エメラルドタブレット(4)
優は冷たさも暖かさも感じない、ただ黒いだけの空間を背中側へ引き込まれていく。どれくらいの時間をそうしていただろうか、やがて背後からの白っぽい光が優を覆い被さるように追い越してーー優の背中が柔らかい何かの上にすとんと着地。
眩しさに抗って目を開けると、辺り一面が緑の草原だった。山も丘も木もない平坦な大地がどこまでも続いている。
温度を感じない陽光に照らされた、牧草のような背の低い草に埋めつくされた草原を、肌がピリピリする風が吹き抜けていく。
何よりも優を動揺させていたのは、数メートル先に屹立するエメラルド色の石板。高さは十メートルもあろうかというその石板には、文字のような何かがびっしりと刻み込まれている。
優は腕で後ずさりし、後ろを振り返る。渦も自分を掴む腕も見あたらない。あるのは草原と石板だけ。
恐るおそる石板を見ると、縦方向に刻まれている文字のような何かを斬るように、横へ掘られた文字があった。
“As above, so below”
意味はわからないが、アルファベットであることは優にも理解できる。
英語ーー何て書いてあるんだろう。呆気にとられた優が暫く凝視していると、石板が発光し始めた。
寸瞬、目を開けていられないほどに強いエメラルドの閃光が優を襲い、優の意識は抵抗する間もなく飛んだ。
気づけば優は高松宅の玄関の式台に俯せで倒れていた。種類はわからないけれど、やたらに高級そうに見えるタイルは氷のように冷えている。
ほ、え、と小さな声を連続して漏らした優が上半身を起こすと、左目の奥、というよりは底のほうに沸騰しているような熱い痛みがはしった。
すぐさまに左目を手で押さえるが、熱を帯びた痛みは優の心臓が刻むリズムに合わせて踊り狂う。
優は式台のタイルに右手をつき、うーと唸りながら痛みに耐えていた。痛みが後頭部から飛び出すたびに、ぼんやりしていた優の意識が鮮明になっていく。僕はどうしてここにーー
刹那、優はその理由を思い出す。まるで額のほうから記憶のシャワーが降り注いできたようだった。
ミケ、渦、石板、As above, so below、眩しいーー
「ひっ……」
優は立ち上がり、全体重を預けるようにしてドアを開ける。今度は背後からの抵抗がなかった。左目の激痛もドーベルマンへの恐怖も優の頭にはなく、無我夢中で駅のロータリーのような庭を抜け、優よりも大きな門を開けて敷地外へ文字どおりに転がり込む。
ビーチフラッグのスタートのようにバッ、と起き上がり、優は陸上部も真っ青のスピードで高松宅から遠ざかっていく。そのまま大通りに出て我に返り、自分を追うものがないことを確認、優はアスファルトへとくず折れ、両膝をついた。両膝に痛みはない。
肺の近くで暴れる鼓動と一緒に、口から心臓が飛び出しそうだった。吸わなければいけなかった量の酸素を欲し、脳が優の体に要求を出す。
ハーハーゼーゼーと息を吸っては吐き、呼吸の乱舞が治まったころ、優は顔を上げーー目を見開いて固まった。
そこにあるのは、普段どおりの国道十八号。大手の跡地に入った別の大手コンビニも、優にはよくわからない大人用のDVDを売っている店も。家路を急ぐ車の列もそう。
どこかのパチンコ店が派手な電飾を使っているのか、全体的に青みがかって見えるが、それ以外は見慣れた町並み。
なのに、車は動いていなかった。道路のそこかしこで静かに停止している。
犬を連れて散歩する人も、ジョギングをする人も。コンビニの店内も、歩道橋にも、人の姿は全くない。
おかしいのは人の数だけではなかった。優から見える範囲の店や家々に灯りが全くない。信号機や街灯も色を失い、自己主張のためにつけられた看板の電飾はその役割を放棄している。
優から見える範囲で普段どおりなものは、車のヘッドライト、十九時二十六分を指すコンビニの壁掛け時計のみ。
優の喉、乾燥しきった奥のほうがひゅ、と鳴った。そうして優 は出ていない唾液をごくりと飲む。
何が起きたんだろう。疑問が頭を過ぎった。僕はあの渦にーー
そう、渦だ。渦の中へ間違いなく引きずり込まれたし、意味のわからない石板の前にいた。それが光って……だけど、気がつけば玄関にいた。
もしかして、あの渦の前で倒れている間に何か重大な事件が起きて、みんな避難してしまった? だから車は乗り捨てられている?
そうだとしても。だとしても、静かすぎる。いつも騒々しいカラスやムクドリの鳴き声もしていない。
大災害ものの洋画なら、鳥たちは鳴き回り、住民を避難させる軍や警察の車両が町を駆け回っているのに。
いや、何より、一時間くらいで避難を完了できるものだろうか。それに、電気が止まっているみたいだーー
まだ幼い優の知識でもわかる。電気を必要とする機械たちが全て停止していた。例外はバッテリーや電池で動くもの。イコール、電気の供給が止められているに違いないと。
経験したことのない異常事態に放り込まれた。そう気づいた優の喉の奥から、掠れた声が漏れる。
「誰か、誰かーーいませんか」
言っても、いないとわかっていた。優は忍者のような気配の察知能力を持ち合わせていないが、それでもわかる。
人の気配なんて、塵芥ほども感じられない。耳に届く音はまだ冷えが残る春の夜風が通る音のみ。
「なん……なの、これ……」
口をついて出た言葉と同時に空を見上げた優の瞳孔が大きく開いた。
月が、青かった。蒼、と表現したほうが適切かも知れない。沈黙の大谷町を煌々とした蒼い光で包み込んでいる。
月は気象条件によって色を変える。それは大気中の塵などの影響によるもの。非常に稀ではあるが、青色の光を放つケースもある。
優は読みふけった天体関連の著書からそのあたりの知識を得ていたが、だからこそ身が竦むような恐怖を覚えていた。
月が、異常に大きい。俗称でスーパームーンと呼ばれるサイズよりも、数倍は大きい。通常時の月と比べるなら、テニスのボールとバスケットボールくらいの比率だろうか。比例して、月の光は人間たちが灯しているはずの町の灯りを凌駕している。
月があの大きさに見える距離にあるのなら、地表は月の引力で大変なことになるだろう。それほどに危険な接近だということも、優は知っていた。
やっぱり大きな災害が起きたんだ。いや、これから起きるのかも……
ここを動かないと。誰かが助けにくるまで、どこか近くの建物に隠れたほうがいいかもしれない。
優の頭に浮かんだのは、そう離れていない高台にある父親の職場、大谷町第二浄水場へ向かうこと。
そこに父親がいる保証はない。それどころか、街の状態を鑑みれば、いないと考えるのが普通。
合理的とは言えない選択だが、優はそういうことを理路整然と仕分ける冷静さを失っていた。
優はもういちど蒼色に包まれた辺りを見渡してから、歩いて十五分ほどの高台に向けて恐々とした足どりで歩き出す。
パタン、パタン。優は自分の足音に驚いていた。ゴム底のスニーカーでは足音も小さいはずだが、今はその音が周囲の電信柱やショーウインドウなどのあらゆるものに響いている。
びゅう、と一陣の風が吹き、優の背中にぶら下がるフードをふわりと浮かせた。ワケのわからない状況に置かれた優の心理を追い込むかのごとく、物言わぬ厚い雲を伴った闇が空を覆っている。