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第十三話:孤独な昼にはちみつレモン

 杏は笑っているような、困っているような、怒っているような、でも安心したような、なんだかよくわからない表情で固まっている。俺は何もないかのように自然体で振る舞おうと努力し、胸元でちょこっとだけ手を上げてみた。


「杏じゃん」


「杏じゃん、じゃないよ! え、なんでここにいるの?」


 すばやくグラウンドに続く階段を降りてきた杏は、自転車に突進してくるくらい慌ててこちらに近寄ってきた。


「いや、治ったら野球したくなって、誰かいるかなと思って」


「えっ、もう治ったの!? なんで知らせてくれないかな! マネージャーとして、しっかり選手を管理しないといけないんだからさぁ。勝手に動いてもらったら困るんだよぉ。もぉ、治って元気だったからまだ良かったけどさぁ」


 一気に力が抜けたのか、大きな手提げカバンを俺の自転車の籠に乗せてからへたり込む杏。そこまで心配させるほどだったのかと気付き、なんだか申し訳なくなった。なんて返せば良いのか分からず、小さな声でごめん、とつぶやくくらいしか出来ない。そこまで選手を思ってくれるなんて、さすがマネージャーらしいマネージャーだ。とても杏らしい。


「みんなに連絡してさ、試合ももちろん中止にしてもらって。今日の試合のために作っておいた特製はちみつレモンがあるから、それ差し入れしようと思ってわざわざ家まで行こうとしてたんだよ? たまたまグラウンドの様子を観ながら歩いてたから長澤を見つけられたけど、そうじゃなかったらすれ違ってたじゃん。ホントびっくりしたんだから」


「どうも、ご迷惑をおかけいたしました」


 小さくなってかしこまる俺。家まで来て看病してくれるチャンスがあったなんて。大人しく寝ていれば良かったかも。なんて軽い感じで返したほうがウィットに富んでいてスマートで良いのかもしれない。でも、そんなカッコつけたことを言えるようなキャラではないとは自分でもよくわかっている。


「でもまぁいいか。家まで行く手間も省けたし、野球したくなるくらい元気なら安心したよ」


 杏はそのままホッとした様子で、黙ってしゃがみこんだままでいる。両手で自分の脚を囲んで、文字通り猫背で川の方に目をやっている。


 気まずい。この微妙な間が空くのが本当に苦手だ。蘭や純奈みたいにどんどん話すタイプなら相槌を打てば良いだけのなので比較的楽に話ができるが、杏はこうして間が空くと固まるタイプ。俺からどうにかして話題を探さないと、どんどん気まずくなっていくだけだ。


 とにかくこの場を持たせないといけない。そう思った俺は思い出したように手提げかばんの方をチラチラと見ながら、新しい話題を探した。


「あ、そうだ、特製はちみつレモン、あの、食べたい……っていうか、あの、あれ? なんだか喉の調子が良くないみたいだ、喉に良いものなんか持ってない……かな?」


「もう、はっきりはちみつレモンが食べたいっていえば良いものを。風邪で心まで弱くなっちゃったのかな?」


 お母さんみたいな口調で呆れる杏。俺をベンチまで促して、目の前で手提げかばんの中から出した半透明のタッパーを開けようと見せてくれた。


 ゆっくりとめくれていく半透明の青。その奥にぎっしりと詰まっている黄色とオレンジ。輪切りになっている檸檬の房が咲いた花びらのようになっていて、その奥からはちみつの甘い匂いと檸檬の酸っぱい香りが混ざって甘酸っぱいシャワーとなって俺の顔まで漂ってくる。ひとつ素手でつまんで口の中に放り込むと、杏特製の独特の香辛料の香りと合わさって、噛む度に甘味と酸味と良い香りが口いっぱいに広がっていく。いつもの杏の味。一応病み上がりの体にゆっくりと確実に染み渡っていくこの感じ。高校時代に激しい練習でくたばった後に食べたあの味と何も変わっていない。ここだけ高校時代に戻ったかのような錯覚。そして、このまま覚めてほしくない幻覚のようだった。


「ゆっくり食べなよ? 消化に良いかどうかまでは分かんないんだからね」


 もうひとつ、もうひとつ。いつもはチーム全員で分けるはずの量を独り占めできるというだけで有頂天になる。そして、マネージャーとしての杏も、今の間は初めて独り占めすることができる。そう思うと、なんだか体が固まってきた。


「久しぶりにゆっくり話せるね」


 タッパーを挟んだ俺の横で、後ろに手をついて空を見上げる杏。その表情はなんというか、色っぽい。耳から顎にかけてのラインに綺麗な影ができている。黄色のパーカーからはみ出るような胸元のTシャツが、風に吹かれて浮いてしまわないかどうかだけが気になって仕方がない。高校時代、長袖のジャージのチャックを首まで引き上げていたあの杏が胸元を晒しているというだけであの頃とはまた違った気まずさを感じた。


「ああ、うん、そうだよな。えっと、この前のバッティングセンターで教えたことまだ覚えてる? まだたまに通ってたりするの?」


 こんな話題でよかったかなと不安になる。もっと違った大人っぽい話題があれば良いのだが、あいにく学生気分が抜けていない学生なので、大人の世界には足先すら入れていない。一足先に社会人になった杏と会話が噛み合うだろうか。それが心配で仕方がない。


「あ、うん行ってるよもちろん。でもやっぱり一回観てもらっただけじゃなかなか変われないね。何回も何回も繰り返さないと。なんか、高校のときに長澤が壊れたロボットみたいにずっと素振りしてた意味がわかった気がする」


「壊れたロボット……」


 見てくれてたんだ。俺が素振りしている所。確かに杏に見えるようにわざと近くで努力を見せつけるようにしていたこともあった。とにかく杏の視界の中にいようと必死で、それが唯一大川兄に対抗できる方法だった。壊れたロボットみたいというのはちょっと引っかかるけど、少なくともあの頃の目標は達成できていたわけだ。高校時代にタイムスリップして、あの頃の自分に報告してやりたい気持ちになった。


「ちょっと見てくれる? ……と思ったけど、今バット無いよねぇ」


 手元にはスパイクとグローブはあるが、肝心のバットは車を持っている他のチームメイトのトランクの中だ。腰に手を当て、遠くを見つめる杏の横顔。またあの綺麗な横顔に見入ってしまう。輪郭の整った美人さんだなぁとしみじみ思う。高校時代の素朴な感じも大好きだったが、今の大人っぽくなっている杏もやはり抜群に綺麗で、吸い込まれそうになる。思い出補正に打ち勝つ美人さんになってしまって、遠い存在になってしまっているのかと思いきや、子供っぽく表情豊かな感じはそのまんまで、何よりそんな杏が今俺と二人きりでいる。どうにかしてこの二人きりの空間を持続させたい。話を盛り上げるとか、そんなことよりもまずは、シンプルにずっと一緒にいたい。昨日の純奈とのアレ以来、肉体的な欲求はもう必要なくなっており、精神的な、心理的なものを強く欲するようになっていた。


「じゃあ、バッティングセンター、行く?」


「そうだね。暇な大学院生さんが暇すぎてまた体調崩しちゃってもいけないしね」


 どんな理屈だよ。ってテンポよく突っ込めばよかったのかもしれないが、少しだけ理屈を頭で考えてしまって反応のテンポが遅れた。でも何か返事しないといけないと思い、ボソボソっととりあえずの返事をしておいた。


「暇って言うな、暇って」


 ふふふ、と口に手を当てて笑う杏がやけに大人っぽく見える。言ってることは子供みたいな屁理屈なのに。


「いいじゃん、暇って。社会人になったら暇なんて全然ないよ。学生だけだって、時間あるのは」


「そういう社会人さんは、今日は暇じゃないの?」


「今日は誰かさんの看病兼マネジメントに忙しいの」


「もう治りました」


「そう? じゃあ帰ろうかなぁ」


「いや、あれ? ちょっと頭も痛いし試合では打てないし、うーん、どーしよー」


「わざとらしっ!」


 隣同士、ふたりとも後ろに手を付き、笑い合ったりしながら、ときどき杏の特製はちみつレモンをつまむ。至福の時間だった。まさかこうやって杏と二人でゆっくり話せる日が来るなんて思ってもみなかった。試合を失くしちゃって相手チームとフラワーズのみんなには申し訳ないけど、風邪を引いてちょっとだけ得した気分である。


 少しの間が空いて、その間に川からのぬるい風が静かに通り抜けていく。間が空くと何も話せない俺は、ただ白く乾いた砂の中から力いっぱい這い出してくている雑草を見ながら、抜いたらどのくらい根っこが伸びているのだろうと考えるばかりだ。


「そういえばさ、最後の大会の最後のバッター、長澤だったよね。ベンチから走れー! 長澤ー!って叫んでたの思い出した。覚えてる?」


「あ、そうだっけ? 俺、走るのに夢中だったのかなぁ全然覚えてないわ」


 本当はちょっと聞こえてた。当たり前だ、好きな人が自分のことを大声で叫んでくれているのに気付かないわけがない。でも今はそんなこと恥ずかしくて言えない。試合に集中できていなかったんじゃないかと怒られてもおかしくはないだろう。確かに一瞬、杏の方に意識が向いていたことは確かだ。しかしあの瞬間、本当に自分の中のスイッチが入って、俺の身体の中のモーターが加速し始めた感触があった。あと一歩及ばなかったが、本当にほんの数センチの差だったのを思い出す。


「そっか。そうだよね」


「うん、ごめんね」


「いいのいいの、昔のことだし」


 どこかよそよそしい。と思ったら自分が無意識のうちによそよそしくなってしまっていたのかもしれない。せっかく二人きりなのに。話が続けばけっこう盛り上がるが、一旦間が空くとその間が長い。誰か援軍が誰か来てくれれば会話ももっと持続して、もっと盛り上がるかもしれないのに。いやしかし、そうなると二人きりではいられない。この二人きりの時間はどうしても終わってほしくない。そう考えている間に、また気まずい間ができてしまっていた。


 雑草が這い出てきたと思われるそのひび割れに、蟻が入り込んでいったのが見えた。


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