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エメラルドタブレット(6)

「ーーえ?」

 

 驚いた優の間が抜けた声のあと。人間の形をした黒い塊が、手すりからじろりと優を見下ろす。その瞳は蛍光色に輝き、縦に細長い瞳孔。蒼い光で正確には判別しづらいが、おそらくは焦げ茶色の長い髪が覆う頭のやや後方の両脇には、ぴんと伸びた三角形の耳。

 目のすぐ下から丸い丘のように盛り上がった部分の先端には鼻孔と思しき穴が二つあり、鼻だと想定できる。

 ひげぶくろをくっつけたその鼻に沿うような形で耳のほうまで広がる口があって、耳や目の上、頬には顔の外へ飛び出すような形で細長いヒゲが生えている。


「ーーぶるにゃるんっ!」


 馬のいななきのようで、ちょっと違うような声を出した黒い塊が優の眼前に着地。人間と同じような四本の両手両足を地面に接地するその塊の皮膚には、髪と同じ焦げ茶色の、もふもふした毛が隙間なく生えている。

 四肢の先には人間と爪のある四足動物のそれが融合したような手足。手の内側には肉球と思しき部位も垣間見える。

 人間でいうところの尾てい骨から生えた毛先がぶわっと広がった尻尾は、喉元に届きそうなほどに長い。

 仁王立ちし、全身の毛を逆立てながら自分に向けてギ、シャーッと唸る生き物を前に、優は絶句していた。

 どう見ても人間ではなかった。優の頭に浮かんだのは、ライトノベルで慣れ親しんだ“獣人”という言葉と、明確で鋭い敵意を向けられている実感。


「ーーキライだっ見たくないっ!」


 言われた言葉の内容云々ではなく、身長は百四十センチほどしかないその獣人から発せられた女性の声と日本語に、優はぶるりと震え上がった。

 もう疑いようもない。自分はどこか違う世界に来てしまったんだーー


凝固ぎょうこ! してしまえ!」


 “獣人”は優が理解不能な言葉を叫び、じりじりと間合いを詰めている。

 攻撃が届く距離になれば、すぐにでも襲ってくるに違いない。そうと知っていて、優は動けなかった。足がすくみ、立っているのがやっとで。

 “獣人”は喉の奥からぐるぐるというくぐもった唸りを響かせ、優から三メートルほど離れた位置から走り幅跳びの選手のように跳ぶ。

 優の膝が恐怖で落ちた。“獣人”の手爪が優の髪の毛をぞわりと奪い、腕の内側にある狼爪ろうそうが優の額深くに突き刺さった。

 刹那、優は、死ぬんだと思った。

 意外と、冷静な自分に驚きつつ。

 ミケのことが心配になった。

 ミケは、大丈夫かなーー

 ミケだけでもいいから、助かってほしい。こんな世界じゃ、僕は何もできないから、誰かミケを。誰でもーー?

 不意に、額へ刺さった爪が遠ざかる感触があった。それは総毛立つほどに不快極まりない感覚で、優は耐えられずに反射的に手足をばたつかせる。

 手足のどちらかが何かに接触した。


「ぷしっ……?」


 炭酸飲料のプルタブを開けたときのような音を聞いたあと、優は目の前の何かが動いたように感じた。そのことで、優は気づく。まだ生きている。

 それどころか、痛みもないと。

 目を閉じていた自分にも気づき、額へ手をやる。傷の位置もわからず、穿たれた穴に触れてしまうが、痛みはないし、指に血もついていない。

 代わりに酷寒の朝に輝くダイヤモンドダストのような、それでいて生温かい何かが傷口から噴き出している。

 優はウワーッと叫んでから弾かれたように走り出し、一軒家の玄関に飛び込んだ。泣きすがるようにドアを締め、ツーロック式を施錠、何度も失敗しながら震える手でドアチェーンをかける。

 ドアを引っ掻く音と蹴りつけるような音が始まり、ドアはその度に軋む。

 蝶番と錠はいつまで保つだろうか、という状況に置かれた優は半ば自暴自棄になりながら、廊下の中ほどにある一つの部屋へと駆け込んでいく。

 部屋は子供部屋だろうか、学習机とキャラクターものの布団があり、地元のプロ野球チームのプラスチック製のバットが置かれていた。

 身を隠せる場所を探す優だったが、二重窓の向こうに“獣人”のシルエットを認め、思わず武器にもならないプラスチックバットを持って部屋を飛び出す。

 廊下の突き当たりの台所が目に入り、優は考えた。こんなオモチャじゃなくて、包丁やナイフのほうがいいに決まってる。

 台所へ駆け込むと、数秒前に居た子供部屋からガラスが砕ける音が響いて、それから、


「逃げるな、逃げるな逃げるな逃げるなーあ」


 “獣人”の声と何かを蹴散らすような音が近づいてくる。台所の奥、食洗機の中にある柳刃包丁を見つけるより先に、優は足下の床下収納に気づいた。

 押し立てた取っ手を引いても、びくともしない。脇にあるボタンを押すと、重たい蓋が駆動音と共に恭しく開いた。

 非常用のバッテリーを動力源としているであろう収納庫には乾パンや飲料水などが豊富に備蓄されているが、小柄な優なら空いたスペースに体を収められそうだった。

 文字どおりに飛び込んで蓋の表へ手を伸ばし、優はボタンを押す。蓋がゆっくりと下りてきて、三センチほどの隙間を保った位置で鈍い音を立てて止まった。

 差し込む蒼い光で満ちたその隙間から蛍光色に輝く双眸そうぼうが覗き、体育座りで恐怖に震える優を眼光鋭く睨みつける。


「にっ、にに、にににーっ!」


 見えはしないが、“獣人”が強い力を込めていること、その対象が閉まろうとする蓋だということは優にも容易に理解できる状況だった。

 隙間は少しずつ広がっていく。後ずさるスペースも持たない優は必死に防災用品を漁った。プラスチック製のフォークに触れる。これじゃダメだ。ローソクなんかもっとダメだ。

 ローソクの隣にオレンジ色の筒のようなものがあり、それを簡易式着火装置だと気づき、優はロックを解除、トリガーを握りながら隙間へ向けて炎を差し出す。


「ぎにぁっーー」


 “獣人”の悲鳴と、衝突音。蓋は少し震えてからゆっくりと優に近づき、数秒後には優の体に狭い闇が覆い被さった。


「みきぃーっ!」


 “獣人”は金切り声をあげながら蓋に何かを叩きつけ始めた。辺りにあったものを使っているのか、それともあの鋭い爪で蓋を突き刺そうとしているのか。

 正確な状況はわからないが、“獣人”の一撃ごとに悲鳴をあげる蓋を間近にした優が確信できることは、この空間も長く保たない、ということ。

 だがここは密閉空間。身動きができないぶん、袋小路よりも絶望的だった。

 光源は自分の額から噴き出している光の霧のみ。噴出元は致命傷なのに、血が出ないところか痛みすらないし、脳も体も動いている。そして、光の霧が噴出する勢いは弱まっていた。

 何がなんだかわからなかった。ミケはこんな場所にいるんだろうか。そうだとしたら……きっと、怖くて怖くて仕方ないよ。鳴いているよね。

 どうして僕たち、ここにーー

 問い正すにもその相手すらいない。すでに蓋は内側に歪み、縁から蒼い月光が差し込んできている。

 優は着火装置を力なく置き、両腕で抱えた膝の間に頭を埋め、目を閉じた。

 僕はなにか悪いことをしたのかな……

 でもミケは猫で家猫なんだし、悪いことなんてするわけない。もしもここにいるなら、どうしてミケまで?

 僕が巻き込んだーー?


「ーー?」


 内側にべこりとヘコんだ蓋が静かになり、ずっと続いていた“獣人”の怒号も止まっている。微かな期待を胸に優が顔を上げると、蓋が飛ぶように跳ねた。


「うわぁぁぁ!」


 笑みを浮かべた“獣人”に至近距離から顔を覗かれ、優が恐怖で叫ぶ。“獣人”は優のパーカーフードへ爪を引っ掛け、豆か何かであるかのようにひょいと持ち上げた。

 首が絞まって呼吸ができないはずなのに、優はちっとも苦しくなかった。ただただ、眼前で爛々と瞳孔を輝かせる、自分より小柄な生物がもたらす絶望だけを強く感じ続けていて。

 そのまま、体が飛んだ。居間の窓に叩きつけられた優の勢いは止まらず、外庭の砂利を転がり続け、太い木の幹に衝突。ようやく止まった。

 優の体のあちこちに擦過傷。打ちつけられた背中の筋肉が断裂していても不思議でないほどの衝撃で、迷い猫のチラシが入ったウエストポーチは庭の隅へ。

 擦過傷や背中から例の光の霧が噴き出してもなお、優は痛みを感じていなかった。その代わりに疲れとは違う脱力感のようなものが少しずつ強くなっていく。

 土で汚れた優は、“獣人”がやってくるであろう居間のほうを見て、すぐに視線を上げた。いつの間に移動したのか、“獣人”は居間の窓のひさしの狭いスペースに両手両足を乗せ、耳をピンと立てて外の様子を窺っている。

 異様に重たい体を必死に起こそうと努力する優をよそに、“獣人”はどこか遠くを凝視、うぅうるぅーと低く唸り、毛を逆立てていた。

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