第6節 日曜日
進藤がサッカー部に来て1週間が過ぎた。
「なんかやりづらいよな」
部室で着替えながら大祐が言った。
進藤と部員の距離は初日から変らないままだった。初日こそ途中で帰った進藤だったが、翌日は最初から最後までグラウンドにいた。しかし、だからといってなにをするわけでも、なにを言うわけでもなかった。最初と最後にあいさつはするが、それ以外は古ぼけた椅子にただ座っているだけだった。
様子を見ているというわけでもないようだった。透は練習中に折を見て何度となく様子をうかがってみたが、視線はボールを追っているもののその目の奥になにかを感じることはなかった。
「ショックだったんだろうな、相当」
陸が力なくつぶやいた。話の筋からいって部員に非があるわけではなかったが、どことなく後ろめたい気持ちは透にもあった。クラスで回収したプリントを職員室に届けに行ったとき、進藤の机に練習マニュアルが2冊立てかけられていたのを見ていた。
おそらく先生は経験がないなりにいろいろ考えてくれていたのだろう。しかし、サッカーは11人でやるという大前提がいきなり崩れてしまった。予期せぬ状況になにもかもを無意味に思ってしまっていても、仕方ないことなのかもしれない。
「またいなくなっちゃうのかな」
裕也が部員全員の気持ちを代弁した。「いなくなる」という表現に不安を一層掻き立てられた。
進藤が来てからの1週間はそれまでとなにも変わらない時間になった。
進藤は最初と最後にあいさつをするだけで練習についてなにかを言う素振りすら見せず、だからといって部員たちからなにかを求めるといっこともなかった。
翌日、朝錬を終えて教室の席に着くと後ろから肩を叩かれた。振り返ると井上がいた。井上とは同じ中学校出身で2年生のとき同じクラスだった。
「どう、新しい監督は。今度は長続きしそう?」
井上が屈託のない笑顔で訊いてきた。
「うん」
透は消え入りそうな声を自覚して答えた。
「マジかよ、まさかまた? でもしゃーないか、9人しかいなんじゃ」
井上はずけずけと物を言うわりにはそれが嫌味に聞こえないタイプだった。
「だから言ったんだよ、一緒に野球部に行こうぜって。俺、この前の練習試合で初めてホームラン打っちゃってさ。しかもサヨナラだぜ。内角のストレートをこう肘をたたんでさ。打った瞬間、いったって確信したよ」
井上はホームランを打ったときの状況をその場で再現してみせた。打球を追う目は窓の向こうに広がる青空に向かっていった。
井上は今回の決定でハンドボール部から野球部に移っていた。ハンドボール部ではレギュラーではなく、去年1年間は試合にほとんど出ていなかった。その意味では学校が意図したところの典型例といえた。
「透も野球部に来てれば、この感動を共有できたのにな。ようやくレギュラーっていっても11人そろわないんじゃ意味ないだろ」
透はその屈託のない笑顔を見ながら、他の部員が他の部に移っていたらどうだったかと考えた。去年1年間で身長が20センチ近く伸びた時田兄弟にはバレーボール部から誘いがあった。190センチ近いふたりのスパイクやブロックは対戦相手にとって脅威になるだろう。足の速い裕也は陸上部から誘いがあったと聞いていた。
「じゃあな。またホームラン打ったら教えてやるよ」
井上は肩を叩いて、上機嫌で自分の席に戻っていった。井上が甲子園でプレーすることはないだろう。ましてやプロになることもない。しかし、練習試合とはいえ自分のホームランで勝ったという記憶は高校時代のよき思い出としていつまでも心に残るはずだ。そして、それをもたらしたのが今回の学校の決定なのだと考えたとき、透は一方的にそれを否定できる自信がなかった。
終業のチャイムが鳴った。午後になると灰色の雲が現れるようになり、授業が終わる頃になると空は灰色一色に塗りつぶされていた。天気予報によれば明日は一日雨になるらしい。
「わりぃ、わりぃ、ホームルームが長引いた」
大祐が到着して9人全員がグラウンドに揃った。進藤はまだ来ていない。司は誰も座っていない監督椅子に一瞬視線を走らせると気を取り直すように言った。
「知ってのとおり日曜には4校対抗戦がある。そこに向けて今日からはより実践的な練習メニューにしていこう。陸と海と友則、透が守備に入って、攻撃は大祐、功治、裕也と隆。守備側は陸か海がサイドに引っ張りだされたときのカバーリングとボールを奪った後の切り替え、攻撃は裕也と隆がサイドを突破した際の中央でのフィニッシュの精度。センタリングが入るときは功治も必ずゴール前に入っていくこと、いいな」
司が功治を見ながら言い終えた。
「はい」
功治が気合いのこもった返事をした。
4校対抗戦は、年に一度、5月下旬に行われる練習試合だ。参加校は高城高校、大島高校、佐波南高校に空見を加えた4校。前々監督の藤田が高城高校の監督の教え子だったという縁でスタートしたが、なぜか今年も空見は呼ばれていた。レベル的には空見が一番下で当初は力の差を見せ付けられていたが、昨年は五分に近い結果を残している。藤田監督が学校の決定に強行に反対し部員を連れて転校までしたのは、ここで手応えを感じていたからでもあった。
4校対抗戦は、9人になった空見にとって初めての練習試合だった。4月下旬のインターハイ支部予選で、チームは混乱のまま1回戦で敗退している。その意味で部員たちには、たとえ勝利の望みは薄くてもこの4校対抗戦で心機一転したいという気持ちがあった。
司の言葉を聞きながら、透は身が引き締まる思いがした。
「気合い入れていくぞ」
司が手を打ち鳴らすと弾かれたように全員が散っていった。
司が笛を吹いて練習が始まった。功治から左サイドの隆にボールが送られる。透は隆にアプローチした。隆が功治にボールを戻して走り出す。透は隆についていきながら首をひねって功治とトップに入る大祐のポジションを確認した。功治が右サイドの裕也にボールを振ると方向を変えて中に絞っていった。
裕也が大祐とのワンツーで突破した。海が引っ張り出される。透は陸がスライドして生まれた背後のスペースに入った。裕也からのセンタリングは透の頭上を越え、ファーサイドから入ってきていた隆が頭で捕らえた。隆のヘディングシュートは司の正面に飛んだ。
「透、ファーサイドのケアはしっかりな。隆もヘディングは叩きつける」
「ごめん」
透は司に向いて言った。
「いちいち謝らなくていい。それよりも切り替えを速く。マイボールになったらすぐにポジションとれ」
「はい」
あまりの迫力に思わず敬語になった。目が合った司が小さくうなずいた。
「じゃあもう一回。陸と海はトップに簡単にクサビを入れさせるな」
「おう」
海が大きな声で応えた。
物足りなさは否めない。部員がもう少しいれば、同じ形式でも6対6あるいは7対7でより実践に近い形でできるようになる。せめてあとふたり。あとひとりずついるだけで守備も攻撃ももっとバリエーションを増やせるようになる。それでも練習はこれまでにないいい緊張感の中で続いた。
隆からセンタリングが上がった。左サイドには陸が引っ張り出されている。ゴール前で透は大祐に体を寄せながら跳んだ。ふたりの上を越えたボールを司がキャッチする。着地した透は低い姿勢から体を反転させて前に踏み出した。功治の裏を取る。上半身だけで半身になり司にボールを要求した。司からのグラウンダーのボールを右インサイドでコントロールした。
「いいぞ、透。ボールを受ける前にもう一回周りを確認な」
その日は2回の休憩を挟んで、この練習を続けた。休憩のたびにプレーについて話し合いながら連携の感覚を確認した。
「じゃあ次、ラストにしようか」
司が言った。いつの間にか周囲は暗くなっていた。ふと見ると進藤が監督席に座っていた。
最後は陸のマークを外した大祐が右足でゴールを決めた。
「集合」
司の掛け声で部員が進藤の周りに駆け寄った。
「みんな、お疲れ様。暗くなってきたから帰りは気をつけて」
進藤はここ1週間続けてきた同じ言葉を繰り返した。
輪が解ける。進藤は学校に戻るために土手を登っていった。
「司、日曜日のこと先生に伝えた?」
透は隣を歩く司に尋ねた。
「いや、まだ言ってない」
司が目を伏せた。
「言っておいたほうがいいよね、やっぱり」
「まあ、な」
司は目を伏せたままだ。
「僕、言ってくるよ」
透は司の返事を聞かずに振り返ると土手を駆け上っていった。
「先生」
声をかけると進藤が左足で体を支えるようにして振り返った。
「どうした、桟」
「あの先生、日曜日はどうされてますか」
「日曜? 日曜日になにかあるの」
「はい。佐波南高校で練習試合があるんです。佐波南と大島高校と高城高校とうちの4校で」
「練習試合か。何時から?」
「朝8時からです。僕たちは自転車や電車で行きますんで、もし先生が来られるんでしたら現地集合でお願いできればと思うんですけど」
進藤が一瞬思案顔になった。
「いいよ、大丈夫。行くよ」
「ありがとうございます」
「うん、がんばって」
みんなのところに戻ると大祐が訊いてきた。
「で、どうだった。来るって?」
「来るって。現地集合でいいって」
「来るんだー」
裕也が嬉しそうな声を上げた。
「てか、当たり前っちゃ、当たり前だけどな」
隆が立ち上がりながらズボンを引き上げる。
「で、なんか言ってた、他に?」
海が汗を拭いながら訊いてきた。
「うん、その、がんばってって」
「ひょー、言うねー、あの先生も」
大祐が目尻を思いっきり下げた。
「がんばってだってさ。いいねー、俺は嫌いじゃないなー、そういう人。自分がなにもしてないこと自覚してるってわけだ」
「結局他人事ってことだろ」
司がむき出しになった脛をさすりながら吐き捨てた。
「まあいいじゃん。我が物顔されるよりは。当日はプレーで度肝を抜いてやろうぜ」
大祐が威勢よく立ち上がった。
「そんなことしてなんになる」
「いいじゃんもう、司。大祐の言うとおり、俺らはいつもの俺らどおりやればいいじゃん。先生も来てくれるって言ってるんだから」
後ろで小気味よい音がした。裕也が隆を睨む。
「なんで叩くんだよー」
「なんでもさ」
裕也と隆が着替えながらじゃれあい始めた。1年生の功治と友則がその光景をほほえましく見ていた。