俺は実はそこまで消してほしいとは思っていなかった。確かに恥ずかしい映像であることは間違いないが、杏と一緒にいる時間が記録として残ることを、心の何処かで期待している自分もいた。


 最後に全員でストラックアウト大会をし、蘭は動画の企画の通りパーフェクトを達成したが、他の連中は合計でも二枚や三枚など超低レベルの戦いをして、ダメダメだねぇとみんなで笑い合った。杏の素朴な笑顔をまたここでも見られて、ちょっとだけ良い気分になった。


 その日はその場で解散になった、かと思いきや、やはり全員成人済み、チーム結成記念と同窓会、そして蘭のカミングアウトを祝して居酒屋に突進した。飲食店の多いエリアであるが、さすがに歩いて探すほどの体力はもう残っていないので、バッティングセンターに一番近い居酒屋になだれ込むように入店し、そのまま畳の席に流れるように座っていった。帽子を脱ぎ、とりあえずビールを全員で注文した。蘭が立ち上がり、一通り挨拶を済ませた後、全員で乾杯した。


 乾杯直後、一杯目のキンキンに冷えたビールが、つかれた体に文字通り染み渡って行った。


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