第1節 双眼鏡
透が着いたとき、グラウンドには誰もいなかった。
眩しい緑はグラウンドに迫らんばかりの勢いで生命力に溢れ、その向こうでは川面が朝日を反射して輝いていた。透はその風景を味わうように大きく息を吸い込むとストレッチを始めた。
ストレッチを終えた透は引き寄せたボールを右足でリフトした。ひとつずつ感覚を確かめながらボールにタッチする。
「ずいぶん早いな」
振り向くとグレーのトレーニングウェアに身を包んだ司がいた。左胸には「空見学園高校/サッカー部」と空色で2段組みの刺繍が入っている。
「司こそ、いつもより早いんじゃない」
「そっか、そんなことないと思うけど」
司は両手で逆回転をかけてボールを投げるとそのままリフティングを始めた。
その姿に透は見惚れた。
右、左、甲、腿、アウトサイド、インサイド、頭、肩――。
まるで帰宅した主人にじゃれる猫のように、ボールは宙を舞った。
あんなふうに自分はできない。同じようにボールを地に落とさずリフティングはできるが、司のようにはできない。ボールにタッチするまでの動き、実際のタッチ、ボールが離れた後の動き。ボールと体のリズムが完全に調和していた。ボールに体を合わせるのではなく、ボールが体に合わせているようにさえ見える。心にも体にも余分な力が入ってない。
「新しい監督ってどんな人かな」
透は軽い感じで司に尋ねた。
「さあな」
司はボールとのリズムを崩さずに短く答えた。
「さあなって、司だって気になるだろ」
それには答えず、司はリフティングを続けた。
「おいーす」
大祐が友則と功治と連れ立って土手を降りてきた。
「おはようございます」
友則のよく通る声に続いて功治もあいさつをする。大祐が大きなあくびをした。
しばらくすると陸と海、裕也と隆の4人が連れ立ってきた。裕也と隆は制服姿のままだ。
「なんだよ、また直行かよ」
ふたりは部室に寄らずグラウンドに直接来ていた。部室に寄らなければ10分は短縮できる。朝の10分は貴重だ。
「だってここで着替えると気分がいいんだもん」
そう言って裕也が上半身裸になった。ズボンも脱いでパンツ一丁になる。
「冬は寒くてできないからね」
隆もパンツ一丁になった。
「ふたりとも早く着替えてアップしろよ」
リフティングしながら司が言った。
「はいよ」
ふたりが声を揃えて答える。
「それよか、新しい監督ってどんな人なのかな」
海が誰とはなしに尋ねた。
「やっぱ気になるよね」
陸が後を続けた。
「なら斥候を出そうぜ。土手の上で待ってれば車で通るしわかるだろ」
隆が言った。
「斥候って?」
陸が尋ねた。
「偵察部隊だよ」
「そらいいや」
大祐が乗り気を見せた。
「じゃあ、じゃんけんで決めようよ。ふたりね」
裕也の提案で話がまとまった。そのまま音頭を取る。
「最初はグッー、じゃんけんポン」
透は一発で負けた。ひとりだけチョキで、他は全員がグーだった。
「じゃあ、透は決まりね」
隆がそう言って、残りのメンバーで再びじゃんけんをする。何度かの掛け声の後にもうひとりは司に決まった。
「ほい、これ」
隆が小さな黒いケースを投げて透に寄越した。
「なに、これ」
「双眼鏡。必需品でしょ。小さいけど性能は保証するよ」
マジックテープをはがして中身を出すと折りたたまれた双眼鏡が出てきた。
「さ、ふたりともとっとといった。ターゲットはいつくるかわからないからな」
隆が司の背中を押した。
「本当に行くのかよ」
司が首を傾げて隆に言った。
「なにをいまさら。負けたからってそういうこと言わないの」
「そんなんじゃねーよ」
「だったら行く。大丈夫、練習はちゃんとやっておくから」
隆がもう一度、司の背中を押した。
透は司と並んで土手を登っていった。冷たい風が吹き降りてくる。土手を登りきると道路の向こうに校舎が見えた。校門は向かって左手にあり、校舎の陰になって見えないその奥に駐車場がある。車で学校に入るには手前の道路を通ってくることになるので、ここは出入りを監視する絶好のポイントだった。透と司は腰を下ろした。
「とりあえず見慣れない車が通ったら気をつけないとね」
「ったく、こんなことしてなんの意味があるんだよ」
司は気だるそうに背伸びをすると寝ころんだ。
「わざわざこんなことしなくたって午後の練習には来るんだからそんときでいいじゃん」
司の言うとおりだった。新監督には放課後になれば会える。それでもどんな人なのか、その姿かっこうだけでも知っておきたいというみんなの気持ちもわかった。それまでチームを見ていた藤田監督が3月末にやめてすぐに後任の先生がきたものの、たった1ヵ月で学校を辞めてしまっていたからだ。次の監督がどんな人なのか、きちんと続けてくれそうなのか。少しでも不安を拭うためにちょっとでも情報が欲しかった。
「それにどんなやつが監督になっても同じでしょ。実際にプレーするのは俺たちなんだし」
司は手を頭の後ろに組んで空を見上げていた。
エンジン音が聞こえてきた。道路に視線を落とすと車が1台走ってくるところだった。型が少し古いグレーのセダン。職員全員の車を知っていたわけではないが、透は瞬間的に見慣れないと感じた。
「あれ、そうじゃない?」
司が上半身を起こした。にらみつけるように目を凝らしている。
車はゆっくりと走っていた。校門の脇にある入口から駐車場に入ると校舎の向こう側に消えていった。
透はケースから双眼鏡を取り出した。横に広げて間隔を調節すると、指でダイヤルを回して焦点を合わせた。職員用の入口は昇降口の横にある。駐車場からは校舎を回りこむように歩いてこなければならない。
透が双眼鏡を目に押し付けたまま待っていると男性がひとり現れた。紺のスーツを着ている。足取りに躊躇が感じられるのは緊張しているからなのだろうか。
「きた、たぶんあの人」
透が叫ぶと司が立ち上がるなり双眼鏡をひったくった。そこまでしなくても見えるはずだが、目に食い込むほど双眼鏡を顔に押し付けている。
「どう?」
司は双眼鏡を目から離すと小さく息を吐いた。
「だめだありゃ」
透と司がグラウンドに戻ると部員たちが集まってきた。
「どうだった?」
いの一番に訊いてきたのは大祐だ。
「予想どおり、話になんねえよ、ありゃ」
「どういうこと?」
陸が訊いた。
「トーシロだね。サッカー未経験者だよ。服の上からでもなんとなく体のラインはわかったけどボールを蹴っていた雰囲気はまったくないね。むしろ文化系」
司ほど断言できないが透もそう感じていた。双眼鏡をひったくられるまでのほんの少ししか見られなかったが、サッカーの匂いはまるでしなかった。
「マジかよ」
大祐が大きく息を吐いた。
「でも逆にいいと思うよ、俺は。ああいうタイプの方が。サッカーに真剣じゃないほうが」
「なんでよ」
大祐が食って掛かった。
「だって扱いやすいでしょ。なまじっかサッカーに情熱があるとタチが悪いじゃん。とりあえず形だけいてくれればそれで十分。練習にも顔出してくれなくたっていいし。あとは俺たちだけでやればいい。たぶん教頭もそのへんはわかってんじゃない」
「まったく学校はなに考えてんだろ」
裕也が頭をかきむしった。
「なにも考えちゃいないよ、学校は。むしろサッカー部なんてなくなればいいと思ってるんだから」
「そんなことってあるかよ」
海が怒りを滲ませた。
「じゃなきゃあんな決定するわけないだろ。いいよ、最初から期待していたわけじゃねえし。さあ、切り替えて練習練習。おまえらさぼってただろ、汗ひとつかいてねーじゃねえか」
裕也と隆が逃げるようにグラウンドに駆け出した。みんながそれに続いていく。
「いくぞー」
誰とも知れない掛け声とともに、ボールを蹴る音が眩しい緑の間を通り抜け、朝日に輝く川面の上を通り過ぎていった。