あれは毛玉(けだま)なんだなっ。(2)
「奴ら、あれで仲間を呼べるんだよー。たぶん、もうそろそろ近くにいたのから来るんじゃないかなー。だからハル、踏ん張りどころだよー」
「もち、わかってるよん。せっかく優と出会えたんだから、ね」
いつの間にか、自分がハルの屈託ない笑みに目を奪われていることに気づき、動揺した優が目を逸らした方向、割れた居間の窓から二匹の“獣人”が文字どおりに転がり込んできた。
優を襲っていた“獣人”と同じような外見の二匹は、言葉を交わす。
「いた、いた、いた!」
「こいつらだ! こいつらだ!」
「おー来た来たーハル、やるよー」
“獣人”の声に、どことなく嬉々とした感じを受けるマコの声が続いた。時を同じくしてハルのフルーレが宙に煌めき、ムササビのように四肢を開いて飛びかかる“獣人”の腹部を斬り裂く。
着地した“獣人”は臆することなくハルの背中へと右足の爪を踊らせたが、その爪はマコの刀で弾かれた。
守ってもらえるとわかっていたのか、ハルは防御行動をとらずにもう一匹の“獣人”へ疾風のごとき踏み込みで突きを繰り出す。“獣人”はフルーレの剣先を難なくかわし、ハルに体当たり。
直撃を受けたハルが、ダイニングテーブルの下に身を隠しながら震えている優の前へ弾き飛ばされてきた。
両足を開いた格好で止まったハルを前にし、優は慌てて目を伏せたが、ハルのほうには下着を見せたことを気にする素振りがなかった。
「あんにゃろっ。いい当たりだっ」
短い文句のあとに一瞬だけ背中から薄い光の霧を出したハルが、二対一をこなすマコの加勢へ。
ハルが加わる直前、マコは二匹のうちの黒いほうの首をはね、濃い光の霧を噴出する胴体を蹴り飛ばした。
「きゃっ……!」
斬り離された首はダイニングテーブルの上をバウンドし、優の女性のような甲高い悲鳴が響く。
「ありゃ、あたしいらなかった?」
怯える優の様子を面白そうに見ていたハルがマコの肩をぽんと叩くと、マコは灰色の“獣人”との間合いを詰めた。
“獣人”は怯んだように見える。だが戦闘意欲は失っていないらしく、うぅーと低く唸り、マコへ一撃するタイミングを窺うような動きを見せている。
張りつめた空気が満ちていくと、二階で小さな物音が。優は気づかなかったが、マコとハルは敏感に反応していた。
「ハル、階段ー」
弾かれたように走り出したハルの靴音に続いて、灰色の“獣人”の爪とマコの刀が競り合う、例えるなら黒板を爪で掻いたような音が響く。
「にんげんっ!」
マコは声変わりの済んでいない少年のような声を発した“獣人”との競り合いに両手で刀を持って応じていたが、腕力では敵わないとみたか、刀を下げた。
即座に“獣人”の爪がマコの顔を狙うが、マコは頭を反らして回避。“獣人”の太ももを斬りつけ、相手が怯んだ隙を見逃さずに喉へ刀を突き刺す。
間欠泉のような勢いで噴き出す光の霧、目の前で繰り広げられる殺伐とした光景に、優の頭から血が引いていく。
ーー何なんだろう。僕はどうしてここにいるんだろう。こんな危ない世界、僕が居ていい場所じゃないよ。
優はダイニングテーブルの脚を強く握りしめていた。
ミケ……怖いよ。今、どこにいるの? きっと、無事だよね。
“こっち”に来てるの? 生きているよね……?
「ーーユタカ! 大丈夫かー?」
気づけばマコの顔が間近にあった。マコは階段付近からの戦闘音に気を配る素振りを見せつつ、マッサージ機のように震える優を心配そうな顔で見ている。
決して大丈夫ではないが、優には頷く選択肢しか残されていなかった。その反応をしげしげと見ていたマコが優の手を掴み、強く引いて駆け出す。
灰色のほうの“獣人”からはまだ薄い光の霧が出ていて、完全には凝固していないようだった。
“獣人”が脇を抜ける優へ張り手のように手を開いたパンチを放ったが、マコに引き寄せられた優には当たらない。
“獣人”の鬼気迫るその様に、優は怖気を感じていた。あんなふうになってまで、どうして……と。
二階への階段ではハルが一匹の“獣人”と戦闘中。その後ろ、玄関の式台で胸に穴が開いた一匹が息絶えていた。
動かない“獣人”は長い鼻からどこか狼のような印象を受ける。手足も鼻の短いタイプの“獣人”より長く筋肉質だ。
優にとっては初見の“獣人”。
「優、大丈夫?」
自分より二段ほど上にいる“獣人”の蹴りを避け、ハルが優に言った。ハルが纏うローブの背中は四本の線に裂かれていたが、露出したハルのつるっとした肌に傷はなく、光の霧は出ていない。
「んー、大丈夫だと思うよー」
顎が笑って上手く言葉を出せずにいる優の代わり、マコが応える。階段の“獣人”がハルの頭へビンタのようなものを放ったが、ハルに手首を掴まれ、階段下のマコと優のほうへ引き落とされた。
「それ、よろしくね」
うわわっと玄関の上がりまちへ跳び退がる優の前方、ハルのウインクを受けたマコはニヤリと笑みを見せた。頷いたハルが階段を駆け上る。
マコは無言で刀を振り下ろすが、“獣人”は素早く横へ転がって回避。両手両足で跳ね、微動だにしなくなった仲間を越えて優へ飛びかかる。
驚いた優はバランスを崩し、土間へと倒れ込む。“獣人”の爪は優の鼻先を薄く裂いたが、やはり痛みはなく、勢いのない光の霧が出るだけだった。
「こらこら、ユタカはダメだよー」
優に馬乗りになった“獣人”の尻の辺りに刀を突き刺したマコの顔は険しい。
“獣人”は刺されたことに気づかないかのようにマコを無視、押さえ込んで支配した優の顔へ噛みつこうと口を開く。
「あぁっ……!」
叫んで目を見開いた優の視界に、大きく開いた“獣人”の口の闇と、自分の鼻先でピタリと止まった刀の切っ先が。
「がかっ?」
喉に物を詰まらせたような声を出した“獣人”の頭が、マコが持ち上げる刀と共に優から離れていく。
マコは“獣人”を蹴り、刀を顔から引き抜いた。そのまま流れるような動作で刀を滑らせ、左胸を背後から突く。
噴出する光の霧に包まれた“獣人”は執拗にマコへ爪を伸ばそうとするが、届く距離ではなかった。
マコは刀を下ろして“獣人”の様子を無表情に眺めていたが、やがて悲しそうな笑みを浮かべてぽつりと呟いた。
「もう、頑張らなくていいよー。むしろ、凝固したほうが楽になるからさー」
マコはすうっと持ち上げた刀を、静かに“獣人”の額へ。光の霧の噴出が数秒だけ強くなり、すぐに弱まった。
その様を眺めたマコはもういちど何かを呟いたが、優には聞こえていない。
「あーユタカ、もうそろそろ歩けるんじゃー?」
顔を覗き込んだマコにそう言われても、優の足には力が入らなかった。鼻先の傷からの光の霧は止まっているが、優は完全に腰を抜かしている。
しょうがないなあ、というような顔のマコと優が目を合わせてきたとき、二階からの大きな物音。
マコは動かなくなった“獣人”を一瞥、無言で優を助け起こし、肩を貸して階段を上っていく。
優はマコに触れて気づいた。首から上と両手以外はローブに包まれたマコの体が筋肉で引き締まっていることに。
優が自分の脇の下に感じているマコの肩はしなやかだが、芯には鉄のような硬さもある。
優は歳が近いはずの少年とのあらゆる面での差に、またしても自分の情けなさを痛感していた。