俺たちの戦いはまだまだ続くぜ!
エバポ……エバポレーター (evaporator) とは、減圧することによって固体または液体を積極的に蒸発(evaporate)させる機能をもつ装置である。
by Wikipedia
IHヒーターの上で熱せられたフライパンにたっぷりのオリーブオイルを入れる。
冷蔵庫から取り出した瓶にスプーンを突っ込んで、小さじ一杯の刻みにんにくをフライパンに投下。
部屋いっぱいに広がる香ばしい匂いに心を浮き立たせながら、薄くスライスした玉ねぎを炒める。
玉ねぎが飴色になってきたら、市販のレトルトミートソースとケチャップを入れて最後にバターで味を調える。
別のIHヒーターで茹でたパスタを絡めると即席ミートスパゲッティの完成だ。
甘酸っぱいソースの香りが食欲をそそり、お腹がぐうと鳴る。
「おっ! 今日はミートスパゲッティ? 良いなー。俺も腹減った~」
廊下に面したから、勢いよく扉を開けて叫ぶ友人に「どうぞ」と紙皿に盛ったスパゲッティを差し出すと、彼は遠慮の言葉を口にしつつもすすっと中へ入り、席に着いた。
「坂西君は今日、何時まで? 」
ちらりと時計を見たら、22時30分だった。
小高い丘の上に立つ大学は窓からの景色が良く、田舎だけに星がとてもきれいに見える。
私はとうに日の沈んだ窓の外を見ながら、冷蔵庫から飲み物と箸を取り出した。
隣の機能生物学研究室の坂西君はいつも遅くまで残っているので、たまにこうして一緒にご飯を食べたりする。
背が高くてがっしりとした体格の彼は見かけどおり、良く食べる。
そして燃費が悪い。
ペットボトルの紅茶を紙コップに入れて、差し出すと坂西君はぐいっと一気にあおった。
「あー。わっかんね。とりあえず解析待ちなんだけど……ちゃんと変異してっかなぁ。今日は浅野や他の面子も残っているし、仁義なき解析機器の奪い合いが勃発してるかも」
他人事のように言ってへらりと笑う坂西君だが、その目に光はなく、どこか投げやりな印象だった。
察するに余りある現状に、苦笑いしつつ私は口を開く。
「多めに作ってるし、ご飯まだの人が居れば持って行ってもいいよ」
「マジ?! あっでも、うちの研究室はここみたいに学生の休憩室ないからなぁ……」
「ここで食べたら? あっでも、隣で実験してる人もいるし、あんまり騒がないでね」
「ありがとう。助か」
『アアアアアァァァァ――ッ?!』
言いかけた坂西君の言葉を実験室から響き渡る大絶叫が遮った。
びくりと坂西君の肩が揺れる。
「え?! なんか今、凄い声しなかった? 野太い男の叫び声のような……」
ぴろりん
私のスマートフォンから場違いなほどかわいらしい音が鳴る。
【清道】
エバポが 爆発 した......ozn
送られてきたラインのメッセージを確認後、私はさっと席を立った。
「ここで食べるのはいいけど、私の分もちゃんと残しておいてね」
坂西君へ一言告げて席を立つと白衣をひっかけ、防護メガネを片手に実験室へ飛び込む。
中に入るとエバポレーターの置かれた実験台の上ぐったりと俯せている人物がいた。
後輩の清道君だ。
「キヨ君?! 」
「エバポは死にました。そして僕も死にました」
くぐもった声で淡々という清道君から、放たれるどんよりとした負のオーラを打ち消すように私は声を張った。
「大丈夫だよ! エバポが爆発してもまだ回収が……」
きくから、と言おうとして私は言葉を失った。
減圧時にかけた温度が高すぎて、フラスコの中の液体が突然沸騰するのはよくある事。
液体だったサンプルが突然沸騰した後に、固形化してエバポレーターの中に飛び散るのも良くあることである。
しかし、エバポレーターを熱するために設置してあるお湯に浮かんでいる物質は……。
「終わった……僕の戦いはここで終わりです。先輩、後は頼みます」
のろのろと顔を上げる清道君の目は死んでいた。
それはそうだ。
彼のサンプル作成は5段階合成の最終段階。
合成さえ済んでしまえば、エバポレーターで液体を飛ばして固形化した後に解析機器であるNMRやマススペクトルにかける。
目的物質であるという確認が取れれば、結晶化した後に結晶構造を解析するといった流れだ。
もしここで、サンプルが回収不可能になれば1段階目の合成からやり直しである。
反応終了まで3~4日かかるものもあるので、それらの合成、抽出、解析からとなったら実に、実に、面倒くさい。
お湯に浮かんだかけら達と埃や小さなゴミを眺めて私はゆっくりと目を閉じた。
――ああ、今日も朝日を拝むことになりそうだ。
「お疲れー。二人とも何やってんの? あー、なるほど、やっちゃった感じ? 大丈夫大丈夫、まだ回収が……」
綺麗に染め上げた金茶色の髪にパーマをかけてイケメン風にセットした男がふらりと実験室に入ってくる。
白衣の内側、薄いピンク色のシャツには英語で"ケツを差し出せ!"と書いてある。
背も高くガタイも良い彼は確か彼女がいたはずだけど、どちらもイケるタイプなんだろうか。
どうでもいいことを考えて私はしばし現実逃避をした。
「あっ、おれかえ」
「さない! 今日は朝まで付き合ってもらうから」
「理不尽! キヨは俺の担当じゃないし。巻き込まれる俺、かわいそう!」
事態を素早く察して踵を返す吉岡君の腕をがっしりとつかむと、彼はぎゃあぎゃあ言いながらも物わかり良く、お湯に浮かんだ物質の内、大きなかけらをピンセットで拾い始めた。
「まぁ、いいけどね。俺も自分の実験結果確認しなきゃだし。良いけどね」
唇を尖らせるようにして、呟きながらナスフラスコに回収していく吉岡君にお礼を言いつつ、私は解析装置の予約を入れた。
次に順番が回ってくるのは3時間後である。
「よっしー。次NMR空くの3時間後だって。それまでに回収と単離すませよう」
「3時間?! えーっ! 今日ってなんかあったっけ? なんでみんなそんなに頑張っちゃってんの? もう、家に帰って寝よーや」
「まぁ卒論関係で混んでるんじゃないかなぁ。私達もそろそろ頑張んないといけないんだけどね。これ終わったら帰って好きなだけ寝ていいよ」
「俺、これが終わったら好きなだけベッドで寝るんだ」
「明日朝一で講義あるけどね」
「貫徹フラグとかマジで止めてください!」
「じゃあ、死んでないできりきり手を動かして。エバポ装置内の試料は私が回収するから、TLCの準備しといて」
TLCで確認したらエバポから回収した試料は問題なかったが、湯に浮かんでいた分は案の定余計な物質が混在していた。
「カラム?」
TLCの結果を確認した吉岡君がちらりと私の方を振り返る。
「だね」
すかさず頷く私に、頭を抱える清道君。
「うわー。僕、カラム嫌いです」
「安心して。好きな人とかいないから」
余計な物質と目的物質を分離するために使うのがカラムクロマトグラフィー。
いったん液体に溶かして、目的物質と不要な物質を分離、抽出する作業は時間もかかるし、ぶっちゃけ面倒くさい。
サイズが大きいほど使う液体の量も多いので、2Lのカラムを使った時は一斗缶まるまる使って作業を行った。
何リットルと言う液体を200mLずつ、エバポを使って濃縮する作業は終わりが見えず、無限ループと言ういうものの恐ろしさの片鱗を味わった気がする。
清道君に実験ノートを見ながら、カラムの展開溶媒――物質を分離するための液体を作るように指示して、私は椅子にぎしりと腰かけた。
パソコンで自分のファイルから論文用のデータを立ち上げていると、横から吉岡君が覗き込んでくる。
「おっ、もう卒論書き始めてんの? 仕事が速いねー。俺のも手伝って」
「今結果出てるとこまでは書き終わっているけど、調節しながらだからあんまり進んでないよ」
「調節って?」
「入ったばかりのときね、早く終わらせたらもう実験しなくていいと思っていた私が居てね。休日も来て、さっさと終わらせたら、全く別の実験テーマを与えられてさ」
驚きのあまり、さっきの清道と同じような奇声を上げたことを昨日の事のように覚えている。
教授はなれた反応なのか、「ははは、まぁ頑張ってね」と実験概要と資料を渡して機嫌よく去って行った。
持て余したやり場のない憤りをカラオケで発散し、居酒屋でアルコールと共に飲み下したのは苦い思い出だ。
「ああ……それな。ご愁傷様です」
「実験とかあまり興味ないから早く終わらせようと頑張った結果がそれだから、それ以来私は無理せず、ペースを調節して卒業と同時に今のテーマが一区切りつく様にしようって決めたんだよね」
憐れむような目で私を見ていた吉岡君の目が腐った魚のように濁った。
「区切りがつくだけでマシじゃね? 俺の実験目的物質ができなさすぎて、成功の兆しが見えないんだけど。もう、卒論に【出来ませんでした 完】って書くしかねーよ」
「先輩! カラムの準備ができました!」
「はーい。OKです。んじゃ、試験官半分くらいの量で位ちまちまとって行って。目的物質が出きったの確認したら止めていいから」
清道君のセットした200mLのカラムが問題ない事を確認すると、私は再び実験ノートと解析データを見ながら論文を書く作業に戻る。
「今日こそできてると良いけどなー。俺のやつ」
ははは、と乾いた笑い声を出しながら、自分のフラスコを確認する吉岡君。
彼のフラスコはもう5日間反応を仕掛けっぱなしだ。
それはもう、諦めて別の方向を模索した方がいいんじゃないだろうかとも思うけれど、決めるのは教授だし、私にできることは何もなかった。
粛々とTLCの準備を始める吉岡君はふと何かを思い出したように声を上げた。
「あれ、今日、スミ―は? メシ喰いにいってるとか?」
スミ―とは研究室の助教授で、本名は隅田川 康則。
朝の7時から夜の23時くらいまで、毎日研究室にいる研究室の妖精さんみたいなものだ。
実験に使う道具や試料の補充をしてくれるありがたい妖精さんだが、いつも眉間にしわを寄せた不機嫌そうな顔で男女問わず厳しく指導をするおっかない人というのが私の印象。
スミ―が実験室にいるときは妙な緊張感があり、私語も少ない。
私は教授の下についているのでスミーと接する機会はあまりないが、一度だけ、実験道具を取りに行こうと席を立った時、唐突に「俺についてこい」と言われたことがある。
返事を待たずに先を歩くスミーの背中を見ながら、これがリアル俺様ってやつかと妙に感動したものだ。
「スミーは今日休みだよ」
「珍しい。夏だけど、雪でも振るんじゃね?」
「今朝、何度起こしても目覚めなかったらしくて、救急車で運ばれたんだって。病院では普通に目覚めたらしいから、過労じゃないかって話だったけど。奥さんマジでびっくりしたみたい」
「うひゃー。起こしても起きないとか、もうそれ死んでますやん」
「いや、生きてるって」
「誰から聞いたん?」
「電話かかってきた。教授から鍵預かって研究室開けといて欲しいって」
「妖精さんマジ妖精さん。病院に居る時ぐらいここの事忘れてもいいんじゃね」
「性分なんじゃない? 凄いよねー」
ここに居ないスミー先生の事を思いながら、雑談しているとがたりと席を立つ音が聞こえた。
「カラム終わりました!」
「じゃあ、TLCで目的物質が入っている部分を見ていこうか」
40個ある試験官の中に入った液体をTLCで、何個目から何個目までに目的物質が入っているかを確認するのだ。
TLCの準備が終わると後は結果が出るまで少し時間がある。
「俺のまだ反応終わってないみたい。つーか、終わる日くるのかなぁ」
「まぁ卒業したら強制終了だし」
「卒業まで成果の出ない研究を続けるって、病みそうだわ」
「ご愁傷様です」
キーボードをたたくのを一瞬止めて両手を合わせると隣に腰かけた吉岡君が机に俯せた。
「NMRの予約って2時だろ。その頃にはエバポまで終わると思うけど、俺たちにできる事ってエバポの手伝いと洗い物くらい?」
「うん。まぁ、あんまりいる意味ないけど、キヨ君一人にするのもかわいそうだし」
「せやな。んじゃ、俺たちは休憩室で一狩りいっとく?」
「お! いいね、久しぶりだし。一クエスト三十分前後だから、ちょうどいいかも」
「えー! ちょっと待ってくださいよ。僕も一緒に一狩り行きたいです。どうしてもクリアできないクエストがあって……」
「キヨは狩りどころじゃなくね」
「そうそう。狩りは実験が終わってからね」
「よっしー先輩だって実験終わってないじゃないですか」
「……俺のは終わってないんじゃなくて、終わらないんだよ!」
「よっしー……。今日はよっしーの好きなドラゴン狩りに行こうか」
「気を遣わせてごめんな。でも今日はピンクのお猿が狩りたい気分」
「ああ、あいつウンコ投げてくるけど、大きなお尻が可愛いもんね」
「うん」
こうして私たちは待機中にしていたゲーム機を起動すべく、休憩室へ向かったのだった。
実験室の扉を開けて休憩室に向かう途中、夜ご飯を食べそびれていたことを思い出した私は、吉岡君に許可を取って遅い夕食を取る事にした。
しかし現実とは無情なもので、休憩室の私のテーブルには空のフライパンと少しソースのついた菜箸が残るのみ。
「美味しかったです。ごめんなさい」と書かれた小さなメモの上に、コンビニの梅おにぎりが一つ乗せられていた。
「……私の、ごはん……」
「夕食なんて、なかったんや」
へらりと笑う吉岡君の顔面に、無性に拳を突き立てたくなった。
暴力は何も生まない。余計に腹が空くだけだ、とのもっともな説得を受け、梅おにぎりは吉岡君と半分こして食べることにした。
すきっ腹に甘酸っぱい梅の味が食欲をそそり、大変美味しく感じる。
しかし、全然量が足りない! 悲しい!!
満たされない思いをぶつける様にモンスターをハントし続けているといつの間にやら、NMRの予約の時間がやってきた。
清道君が抽出し、エバポで固形化した物質を液体に溶かし、解析装置にかける。
清道君の試料は解析にかける前に水に落ちたので、これが初めての解析。
愛想はないけれどいつも的確なアドバイスをしてくれる妖精スミーが居なかったので、一時間くらいかかってしまった。
NMRで確認した後マススペクトルをつかって、分子量を測定する。
「良かったね。目的の物質みたいだよ。これでキヨ君の実験はひと段落って感じかな。後は結晶化を仕掛けて、結晶ができるのを祈るのみだね」
解析を終わらせて、後片付けをしていると時計はすでに午前五時を指していた。
私はどこか穏やかな気持ちで結晶化用の道具を準備する。
スミー無しで抽出から解析までやり遂げたのは初めてだった。体は疲れているが、心は達成感で充実している。
それは吉岡君も一緒のようだった。
「いやー。お疲れ様! ちゃんと終わって良かったな。それにくらべて、俺の実験はいつ終わる事やら。今日は諦めて帰るわー」
今度は吉岡君の実験も手伝おう。
あまり意識したことはなかったが、研究を共にする仲間がいるというのは良いものだと思った。
仲間って、大事。
心地よい疲労感と気怠さに一瞬意識が飛びかけるが、何とか意識を取り戻して清道君から試料を受け取る。
「……ねえ、キヨくん。私、聞くのがとっても怖いんだけど」
「はい? どうしたんですか先輩」
「この試料、重さは?」
「0.52mgでした」
静寂が、実験室内を包み込む。
吉岡君は口をあんぐりとあけて、天を仰いだ。
「ジーザス!」
いや、おまえ、仏教徒って言ってなかったっけ?
そんなどうでもいい突込みが脳裏を過る。
窓の外に視線を移すと、夜明け前の湿った空気を打ち払うように、茜色の太陽が山の向こう側からゆっくりと顔をのぞかせていた。
――もう、夜明けか。
「……ごめんね、キヨくん。結晶化にはね。最低でも1mgは必要なんだよね」
「ええぇぇぇ――ッ!!」
0.52mg入っているらしい、小さな試験官は透明で薄く黄色がかっている。
中は塵ひとつない綺麗な試験官に見えるが、この薄黄色が0.52mg分のサンプルなのだろう。
ダメ元で結晶化を仕掛けてもいいが、0.52mgという貴重過ぎる量だけに、私達だけで判断するのは危険だ。
「今日、また頑張ろうね」
私はできるだけ、聖母の様に穏やかな笑みを浮かべるよう心掛けた。
「ひゃっほう! 俺たちの戦いはまだまだ続くぜ!」
吉岡君は不思議なおどりを踊っている。
清道くんの精神力はごっそり持って行かれたようだ。
「僕、しばらく家から出たくないです」
徹夜明けなせいかテンション高めな吉岡君と私で清道君を慰めつつ、研究室の戸締りをして、各自短い睡眠をとるために家に帰る。
「先輩、太陽が、眩しいです……」
「大丈夫。そのうち慣れるから」
「ひゃっほう! 俺たちの戦いはまだまだ続くぜ!」早起きな蝉の鳴き声とテンション高めな吉岡君の声が、耳に張り付いて離れなかった。
はたして、卒業という打ち切り以外で、私たちの戦いが終わりを告げる日はくるのだろうか。