エメラルドタブレット(5)
優の歩行は次第に速くなり、やがて走り出す。間隔を開けてではあるが、優が一日でこんなに長い距離を走ったのは小学校のマラソン大会以来だった。
二十四時間営業の小型スーパーを過ぎ、行ってみたいと思っていた大谷町図書館を横切り、今にも潰れてしまいそうなゲームセンターの前を通過しても、誰一人としていない。
浄水場への長くて急な坂道に差し掛かったとき、優は自分の体の異変に気づき始めていた。おかしい。足も痛くならないし、息だって苦しくない。
走っている実感はあるのに、走っていないような。ここまでゆらりと散歩してきたような感覚で、疲れていない。
あの家から逃げてきたときにはすごく苦しかった。それが当然なんだけど、今はどうしてーー
坂道を登りきり、解放されたままの門を過ぎ、優は百台以上は停められるであろう大型の駐車場で足を止めた。
小学五年生のころに行われた、両親の職場へ行こう! という学校行事でここに来たとき、海抜の高い大谷町の高台からは仙台市の中心町までを見渡せると父親から教えてもらったことを思い出す。
だから怖かった。見てはいけない、見たくないものを見てしまうような。優はとても重たい予感がして、それでも振り向かずにはいられなかった。
大谷町から仙台市の中心町まで、ぽつぽつと砂粒のように頼りない灯りがあるが、町の灯りと表現できるものは何ひとつ確認できない。黒い町は蒼い光に染め上げられ、いつもは遠くから響く幹線道路の車音や救急車の音もなかった。
ひゅーう、優をからかうような軽い音を奏で、夜風が通り過ぎていく。風に頬を撫でられた優は、予感どおりに見てはいけないものを見て硬直していた。
住宅がまばらに立つ、田園地帯。宮城県、ひいては日本全国に知れわたる良質な米を栽培する田んぼの中で、嘘のように屹立するもの。
天を突くような高さの建造物。横幅は百メートルくらいだろうか。石を積み上げて作られたと思しき外壁には幾つもの窓があり、暖色の光が漏れ出ている。
それ以外には何の特徴もない、全体的につるっとした外観はそう、どこか水筒に似ていた。
「塔……」
優は連想したものを呟いた。ファンタジー小説の挿し絵に出てくる塔の姿と非常によく似たそれを呆然と見下ろしてから、見上げる。
小説や漫画のようにぽかん、と開いた口が閉じたころ、優の頭に“異世界”という言葉が浮かんだ。
そんなこと、あり得るわけないと頭を振って打ち消そうとするが、今の状況を説明するにはその言葉が最も適しているような気がしてならなかった。
ふいに、駐車場の脇にある雑木林が風に揺れたことで優は竦み上がった。どこかに隠れなくてはいけない、という脅迫観念が優を突き動かす。
浄水場の正面玄関に走り込むが、自動ドアは反応しない。開いている入口はないかと建物の裏手に回り込んでみても、内にも外にも人の気配は砂粒ほども感じられないし、正面玄関以外に入れそうなところは一向に見つからなかった。
「……お父さん……!」
ここに父親がいないことはもう理解しているが、叫ばずにはいられなかった。
何が起きているのか、ちっともわからない。これが夢であってほしいし、もしそうでないなら、お父さんじゃなくてもいいから、誰かこの状況を説明してーー
あの渦がここに繋がっていたことは間違いない。もしかしたら、ミケもここに来ているんだろうか……
優は無自覚にアスファルトの上で膝を抱えて座り、自分の指先を凝視していた。怖くて怖くて仕方ない。それに、今さらのようにミケの存在を思い出す自分がどうしようもなく情けなくて。
あのころから、何も成長していない。
足も、指も震えている。フリースパーカーは温かいし、インナーも二枚着込んでいるから、寒いわけじゃない。なのに震えはどうしても止まらなかった。
「お父さん……誰か、いませんか……」
ぽつりとこぼした直後に、優は諦めるように決心した。ここにいても、身を隠せる場所は見つからない。町に戻って、どこかの建物に隠れたほうがいい。
怯えに抗うように頭を振って立ち上がり、雑木林に近づかないよう、駐車場の中央を進む。高台からの下り坂に差し掛かると、どうしても塔の姿が視界の片隅に入ってしまう。優が恐怖に歪んだ顔で塔を見やると、人の形をした影が塔の窓を通り過ぎていくのが見えた。
自分を信じられずに目をしばたかせてみても、幻ではなかった。塔の三分の一を過ぎたあたりからある幾つもの窓の灯りに人影が重なっては消えていく。
窓から窓へ移動しているように。
ーー人がいるんだ!
それだけで優の心は飛び跳ねた。お父さんじゃないだろうけど、それでも、人間がいるのなら。
勇気づけられた優は大谷町を抜けて塔を目指すことを決意。高台を降りて、蒼い月明かりに照らされた生物の気配がない町をおっかなびっくりで進んでいく。
町を抜け、田んぼに囲まれた田舎道に差し掛かったとき、優は確信した。
人間だけじゃなくて、犬や猫、鳥もそう。要は動物がいない。この時期だと分かりづらいけど、虫もいないような気がする……
優はいよいよ、自分が“違う世界”に来たんじゃないのか、いや、そうとしか思えなくなってきた。
いわゆる異世界なんて、創作の中だけのものと思ってきた。それで正しいはずなんだけど……もし、初めて異世界の概念を創作に持ち込んだ人が、実体験を元にしていたとしたら? 自分が知らないだけで、こういうことは日常茶飯事で、あの塔の人たちは自分と同じ目に遭った人たちなのかもしれない。
妄想に過ぎないかも。だがそう思うと、不思議に勇気が重なっていく。
とりあえず、あの塔に入れてもらうようにお願いするしかないかな。何より、ミケが保護されている可能性だってあるし。
月光を遮る障害物が減った今、優の視界は良好そのものだった。街灯が灯っていなくても、道に停まっている車のヘッドライトがなくても、暗いから怖いという感覚はあまりなかった。
地元のヤンチャな少年たちが暴走を繰り返す長い直線道路を横切り、優は少し近づいた塔を見上げる。塔の高さは優が直に見たことのないものだった。
さすがに、テレビで見た東京スカイツリーとまではいかないと思うけど。それにしたって、どうやってあんなに高くまで石を積み上げたんだろうか。
そんな疑問が頭を過ぎると同時、優は視界の端で動くものを見つける。密集している竹林の隙間を縫って自生する茂みが、がさりと揺れていた。
途端、離れていた恐怖が舞い戻る。歩みを止めて茂みを凝視するが、何かが出てくる気配はない。風、かな。と安堵のため息を吐き、優は細い吊り橋を渡るように頼りない足どりで歩行を再開。
六つのブロックに分かれた田んぼの中心を通るあぜ道を静かに進み、外壁に光沢のあるサイディングを施した一軒家の前を通り過ぎる。五メートルほど進んだところで一軒家から物音が聞こえたような気がして、優は足を止めた。
カチャン。もういちど、食器を食器に重ねるような金属音が響く。明らかにすぐそこの玄関ドアが開いている一軒家からの音だった。優は躊躇ったが、恐るおそる一軒家の窓が見える位置へ戻り、首をすくめた格好で家の中の様子を窺う。
灯りはない、人影もない。コトン。だが音は止まない。離れたほうがいい、そんな予感が優を包むと、タイミングを合わせたかのように、二階の窓ガラスに人影が映った。人影は何かを持ち上げて下から覗き込んでいるように見える。
あれは、人だ! 塔に近いし、人が住んでいるのかも!
誰かと話をしたい。間欠泉のように湧き上がってくる衝動に従い、優は二階の人影へ向けて、
「あの、すみません!」
と、珍しく大声を張り上げたその声は無事に届いたようで、人影が踵を返す。次の瞬間にはガラスが粉々に砕ける音がして、ベランダの手すりに大きな黒い塊が乗った。