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9人サッカー  作者: 五味幹男
第1章
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第4節 動機

 スロープを下りながら、進藤は来るときは半分以上残っていたペットボトルが空になっていることに気づいた。


 校門で二人連れの女生徒とすれ違った。「さようなら」と声をかけてくる。進藤は自分の心にうずまくものを悟られないように小さな声で「さよ

うなら」と返した。


 職員用の玄関を抜けて職員室を目指した。自前のサンダルはまだ用意していない。靴下との相性が最悪な緑色のスリッパを蹴り投げたい衝動に駆られた。


 教頭は職員室にいなかった。椅子がきちんと整頓された机が主の長い不在を示している。


「あの、教頭先生はいまどちらに」

 近くにいた、名前もまだ知らない女の先生に尋ねた。

「たぶん校長室だと思いますけど」

「そうですか、ありがとうございます」


 進藤は無理やりに微笑を顔に貼り付けてお礼を言うと職員室を出た。頬の筋肉が引きつりそうだった。


 教頭が帰ってくるのを職員室で待っている自分の姿はまったくイメージできなかった。歩き出した足は止まらない。花の絵が飾ってある廊下の突き当りを左に曲がると、壁から突き出た「校長室」の札が見えた。廊下の窓からは白い光が差している。


 進藤は校長室の前に立った。ドアは引き戸ではなく、押し開くタイプだった。他の部屋のドアとは異なる、校内の雰囲気に似つかわしくない重厚な木製のドアだった。


 校長と教頭が一緒にいるのは進藤にとっては好都合だった。面接を受けたとき、その場にふたりともいたのだ。


 進藤がドアノブに手をかけようとした。そのとき、校長室のドアが内側から開かれた。


 教頭は進藤を見ると一瞬だけ目を見開いた。しかし、すぐに平静を取り戻した。

「これは驚いた。進藤先生ではないですか。どうしましたか」

 部屋の奥からこちらを窺う気配がした。

「どうしましたか、教頭先生」

「いえ、なんでもございません」


 教頭は振り返って言うとすぐに顔を戻した。目で訴えてくる。教頭は進藤がなにをしに来たのかわかっているようだった。

「それでは失礼いたします」


 教頭は音を立てずにドアを閉めた。

「職員室ではなんですし、応接室でお話しましょうか」


 教頭は抑揚のない、板に貼り付けたような話し方をした。面接のときも同じような話し方だった。


 教頭は応接室のドアを開けると先に進藤に入るように促した。進藤がどこに座ろうかと迷っていると上座を示して座るように言った。


 細長いガラステーブルを挟んで教頭と向かい合った。先に口を開いたのは教頭だった。


「いかがでしたか、サッカー部は。みんないい子たちでしたでしょう」

 誇らしげというわけではなく、相変わらず感情が伴わない言い方だった。


「ええ、しっかり挨拶してくれました」

「そうですか、それはよかった。礼儀は本校が最も大事にしていることのひとつですからね。顔合わせが無事に済んだときいて私もひと安心です」


 違う。聞きたいのはそんなことではない。


「サッカー部は比較的優秀な子が集まっている部ですからね。私たちも期待しているんですよ」

 教頭がサッカーではなく勉学に期待していると言っているのは明らかだった。


「でも9人ではサッカーはできません」

 進藤がそう言うと、それまで打っても響かない鐘のようだった教頭が初めて表情を崩した。大げさに、でも余裕たっぷりに。


「進藤先生はご存じないですか?」

 予期しない切り返しに、思考が一瞬止まった。

「なにをですか」


 教頭の笑顔が気味悪く歪んだ。

「日本サッカー協会のサッカー競技規則第3条ですよ。『試合は11人以下の競技者からなる2つのチームによって行われる。チームの競技者のうち1人はゴールキーパーである。いずれかのチームが7人未満の場合、試合は開始されない』。競技規則の15頁に書いてあるのですがご存知ないですか」


 いきなり出てきた「日本サッカー協会」「競技規則」という言葉に進藤は頭が真っ白になった。


「生徒には協会から写真付きの選手証が発行されています。それはつまり、彼らは協会が管理している選手であり、競技規則が適用される対象だということです。『7人未満の場合、試合は開始されない』。これはつまり、8人以上いれば試合はできるということです。よもや本校のサッカー部監督である進藤先生がそれを知らないということはないと思いますが」


 教頭は勝ち誇ったような表情で言った。


 なにも言えなかった。あまりに段取りのよすぎる教頭の物言いに驚いただけではなかった。サッカーは11人でするもの。それ以上、それ以下でも試合が行われることはないと信じ込んでいた自分自身に恥ずかしさを感じたことも言葉を失った理由だった。


「本校は平等な部活動をしていると面接でもご説明したはずですが」


「えっ」という視線を向けると教頭はやれやれという表情で話し始めた。


「本校の生徒は各学年135名。進級後まもなく引退する3年生を除いた1、2年生の合計は270名です。それに対して部活動は体育系・文化系合わせて30あります。文武両道を掲げる本校では生徒はいずれかの部活動に所属していなければなりません。270を30で割ると9名。これが本校の掲げる『平等な部活動実現』のための基本方針だと面接の際にご説明したはずですが」


 していない。「平等な部活動」と聞いた覚えはあるが、詳細についてはひと言も言っていない。だが、いまさら蒸し返したところでどうにかなるものではなかった。騙された、という思いが脳裏をよぎった。


 教頭はかまわずに続けた。

「平等な部活動は本校が日本の高等教育界に提唱する新しい勉学と部活動のあり方です。これまでの生徒の希望に任せたやり方では部活動そのものに偏りが出てしまいます。たとえば野球部に100人の部員が集まったとして、卒業までにただの1回も公式戦に出場できない生徒がいたら、彼の部活動が充実していたと言えますか。言えないでしょう。いくつかの部に偏ることなく、部活動が30あるなら30すべての部が等しく活発に活動する。部員が9名しかいないのならば常にとは言えなくても輝ける瞬間はきっとあるはずです。それに偏った活動は部活動の差別にもつながります。人間の活動に上下はありません。たとえば経済活動にしても右肩上がりの産業だからいいわけではなく、下火だからといって悪い産業ではないのと一緒です。私たちは生徒の身近なところから正しい価値観を養っていきたいのです。みんながやっているからいいことで楽しいこと。みんながやってないからつまらなくて意味のないこと。勝ち組・負け組といったくだらない言葉が生まれた下地にもそうした歪んだ価値観があったのではないでしょうか。そう思いませんか、進藤先生」


 人生訓にまで発展した内容に返す言葉を失うどころか、探す気力すら失っていた。なんなんだ、この世界は。この論理は。教育論とはこういうものを指して言うのか。子どもを育てるということはそんなにも難しいことなのか。かつては自分もこうした大人の思惑の中にいたのかと思うと寒気がした。


「ではこれで進藤先生にもご理解いただけたということで、サッカー部をよろしくお願いしますね」


 そう言うと、教頭は椅子に座ったままの進藤を残して出て行った。


 応接室にひとり取り残された進藤は立ち上がれなかった。

 うなだれて両手で頭を抱えながら今日までのことを振り返る。そもそも最初から話が出来すぎていた。進藤は自分のバカさ加減を呪った。


 見慣れない番号から電話がかかってきたのは4月の中旬のことだった。満月がきれいに浮かんだ夜のことだ。電話に出ると、電話の相手は聞き覚えのある転職斡旋会社を名乗った。


 大学卒業後に就職して2年ほどしたときに登録した会社だった。実際にそこで転職することはなかったが、担当者と何度か会ったことがあった。


 電話の先の相手は言った。

「ある私立高校が地理を教えていただける教員を探されているのですがご興味ございませんか。進藤様は教員免許をおもちですよね」

「ええ」


 確かに教員免許は持っていたが、まるで興味をそそられなかった。

 しかし、次の言葉を聞いて不意に心を揺さぶられた。自分でも驚いてしまうくらいに。


「一緒に、サッカー部を任せられる方を探しているんですよ」


 進藤は3月末で勤めていた会社を退職していた。


 日本経済は「失われた20年」とリーマンショックからまだ立ち上がれずにいた。リーマンショックから5年が経ったが日本の景気は一向に上向く兆しを見せず、企業の基礎体力を確実に奪っていった。


 進藤が勤めていた会社も例外ではなかった。会社は機械部品や素材の貿易を手がけていたが長引く円高もあり、遂に人員整理に着手せざるをえなくなったのだ。


 リストラは年齢や役職に関係なく行われた。それに対する社員の反応も様々で、会社になんとかしがみつこうとする者もいれば、見切りをつけて早々に転職していく者もいた。


 そうした中、進藤は退職勧告にすんなりと応えた。仕事が二の次になったことで会社の雰囲気は一変してしまっていた。仕事は好きだったが、ここである必要はないと感じるようになっていたのだ。わずかばかりだが蓄えもあったし、景気が上向いてくれば別の会社に再就職できるだろうと思っていた。独り身の気楽さもあった。進藤は気持ちばかり上乗せされた退職金をもらって退社した。


 進藤が少しばかり長い休暇をもらった気持ちで都内のアパートの契約を残したまま祖母の家にしばらく身を寄せたのは、4月に入ってすぐのことだった。中学生のときに亡くなった祖父のお墓参りを随分としていなかったことがずっと心に引っかかっていた。幼き日の思い出が詰まった日本家屋には祖母がひとりで住んでいた。


「ちょっと考えさせてくれませんか。明日また連絡します」と言って電話を切った進藤は不思議な思いに駆られていた。退職したタイミングでかかってきた電話。しかもその転職斡旋会社に登録した時期は半年ほどだったが祖母の家に住んでいたことを思い出した。電話の相手は明言しなかったがその高校は近隣であることを匂わせていた。そしてなによりサッカーだ。進藤は巡り合わせのようなものを感じた。


 プレー経験はないが、サッカーは昔から好きだった。Jリーグの試合も意識的によく見ていたし、代表チームの動向もチェックしていた。日本代表が世界で勝つために戦術やプレーをどうしていくべきかという持論もあった。


 もちろん、だからといって監督になりたいなどと思ったことはなかった。そうしたことはあくまでサポーターの域での話だ。選手の目線と同じ高さに立ったものでは決してない。


 それでも惹かれた。選手が立つ、あのピッチのすぐ脇に自分が立つ。いったん頭の内側に入った「監督」という言葉は、ピンボールのボールのようにこだまし続けた。


 話はとんとん拍子に進んだ。履歴書と職務経歴書をその会社に送るとすぐに面接がセットされた。面接官は校長と教頭だった。面接では特別なことはなにも訊かれなかった。履歴書と職務経歴書を補足すような説明を雑談を交えてしただけだった。最後にサッカー部を受け持つことを確認されたが、そこで経験や知識を問われることはなかった。


 そうなのだ。俺は教育者になりたかったから教師になったのではない。


 サッカー監督になりたかったから教師になったのだ。


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