第8節 矛盾
進藤は背伸びをしながら自分の車に戻った。帰りに少しでも涼しく帰りたいと思い、換気をしにいったのだ。携帯電話に友人からの不在着信が2件あった。コールバックする。久しぶりの声を聞きながら、進藤の頭からは監督として練習試合に来ていることが消えていた。
メールを打ちながらグラウンドに戻ると高城高校との試合が始まっていた。まずかったかな、と思いながら、自分の帰りを待たずに試合が始まっていたことに安心した。高城のテントでは、熊田が右足のくるぶしを左足のひざに乗せてふんぞり返っていた。
ピッチに目をやると、不思議な格好をした選手がふたりいた。高城高校の黒いユニフォーム姿だが、黄色のビブスを着けてプレーしている。
「あの黄色いビブスを着けている選手はなに?」
前半を終えて戻ってきた部員に訊いた。
「高城高校からの貸し出しです」
司が悔しさ交じりに答えた。
試合前、9人の空見に対し、高城から11人対11人でやるためにふたりの選手を貸すという申し出があったのだ。
空見に選択の余地はなかった。背後では熊田が睨みをきかせていた。申し出とは言いつつも、それは半ば強制的なものだった。
人数ハンデがないところで対等に試合をする。しかし、それは明らかに表向きの理由だった。テントの下で空見学園高校の選手が休憩をしているとき、黄色いビブスを着たふたりは高城高校のテント下にいた。急造とはいえ、彼らに11人でサッカーをしようという気はさらさらないようだった。
それは後半が始まると明らかになった。
高城高校のテントから直接ピッチに戻ったふたりは空見の選手をまるで無視したプレーに走った。
彼らはふたりだけでプレーしていた。パスを出すのは黄色のビブスのチームメートに対してのみ。それができなければどれほど状況が悪くてもドリブルで仕掛けた。空見の選手には決してパスしようとしない。
守備もまったくしなかった。チェイスする動きは見せるが振りをしているだけだった。無理なドリブルでボールを奪われても奪い返そうとはしない。本気になるのは攻撃のみ。しかも空見からのパスが少しでもずれようものなら、自分の責任ではないと言わんばかりに追おうともしなかった。
人数は対等。だが、まるでサッカーになっていなかった。ボールを追わないから組織的な守備もできない。むしろその存在は邪魔だった。ボールを追った空見の選手が黄色いビブスの選手に進路を邪魔されることすらあった。
進藤の胸に複雑な思いが交差した。
それでも空見の選手がふたりにボールを出しているからだ。
彼らがなぜ、それでもふたりにパスしているのか進藤には理解できなかった。ふたりにパスを出してしまえばボールは二度と戻ってこない。それがわかっているのなら、ふたりを無視して自分たちだけでプレーしたっていいはずだ。
しかし、空見の選手たちはそうしなかった。ふたりのポジショニングがよければ迷わずパスを出した。そして相手ゴール前に向かって走り出した。それはサッカー選手としての本能のようにも見えた。彼らがゴールを挙げてもチームの1点であることに変わりはない。彼らのプレーはそう言っているようだった。
進藤の胸に原始的な疑問が浮かんだ。
彼らはなぜ、サッカーをしているのだろうか。
高城との試合は前2試合以上に悲惨な結果だった。0対18。選手たちは破り捨てられたボロ雑巾のようだった。
進藤はその姿を黙って見ていることしかできなかった。
部員たちは高城高校のテントで力なくあいさつして戻ってくると、無言で帰り支度を始めた。
彼らは泣いているようにも見えた。噴出す汗に混じって別のものが目を濡らしているように見えた。
だが、それを確認する術を進藤はもっていなかった。進藤は校門を出ると、彼らの背中を黙ったまま見送った。
進藤は各高校の監督に挨拶をしようとグラウンドに戻った。
次の瞬間、進藤の目に異様な光景が飛び込んできた。
高城高校の選手がピッチに広がって並び、ダッシュを繰り返していたのだ。
その姿を見つめている熊田に進藤は背後から声をかけた。
「今日はありがとうございました」
熊田は振り返って進藤のことを認めると、すぐにピッチに視線を戻した。
「ああ。ご苦労様」
それ以上、会話は続きそうになかった。
「あの、今はなにをされているのですか」
そう尋ねたのは監督としてなにかを吸収したいという思いからではなかった。
「見てのとおりダッシュですよ」
進藤が「なぜ」と言う前に熊田は続けた。
「最後の試合で打たれたシュート×5本のダッシュを課すと生徒に伝えておいたんですよ。許したシュートは6本。だから30本」
最後とは、空見との試合だ。
「それから、あのふたりには別の課題を与えていたんですよ」
熊田が目を向けた方を見ると、黄色いビブスを着たふたりがいた。
「あのふたりにはシュートを5本ずつ打ってこいと言ったんです。達成できなかったら打ったシュートの本数を差し引いて、かける5本をチーム全体に課すと。それぞれ4本と2本ですから、30本に20本をプラスして合計50本。これでよろしいですかな」
そう言うと、これで話は終わりといわんばかりに熊田は背を向けた。
進藤はハンドルを握りながらグラウンドの光景を何度も思い返していた。
試合のことではない。高城高校のダッシュのことだ。
最初の態度も気に喰わなかったが、練習試合をした後になにかに当てつけるようにダッシュをさせている熊田の気が知れなかった。しかも他校のグラウンドで、整備しようとする佐波南の生徒を待たせておいてまでそうしている。そこまでする意味が進藤には理解できなかった。
信号が赤になりかけたのを見て、進藤は慌ててブレーキペダルを踏んだ。停止線を越えたところで車が止まる。横断歩道で信号待ちをしていた中年女性が怪訝な目を向けてきた。
そのとき、進藤の心の内に別の怒りが芽生えた。論理の矛盾に気づいたのだ。高城の選手たちはどちらに転んでもダッシュをしなければならなかった。高城が空見に許した6本のシュートは高城の2選手が放ったものだ。仮に彼らが1本もシュートを打てなかったとしても、10×5本、50本のダッシュがチームには課せられることになる。
熊田がなぜそんなことをしたのか。考えられる理由はひとつしかなかった。
空見はダシに使われたのだ。熊田は、空見とまともに試合をするつもりなど端からなかった。ふたりの選手を強制的に貸し出して試合をぶち壊した挙句、どちらに転んでも高城の選手がダッシュしなければならない課題をチームに与えた。つまり、熊田の頭の中には無駄な時間をどうにかして有効利用することしかなかったのだ。
無駄――。
ならば、空見の選手たちのプレーはすべて無駄だったというのか。彼らはボールが返ってこないとわかっていてもなお、高城のふたりにパスを出し続けた。プライドを踏みにじられながらも余計な感情を捨て去り、ゴールを奪うためにベストな選択だと判断して。
違う。プレーだけではない。熊田は空見の選手たちの存在自体が無駄と言っているも同然だった。チームプレーを壊しても構わないからとにかくシュートを打てと言ったのだ。無駄なものは壊しても構わない。そもそも壊れているものに無駄もなにもない。進藤の脳裏に、部員のうなだれる姿が蘇った。
進藤は奥歯を噛みしめた。ハンドルを握る手に力が入る。
俺はなにをやっていた。なにを見ていた。
9人じゃサッカーはできない? そんなこと誰が言った。4・4・2? 4・3・3? 4・2・3・1? これでは自分も熊田と同じではないか。サッカーをしろと言うのではなく、シュートを打てと言った、選手を単なる駒としか見ていないようなあいつと。
サッカーをしているのは誰だ。記号化された数字か? そうじゃない。サッカーをしているのは人間だ。しかも、まだこの世に生まれて十数年しか経っていなくて、たぶん、恋なんかと同じで人生の中でサッカーの占める割合がものすごく大きいはずのあいつらだ。帰り際にあいつらが見せたのは汗なんかじゃない。涙だ。
進藤は青信号とともにアクセルを踏み込んだ。