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9人サッカー  作者: 五味幹男
第1章
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第2節 ファーストコンタクト

 体育館には校長の声が淡々とした調子で響いていた。


 ただし、その話の内容がどんなものであるか、そしてそれがどれほど続いているか進藤直人にはもはやわからなくなっていた。喉の奥が乾いていた。その度に唾を飲み込んでみたが、ついに唾も出なくなってしまっていた。


 耳に届く音が消えた。校長が話を終えて、ステージを降る。


 体育館の隅にいる進行役の教頭はそれを確認するとマイクに向かって言った。

「それでは最後に今日からこの学校に勤務いただく新任の先生を紹介したいと思います」


 進藤の心臓が跳ね上がった。実際そんなことはないのに、全生徒の視線が一気に自分に収束したかのような気分になる。


「では、進藤先生、壇上へどうぞ」


 教頭の言葉に促されて進藤はステージに向かった。スリッパのかかと部分が床にすれる音がやけに大きく感じる。なるべく音を出さないように歩こうとしたが、ビジネスソックスとビニール製のスリッパの相性は最悪だ。歩くたびになんとも間抜けな音が出る。


 ステージの端にかけられた階段を昇った。4段あるうちの3段目でわざとスリッパを脱ぎ残し、そのまま何事もなかったように歩いたあとで大げさに気づく振りをして慌てて戻る。どこからともなく沸き起こる笑い声。そして、教頭の咳払い。あの先生、おもしろいじゃん。それをきっかけに体育館の緊張が一気にゆるみ、生徒との距離が一気に縮まる――。などと思ったこともなくはなかったが、もちろん実際に実行する勇気などなかった。


 進藤はステージ中央に置かれたマイクの前に立つと、気づかれないように、でも少しだけ大きく息を吸った。


 その瞬間、カラオケボックスで時折遭遇するようなノイズがスピーカーから放出された。

 違う、俺はなにもしてない。眼下の群集がわずかにざわめく。心臓がさらに高鳴った。


 落ち着け! 進藤は心の中でそう自分に言い聞かせると、もう一度ひと呼吸ついた。大丈夫、大丈夫だ。マイクに向かってからからになった口を開く。


「本日よりお世話になることになりました進藤直人です。地理を担当します。大学卒業後は商社で営業をしていました。一日も早く学校に慣れて、みなさんと仲良くできたらと思っています。よろしくお願いいたします」


 職員室に戻ってからも緊張はほぐれなかった。言うべきことを言い忘れてしまっていたのではないかという不安に駆られていた。


「進藤先生、立派なご挨拶でしたね」

 目を上げると、対面の席の吉田が戻ってきたところだった。吉田とは、全校集会が始まるまでの間、ふたことみこと言葉を交わしていた。丸顔に白髪交じりの針金のように硬そうな髪を短く刈っている。バレーボール部をみているとのことだった。


「立派だなんてそんな。気の利いたことひとつもいえずにありきたりな挨拶になってしまって。本当は笑いのひとつでも取れればよかったんでしょうけど」

「いや、立派でしたよ。なんせ最近の若い先生ときたらそのありきたりの挨拶すらロクにできないんですから。どれだけ高等な教育論を学んできたかは知りませんが、挨拶もまともにできないようでは先が思いやられますよ。礼儀は人間教育の原点ですからね。あっ、これは失礼いたしました、新人と一緒にしてしまって。進藤先生はおいくつですか」

「今年で32になります」


 進藤は小林の口調に裏表のない実直さを感じて少し安心した。大学のサークルに保健室の先生になった後輩がいて、学校というところは事なかれ主義ばかりの閉鎖的な組織で変わった先生も多いと聞いていたからだ。


 私立空見学園高校。


 それが進藤の赴任した学校の名前だった。


 高校がある町は東京から電車を2本乗り継いで約1時間半のところにある。地方都市という呼び方がぴったりな町で、空見学園高校はその西に位置している。学校から最寄り駅までは徒歩で約20分。すぐそばには土手を備えた幅の広い川が流れており、周辺の豊かな自然は学校の売りのひとつにもなっている。


「大自然に抱かれ、育む空見教育」。教育と自然の相性は、なぜだか昔から相性がよい。

 ただ、この売り文句も単なる見かけ倒しではなく、進学実績は悪くはないので受験者数は少なくないようだ。アクセスは悪いがそのぶん子どもの興味を引くようなものがなく、勉学に集中できるという点を進学実績が裏づけしているという構図だ。


 社会人経験者を教員として迎えているということも特長のひとつだった。近年、様々な分野から幅広く人材を募るダイバーシティ採用は一般企業でも行われているが、空見学園高校では10年以上も前からそれを行っていた。私立校にとって公立校や他の私立校との差別化は永遠のテーマなのだ。進藤もこの社会人枠での採用だった。


 始業5分前を知らせるチャイムが鳴った。先生たちが教科書を小脇に抱えて出ていく。

 職員室から人の気配がなくなると、進藤はようやく人心地ついた。


 進藤は正門を出て横断歩道を渡ると土手を斜めに長く登るスロープを見上げた。

 空見学園高校サッカー部のグラウンドは土手の向こう側の河川敷にある。帰宅する生徒たちの「さようなら」という声に同じ言葉で答えながら進藤は新鮮さを感じていた。社会人は同じ場面で「お疲れさま」と言うからだ。


 スロープはコンクリートで舗装されていた。見ると乾いた土が黄土色の模様をところどころにつくっていた。その中にはスパイク底の型を連想させるものもいくつかあった。進藤は胸の高まりを抑えられず、足取りも自然と早くなった。


 土手の上に立つと陽の光にきらめく水の流れが目に飛び込んできた。川は夕日に乱反射する水を左から右にゆるやかに運んでいる。犬の散歩をしている人が川のこちらにもむこうにもいる。スポーツタイプの自転車が爽やかな風を生んで通り過ぎていった。右手の遠くから鉄橋を渡る電車の音がした。


 グラウンドは堤防を上流方面に斜めに下っていったところにあった。進藤の立っているところから直線距離で100メートルほどある。


 グラウンドからは声が聞こえていたが、なにを言っているかまではわからなかった。周囲を緑に縁取りされた茶色のグラウンドに白いボールが動き、その行き先を先回りするように選手がひとり、またひとりとそれぞれの意思を感じさせながら動いている。


 手前にあるゴールに向かって、中央やや右寄りでボールを受けた選手がシュートを放った。だが、ボールは枠のはるか上を越えていった。声がひときわ大きくなる。シュートを打った選手は、しばし頭を抱えた後にダッシュでボールを追っていった。


 声は近づくにつれ、グラウンドの声ははっきりと聞こえるようになった。「こっち」「右」といった指示の言葉に混じって「ツカサ」「トオル」といった名前も聞こえてくる。


 進藤はグラウンドに近づきながら全校集会のときとは違った緊張に襲われた。


 人前に出るときの緊張の度合いは目の前いる人の数に比例しない。大人数の場合はある一定の人数以上になると個々ではなくひと塊の物体と捉えられるようになり開き直れるものだが、少人数ではそれができなくなる。なまじ一人ひとりの顔が見えてしまうだけに、むしろ緊張の度合いが増すことがある。


 進藤はペットボトルの栓を開けて水を含んだ。最初からそんなものを持っていくのはどうかと思ったが、あまりかしこまるのもどうかと思って持ってきたのだ。それが早くも役に立った。


 土手を降りきるとボールの動きが止まった。部員たちが一斉に駆け寄ってくる。両手を後ろで組み、横一列に並んだ。


「こんちは!」

 思いもかけない大きな声と勢いに進藤はわずかにのけぞった。まさかこれほどまでに積極的に挨拶されるとは思っていなかった。自分たちの時代は、顧問に問われて初めて言葉を発していたような気がする。


「こんにちは」

 うれしさを感じながら進藤は勢いに任せてあいさつを返したが、次の言葉が出てこなかった。部員たちが、先生が話すんですよねと目で訴えている。進藤は唾を飲み込んだ。


「えっと今日からサッカー部をみることになりました進藤直人です。32歳です。大学卒業後は商社で営業をしていましたが、今回縁あってこちらの学校にお世話になることになりました。地理を担当します。とにかく一日も早く学校に慣れて・・・・・・」


 ここまで言って我に返った。違う、そうじゃない。思わず全校集会用の挨拶が口をついて出てしまった。


 部員のひとりが声を出して笑った。小柄で細い体に坊主頭が乗っている。


「先生、おもしろいじゃん。つかみはオッケーって感じだね」

 笑いが伝播し場の空気が和んでいくのがわかった。救われた。サンキュー、坊主頭。心の中で感謝する。


「先生、自己紹介をしてもいいですか」

 そう言ったのは、向かって右端にいる部員だった。


 こちらも絶妙のタイミングだった。「お願いします」と敬語で答えた。

 右端の部員は隣の生徒に自己紹介するように目配せした。

 促された部員は肩を揺らして居住まいを正した。


かけはし透、2年生です。ポジションはミッドフィールダーです。よろしくお願いします」

 頭を下げたので、こちらも頭を下げた。


 透の隣には2人続けて背の高い生徒がいた。190近くありそうだ。ただ体つきはそっくりだが、顔がまったく違う。

「時田陸、2年生です。ポジションはセンターバックです。よろしくお願いします」

 見上げた目線をそのまま隣に移す。

「時田海、2年生です。ポジションはセンターバックです。よろしくお願いします」

 山びこのような自己紹介だった。


「陸と海は双子なんです。陸が兄で海が弟です」

 右端の部員が付け加えた。

「そういうことは自分で言えよ」

 それを聞いた双子は顔を見合わせて笑った。


 次はさっき助けてもらった坊主頭だった。目線を一気に下げた。

「轟裕也、2年生です。ポジションはサイドバックです。得意なプレーはオーバーラップです。今の課題は上がったところからのクロスの精度と守備のときの・・・・・・」

「裕也、いまはそれいいから」

右端の部員が制した。ここまでの感じだと彼がキャプテンのようだ。

「それもそっか。先生、よろしくお願いします」

 裕也は体側に両手をつけて90度のお辞儀をした。


「白須隆、2年生です。ポジションは左のハーフです。よろしくお願いします」

「こいつ右はからきしなんでわざわざ左をつけるんです」

 茶々を入れた裕也の後頭部を隆がはたく。いい音がした。


「神山大祐、2年です。センターフォワードです。よろしくお願いします」

 大きな声で一気に言葉を吐いた。勢いがある。


「川端功治、1年生です。ポジションはフォワードとミッドフィールダーです。よろしくお願いします」


 扇の左端まできた。

「内田友則、1年生です。ポジションはミッドフィールダーです。これからよろしくお願いします」

 友則の声は体の奥まで染み渡るようなきれいな声だった。


「御手洗司です」

 右端の部員が言った。

「2年生です。キャプテンをしています。ポジションはゴールキーパーです。よろしくお願いします」


 進藤は全員に向き直った。

「みんな、ありがとう。まずはなるべく早くみんなの顔と名前を覚えられるようにします。まだ来ていない人もいるだろうから最初は間違ったり忘れたりするかもしれないけど、でも一日も早く。こちらこそよろしく」


 部員たちの声を聞いたせいかなんとなく晴れやかな気持ちになっていた。と、その瞬間、場の空気が不穏に固まったような気がした。自分に集まっていた生徒たちの視線が一様に集中力を失っている。えもいえぬ不安が襲ってきた。


 裕也を見る。坊主頭、なんとかしてくれ。祈るような気持ちで見続けるが裕也の視線は下向きに泳いだままだった。一体なにがどうなってしまったのか、状況をまったく理解できなかった。


「これで全員です」


 司が短く言った。毅然としていた。目がまっすぐこちらを見ている。進藤は言葉を失った。


 改めて数えなくてもわかる。直感でわかる。ここには11人いない。それでも確認せずにはいられなかった。右端の御手洗司からゆっくりと視線を移していく。1、2、3、4、5、6、7、8、9――。


 司から始まった番号は「9」で止まった。友則の左隣には誰もいない。


「全員?」

 思わず聞き返してしまった。

「はい、全員です」

 自分の声の腑抜け加減が際立つくらいのしっかりした声で司が答えた。

 サッカーに携わる者、携わろうとしている者にとって、あってはならない愚問が思わず口に出かかった。


 サッカーって、11人だよね。


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