第一話:チームの名は。
シンクロとは、時間を共にするというギリシャ語に由来する言葉だ。と本質的に理解したのは、一緒にたいやきを頬張ることができた、まさにその時だった。昼過ぎの土手沿いで、隣りにいる人の気配にまだ慣れていない俺は、わざとさっきまでいたグラウンドの方を見ながら歩いている。
もしも向こう岸にある母校のグラウンドで、毎日のように白球を追いかけていなかったら。もしも杏が俺のためにあんなことを言わなかったら。この手に持っているたい焼きも、さっきの感触も、なかったのかもしれない。
一度は失った青春を取り戻すために必要なのは、また時間を共にするということ。あの頃と同じような体験の中で、後悔していたことを新しい思い出で上書きすること。シンクロ打法によって引きつけたその時間は、今こうしてたいやきとして、手のひらの豆の上に乗っかっている。最後のひと口を頬張り、甘い幸せを噛み締めた。
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さかのぼること半年前。平成最後の夏の甲子園を畳の上で寝転んで見ながら年下の球児に感心していたとき、久しぶりに高校の同級生、又田から連絡が届いた。高校の頃から野球バカだった又田が夏の甲子園を見てまた野球がしたくなったそうで、元チームメイトだった奴らに連絡しまくって草野球のチームを作ることになったそうだ。もちろん俺もそれに同意し、次の日曜日に第一縹川グラウンドに集合することになった。
残暑が残るアスファルト地獄の中において、土手道をずっとまっすぐ自転車で行くのは気持ちが良い。深い草むらの先に第一縹川グラウンドが見えてきた。日曜日の朝7時半過ぎ。張り切って早く出発しすぎたのか、まだ誰もいないようだ。
縹川グラウンドはちゃんとマウンドもあるし、黒土ではないが小石が少ない良い球場だ。ネットで囲まれていてボールが転がっていって川に落とすことも少ない。バックネットの裏には小さな小屋があり、今にも倒れそうなおじいちゃん管理人が切り盛りしている。その管理人さんに2時間分の利用料を支払い、初めてこの球場に足を踏み入れた。
しばらく待っているうちに徐々に人が集まってきた。まず最初に来たのはチーム一の俊足の橋田。細身というか、顔も胴体も脚も、全部が細長い。その細長い脚で高校の頃は相手を撹乱していたんだっけ。足が速いと来るのも早いのか。
そのすぐ後ろには、生真面目で勉強もできる円。瓶底眼鏡は今も健在、橋田をプレス機で潰したみたいに対照的な、横長の低身長。
そして、二人揃って優秀なピッチャーだった大川兄弟。高校時代と変わらないそのデカさ。肩幅が異様に広く感じる。懐かしい面々が続々とグラウンドに足を踏み入れる。みんなまだ25歳くらいなのに、たるんだ体をユニフォームに押し込めてベルトで無理やり締めてきている彼らが妙に懐かしくて、笑えてくる。
「懐かしいなぁ、元気だったか?」
橋田は野球以外でも切り込み隊長っぷりは変わらない。
「まぁな。何年ぶり? 高校卒業からだから……7年ぶりか。もう25だもんな、おっさんだな、特に顔が」
「それは余計だろ。ていうかお前、今何してんの?」
「学生。返さなくていい奨学金で暮らしてる院生です」
「まじか。学生はいいよな、俺も学生に戻りたいよ」
久しぶりの懐かしい面々で、談笑に花が咲く。
「にしても、朝からよくあんなに声出せるよな。今じゃ考えらんない」
大川兄が対岸のグラウンドの方を遠目で見ている。その目線の先は、俺らの母校のグラウンド。縹川高校、通称ハナコウは学校のすぐ近くを流れる縹川の土手の一部を正式に市からグラウンドとして使用する許可をもらっており、野球部は伝統的にその土手のグラウンドを利用して練習や試合をしている。今日も日曜日とあって、他校と練習試合をしているようだ。
「ほんとだよな。高校の頃はあのグラウンドで練習してて、いつも川に落ちたり草むらに入ったり大変だったから、この縹川グラウンドが憧れだったんだよなぁ」
「だな。いっつも週末には草野球で盛り上がっているのを横目に厳しい練習に耐えていたから、草野球人が本当にうらやましかった」
「でも今となっては完全に逆。あんな元気、考えらんないよな」
「だな。ボール、投げてみるか?」
そう言われてグローブを取り出し、大川兄の山なりのボールをキャッチした。これだこれ、この感触。そのまま数年ぶりにボールを握り、大川兄の方に投げ返した。指先からすっぽ抜けてあらぬ方向に転がっていった。捕る方はともかく、投げる方は完全に感覚を失っている。あのころみたいに体が動けば、と思うが数年間のブランクは仕方がない。徐々に慣らしていくとしよう。対岸の狭いグラウンドで、朝早くから必死に白球を追う後輩達がうらやましくて仕方がなかった。
そんな中、一人の女性が見慣れたジャージ姿でやってきた。見慣れたジャージを着ているはずなのに、どこか印象が違っていて、ますます大人っぽくなっているような気がする。その姿はまさにお姉さんという言葉がよく似合う。俺が思春期に唯一本気で好きになった同級生だ。
むさ苦しい男どもの中にあって、彼女は紅一点の存在。高校時代からそうだった。同級生ではチームで唯一の女子部員。マネージャーとしてサポートをしてくれた頼れる存在であり、野球部のマドンナ的な存在でもあった。あの頃はとにかく勉強よりも野球部の練習がすべて。野球が中心の生活の中にあって、唯一接する機会のある女子はマネージャー一人だけ。きっとあの頃はチーム全員が彼女のことを好きだったのではないかとさえ思う。そんな彼女の名前は石川杏。苗字が変わっていなければ。
「杏……久しぶり」
大川兄が何やら意味深そうな感じで杏を迎える。
「あっ……久しぶり。あれ以来だね」
杏もどこかよそよそしく返事をする。高校時代、この二人は隠れて付き合っていたという噂を耳にしたことがあるが、それが関係しているのだろうか。
「そういえば、又田いなくね?」
大川兄がでかい体を大きく揺らしながら周りを見渡し、声を張り上げた。そういえばまだ来ていないようだ。言い出しっぺなのに遅刻とは。杏も含めて現在九人集まっており、試合をするには一応メンバーは足りている。そのかわり杏もプレーしなければならなくなるが。
と、思った瞬間、もうひとり土手の方からグラウンドに降りてくる姿が見えた。やっと又田が来たかと誰もが思ったが、予想と反して女性だった。ちょっとぽっちゃりしているような気もするが、顔は整っていて美人。化粧は多少濃いめで香水の良い香りが漂っている。早々にキャッチボールしていた仲間たちが自然と集まりだし、その美女を囲んで質問攻めが始まった。
「はじめましてだよね?」
「可愛いねぇ、どこの大学?」
「入部希望者ってこと?」
謎の美女もいきなりの質問攻めに戸惑うばかりで何も言い出せない様子。そこで離れたところから見ていた杏が突然叫んだ。
「あ、もしかして、野球ユーチューバーの方?」
一斉に振り返る男衆。謎の美女は背負っているカバンをその場において、開いた隙間からカメラをちらっと覗かせると、首を縦にブンブン振った。
「やっぱり! 私見たことあるんです、蘭さんですよね?」
らん、と呼ばれる謎の美女の表情がぐっと明るくなった。やはり女性同士だと気兼ねなく話せるのだろう。それにしても女性の野球ユーチューバーか。取材かなにかで来たのだろうか。いや、今日久しぶりに会っただけでまだ何も活動していないし、言い出しっぺの又田が呼んだのだろうか、いやでもアイツもまだ来てないし。どうしようか対応に迷って、一応後ろポケットに入れておいたスマホで、蘭という野球ユーチューバーがいるのかどうか確かめた。
検索をかけて出てきたのはまぎれもなく目の前にいる美女と同一人物。ユーザー名、豊武蘭。あ、ホームランって読むのか。いろいろな動画がある。“元男がストラックアウトを九球でパーフェクトするまで帰れまてん”の再生数が多い。ん? 元男?
「実は、みなさんとは、はじめましてではなくって……」
まさか?
「入部希望者っていうか、発起人と言うか……」
ここで俺の中で何かが繋がった。
「豊武蘭こと、又田です! あらためまして、蘭として、よろしくおねがいします!」
予想は的中。謎の美女はあの又田だったのだ。
ぽかんとする一同。どう反応して良いのか俺もわからない。そんな中、又田、いや蘭はカミングアウトをしはじめた。高校のときは周りが男だらけで奇妙な感覚だったこと、大学でLGBTのサークルと出会って初めて自覚したこと、一生懸命バイトして整形して声も変えたこと、就職はせずにバイトやユーチューバーとして生計を立てていること、そしてその話題も兼ねて、草野球チームを作りたいということ、などなど丁寧に話してくれた。
はじめのうちは何を言っているんだと思ったが、徐々に蘭の本気度が伝わり、ざわざわした感じは消え、真剣に話に聞き入っていた。目の前にいる美女が、まさか高校時代一緒に汗水たらして野球していた高校球児だったとは全く実感がわかないが、とにかく嘘ではないらしい。勇気を出してカミングアウトするタイミングをいつにしようか迷ったのだろう、蘭も話し終わって表情が少し緩んだ気がする。
一旦落ち着いたところで蘭が、今度はしまったという表情を見せた。
「あっ、カメラ回すの忘れてた!」
どうやらカミングアウトのシーンを動画に収める予定だったらしい。すぐさまその場でテイクツーをさせられた。しっかりぎこちない笑顔で、カメラを意識しないように自分なりの自然体の演技で撮ってもらった。はじめてのメディア露出がこういう形になるなんて、まったく想像していなかった。
「よし、これで撮影完了! あ、そうだ、チームはこれで全員だから。私も入れて、プレーヤー九人とマネージャー一人。あ、チーム名どうしようかなぁ。早く連盟にも登録しないとだしなぁ」
すっかりユーチューバーらしい話し方になっている蘭に、戸惑う男衆。唯一自然体で話せているのは現状では杏だけだ。
「ハナコウなんだし、フラワーズってどう?」
「その花じゃねぇし」
杏からの提案に、すかさず橋田が突っ込む。足も速いがツッコミも早い。
「縹川のハナだし、な」
大川兄も橋田に応戦する。すかさず大川弟もウンウンと頷く。
「いいの! フラワーズ! いいじゃん! もう一花咲かせましょう! ってね! 縹川フラワーズ、いいじゃん! ネ!」
上目遣いで俺と目が合った。可愛い。雰囲気に飲まれて思わず頷いてしまう。やっぱり杏は相当可愛い。高校時代よりも可愛くなってしまっている。こうして、マネージャー兼自称チアガールの杏の鶴の一声でチーム名が決まった。
チーム名も決まり、早速、蘭が連盟の方と連絡してチームの発足が正式に決定した。縹川フラワーズは城南地区三部に所属することになった。
連盟では何段階かレベルが分かれていて、一部はなんとか杯のためにとにかく上を目指すリーグで、元プロの選手や甲子園経験者など実力揃いだそうだ。俺らとは全く違う世界で野球をしている。二部はその下位で、どのチームも次の年に一部に昇格できるように腕を磨いているそうだ。
そして俺らフラワーズが所属することになる三部は、大会は毎回登録制で、連絡さえすれば大会に出られる。出なくても良いし当日ドタキャンも可能という、仕事をしている忙しい人にはピッタリの、完全に趣味の草野球をする場所である。
ブランクのある俺らはいきなり上のリーグに参加なんて出来っこないし、いまさら上を目指そうとも思えないわけで。丁度良いぬるま湯につかりながら、高校球児ごっこができれば適度に運動不足は解消できるだろう、当時の俺らはみんなそう思っていた。
こうして見慣れた美女と、まだ見慣れない美女と、その他の男衆で、縹川フラワーズは結成されたのだった。