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9人サッカー  作者: 五味幹男
第1章
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第5節 染み

 玄関には、見慣れたふたり分のフットサルシューズが脱ぎっぱなしになっていた。「ただいま」と奥の居間に声をかけて階段を昇っていく。部屋のドアを開けるとクラッカーが続けてふたつ鳴った。


「よっ、監督のご帰還だ」

 浦和レッズのユニフォームを着て、黒縁眼鏡の上に白と赤の格子柄のバンダナを巻いた一平が真面目腐った口調で言う。


「先にお邪魔してまーす」

 一平の隣で、ひじをついて仰向け姿になっている奥田宏がテレビ画面を見つめたまま言った。


「ずいぶん早いじゃんか」

 約束の時間より30分も早い。進藤は鞄をおくと、クラッカーの残骸を手でよけて腰を下ろした。


「あったりめーだろ。お祝いの席で主役より遅れてくるやつがどこにいるってーの。こういうときは主役が最後って相場は決まってるんだ」


 思わずため息が漏れた。


「あれー、おつかれちゃんかー、直人君は」

 一平がさらに声のトーンを上げて言う。

「まあね」

 進藤は後頭部を背中に擦りつけるように首を回した。


「で、どうなのよ」

 一平が目をキラキラさせて訊いてくる。

「どうったって。まあ周りの人たちもいい人たちそうだし、なんとかやっていけそうだよ」


「ちがーう」

 一平が言下に否定してきた。

「そんなことじゃねーよ、俺らが聞きたいのは」

「どうだったよ、サッカー部は。肝心なのはそこだろ」

 いつのまにか仰向けになっていた宏が顔を逆さにしたまま訊いてきた。


 なんと答えるべきか言葉を探した。


「まあ初日はこんなもんかなって」

 わざとらしく背伸びをしながら答えた。


「なんだよそれ。それがサッカー部監督となった男の言葉かよ。他にもっとあるだろうよ、もったいぶらずに聞かせろよ」

「そうそう、それじゃ記者泣かせの監督になっちまうぜ」

 顔を逆さにしたまま宏が言った。宏がアルゼンチン代表のユニフォームを着ているのを見るのは初めてだった。今日という日に合わせて新調したのだろうか、床に広がった天然パーマのかかった髪の毛に雰囲気がよく似合っている。


「なんてったって今日は、我らが日本サッカーゲーム愛好家連盟初となる監督が誕生した記念すべき日なんだからさ。フロンティアを切り拓いていく者として後進への激励を兼ねて所信表明してもらわないと」

 一平が大げさな表現であおってくる。


「日本サッカーゲーム愛好家連盟」とは、進藤と一平と宏の3人で結成した、サッカーゲームを愛好する集まりだ。日本が世界に誇るべき文化であるゲームにおける「サッカー」を機種を問うことなく極めていこうということを目的としている。とはいえ、今となってはそれほど仰々しいものではなく、3人でこうして集まっては日々のくだらないことや大学時代に思い出話に花を咲かせながらサッカーゲームに講じているというのが実態だった。


 一平と宏とは、大学の新歓コンパで知り合って以来の仲だった。Jリーグは小学生のときに開幕している。3人ともサッカーの経験はなかったがサッカーが好きだった。カクテル光線の中で華々しくスタートしたJリーグは、バブルが崩壊しどことなく世の中に暗さを感じていた小学生に、それが具体的になんなのかはわからなかったが、未来への道筋のようなものを確かに見せてくれた。


「なに黙ってんだよ、なんかしゃべれよ、直人」

 一平が就任したばかりの日本代表監督の言葉を待つかのように目を輝かせた。


「ま、プレーでもしながら話してもらおうぜ」

体を起こした宏がポテトチップスのかけらがついた指を舐めた。コーラをひと口飲む。


「直人、今日は監督就任記念だから最初でいいよ。どっちと先にやる?」

 プレーの順番はいつもジャンケンで決めていた。

「じゃ、宏で」


 これまでの対戦成績に分がある宏を指名したことに心の弱さが表れていた。これではやる前から勝敗は決まっているようなものだ。


 案の定、進藤は宏との初戦を0対4で落とした。一平との対戦では結果はさらに悲惨だった。0対6。近年でも記憶にないほどの惨敗だった。


「なんだよ、マジで疲れてんのか」

 一平が尋ねてきた。宏と一平の試合は、集中しきれない一平を宏が冷静に3対1で退けた。


 ゲームの戦績はさんさんたるものだった。進藤は10戦して勝ちはゼロだった。


「おいおい、いくら疲れているからって、監督としてこれはまずいんじゃないか」

 いつになく意図したプレーが決まった一平が鼻息を荒くして言った。

「俺は今日、冴えてたぜ」

 宏は満足げに白い歯を見せた。


 ふたりとの時間は最後まで微妙な雰囲気のまま終わった。


 ふたりが帰り支度を始めた。学生時代と違ってそれぞれに明日の仕事がある。朝まで遊んでそのまま仕事に行けるほどみんな若くない。


 進藤は2台の車が連なって最初の角を曲がるまで見送った。ため息がこぼれた。ほっとした気持ちと、平日なのにわざわざ自分の監督就任を祝いに来てくれた親友に楽しい話をしてやれなかった情けない気持ちの両方がないまぜになったため息だった。


「あれ、一平も宏ももう帰ったのかい」

 引き戸の奥に祖母が立っていた。80近いというのに背中がまっすぐ伸びている。

「お茶漬けでも食べていったらいいのに。おまえは食べなさんな、直人」

「おれもいいや。疲れたから寝る」

 サンダルを脱ぎながら進藤は答えた。


 シャワーを浴びてベッドに横になってみたがとても寝付けそうになかった。


 出鼻を挫かれるとは、まさにこういうことを言うのだと思った。


 確かに未経験かもしれない。だけど俺は、学校に請われてサッカー部の監督になったのだ。それがふたを開けてみたらどうだ。部員は9人しかいないじゃないか。


 面接のとき、教頭はそれについてひと言も触れなかった。部員数の制限についても聞いた覚えはまるでない。そんな聞き慣れない言葉が出てくればその場で間違いなく質問していたはずだ。その記憶がないということは、教頭がそれを言わなかったなによりの証拠だ。応接室では気が動転していて自信がもてなかったが、落ち着いたいまではそれがはっきりわかる。


 おかげで散々な思いをすることになった。


 一平と宏になにも言えなかった。言えるわけない。9人しかいないサッカー部のことなんて。


「9人? それじゃサッカーなんかできないじゃん。面白すぎるよ、直人」


 一平にそう笑い飛ばされるのがオチだ。


 進藤は頭を掻きむしった。今日と同じように3人が集まった2週間前のことが蘇る。


 見ていなくても自分の表情はわかる。あのときの自分は得意満面だった。完全に舞い上がっていた。自分が高校サッカーの監督になるということに。そして、ふたりの前で意気揚々と話し始めた。


 知ったふうな顔で戦術論を披露した。それぞれの戦術的特徴と弱点、相対したときの相性など、ふたりにとってはいまさら解説されるまでもないことを、さも自分だけが知っているかのように話し続けた。ふたりは黙ったままだった。話の途中で相槌を打つだけだった。なにかに憑りつかれたように話し続けた。


 そこにあったのは優越感だった。ゲームではない、実際の人間で自らの戦術を具現化できるという、一平と宏にはおそらくこれからも叶わない立場に自分が立てるということに、えもしれぬ快感を覚えていた。


 進藤は、自分が監督になったらFCバルセロナのようなサッカーをしてみたいと思っていた。


 欧州三大リーグのひとつ、スペインはリーガ・エスパニョーラの雄。政治的な迫害を受けた過去を持つカタルーニャ地方において、どんな時代においても中央政府に対するプライドであり続けた。リーガ・エスパニョーラにはもうひとつ、レアル・マドリッドという世界に名を轟かせるビッグクラブがあるが、こちらは常に中央政府の寵愛を受けてきたという点で、両者の積み重ねてきた歴史の価値は決定的に異なる。理不尽な論理にも決して屈しなかったその姿勢は、守備的になりつつあった潮流に抗うかのような攻撃サッカーで、現代サッカーに大きな風穴を開けた。


 近年は一時期ほど相手を圧倒できなくなってきているが、現時点において、彼らが世界最高のクラブであることは多くのサッカーファンが認めている。進藤も、特にエトーやアンリがいた初期のチームには強い思い入れがあった。


 基本布陣は4・2・3・1。当初はJ1クラブでもきちんと実践できているところが少なかったことから察するに、難易度が高いフォーメーションであるのだろうが、やるからには遥かなる高みを目指したい。


 4・3・3、あるいはよりベーシックな4・4・2から少しずつ変化させていってもいい。試行錯誤しながら小さなチャレンジを少しずつ積み重ねながら、試合のほんのわずかな時間帯でふとした瞬間から4・2・3・1が機能する。つかんだと思ったら壊れてしまいそうな脆さ。そんな感覚の中で生まれたゴールは美しいに違いない。きっとバルセロナのそれと比べても遜色ないくらいに。そして、それが実現したとき、ピッチ脇のベンチは最高の特等席となる。


 だが、それもすでに叶わないことが明らかになった。


 進藤は天井を見た。歪んだ唇が幾重にも連なったような染みが、自分を嘲笑しているように見えた。進藤は頭の下から枕を引き抜くと投げつけた。


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