エメラルドタブレット(3)
優の左手首には父親のお下がりである、年代ものの青いスウォッチが巻かれている。息を切らした優の視界に、十八時十一分を指す針が映った。
本来ならもう家に帰っていなければいけない時間だが、優の頭に時間への焦りはなかった。あるのは、自分よりも五十センチは高いであろう門の網目の隙間から蛍光色の瞳で自分を睨みつける、二匹のドーベルマンに対する恐怖心。
よく躾られているのだろうか、無闇に吠えてこそいないが、自分のテリトリーの境界線付近で佇む見慣れない人物への警戒感は明確に見せている。
ここから数歩。それだけの距離を縮めれば門に備えつけられたチャイムを押せる。何より、あと数歩近づいたところで、門がある限りはドーべルマンから優へ攻撃を加えることはない。
そう理解していても、数歩がどこまでも遠い。近寄って吠えられたらどうしよう。怖い。でも、あの先にミケがいるはず。どうしよう。行かないと。
膝を笑わせながら、一歩前に進む。すぐに止まって、ドーベルマンたちの反応を見る。反応はない。
二歩、三歩。そこから目一杯に手を伸ばしても、指先はチャイムに触れない。もういちど試しても結果は変わらず、優は三度目のチャレンジで前にバランスを崩し、手の平でチャイムを押す形になった。
チャイムの下にあるスピーカーから聞き慣れたブザー音が鳴り響くが、人の声は返ってこない。優の心を折りかけていた二匹のドーベルマンが、ブザー音に反応したかのように歩き出すだけだった。
奥に控える採光窓がついた玄関ドアに向かっているのか、駅のロータリーのような造りのアプローチを進むドーベルマンたちの足どりは、生まれたての子鹿のように頼りなく、優の胸に巣くう恐怖心をわずかに削り落とした。
「は、は、は、入ります……すみません……すみません」
誰に対して謝っているのか不明だが、優はその言葉が免罪符であるかのように繰り返す。門の隙間に恐るおそる手を差し込み、力を込めて門を開いた。
それでもスピーカーからの反応はない。優は同じ台詞で謝り続けながらドーベルマンたちの後を追い、玄関のドア前で力なく伏せている二匹から三メートルほど距離を置いた位置で止まった。
そこで優の顔が凍りついた。二匹が積極的に自分へ吠えかからなかった理由を明瞭に理解し、優は思わず二匹から目を逸らす。
二匹はひどく痩せこけていた。体の至るところで骨が浮き上がっている。栄養不足によるものだろうか、皮膚の大部分で酷い炎症を起こしてもいた。
中学生になったばかりの優にも、栄養失調だとわかる状態で、しかもそれだけではなかった。
浮き上がった骨をわずかに覆う皮膚に、新旧様々な裂傷が多数。不自然に丸い形の傷も見受けられる。
動物虐待。心を激震させる四文字熟語が優の脳裏に浮かぶ。もし本当にそうだとしたら、ミケは……?
優が怖々と右足を踏み出すと、右側のドーベルマンが低い唸り声をあげた。驚いた優が左に跳び跳ねると、左側のドーベルマンが上体を起こす。反対側のドーベルマンも頼りなく立ち上がった。
前か、後ろか。二つある選択肢のうち、優は身を隠すドアがある前方へ逃げることを選んだ。
もしドアが施錠されていた場合は完全に逃げ場を失ってしまうが、優にそのリスクを考慮するほどの余裕はなかった。
ひんやりしたドアノブを強く引く。ドアは自重以外の抵抗を見せずにすんなりと開いた。優が振り返った先ではドーベルマンたちが掠れた声で吠えている。
警戒からか、距離は保っているが、今にも飛びかかってきそうだ。
優は滑り込むようにドアの隙間を抜け、暖色系の灯りに照らされた玄関へと進み、全ての力を込めてドアを閉める。
ドアの向こうから、金属を何かで掻くような音と、くぐもった唸り声。
だが、優には安堵のため息をつく暇も与えられなかった。他人の家に無断で入ってしまったという実感に襲われ、半ばパニック状態に陥ってしまう。
「す! すみません、すみません……すみません……」
昔話でありがちな、幽霊と遭遇した際に誰かが唱えるお経のようだった。引き返すこともできない優は謝るべき対象を見定められないままに呟き続け、高級感の漂う黒いフローリング材が敷き詰められた横幅の広い廊下を進んでいく。
校舎の廊下を思わせる長い直線の突き当たりに、ドアが開いている部屋が一つ。ドアの開閉音を怖れる優はその部屋を選び、廊下を直進。
左右の壁に幾つもあるドアに差しかかるたびに、人が出て来ないだろうか、と足を止めて様子を窺う。大丈夫だと確信すると、忍び足でドアの前を通過。これを何度か繰り返し、優は目指す部屋の前で足を止めた。
(……風……?)
優の色白な頬を撫でていくのは、極端に冷たいわけでもないのに何故か肌がピリリと痛む微風。風はドアの向こう、右に折れた部屋の奥から吹き込んでいる。
たぶん、窓が開いているんだ。ミケはこの部屋にいないんじゃ……優はそう考えたが、他の選択肢があるわけでもなく、間近にいない限りは聞こえないであろう音で部屋の壁をノック、部屋の中央へと進みーー両足を揃えて止まった。
「え……」
そこに、優の体よりも一回りほど大きい、真っ黒な渦が浮かんでいた。渦の内側には白い筋のようなものがあり、渦が右に回転していることがわかる。
渦は肌がピリつく風を吐き出しているだけで、何かを吸い込むわけでも、破壊するわけでもなかった。ただ静かに浮かび、自分の内側を回転させている。
身を硬直させた優はブラックホールを想起していた。目の前の渦は、優が数ヶ月前にアメリカ発のドキュメンタリー番組で見たそれと非常に似ている。
渦と対峙してからの数秒間、優は動けなかった。まだ思考が追いつかないのか、精気のない人形のような顔で渦を見つめ、目を見開く。
「ひゃっ……」
やがて優の口をついて出たのは、悲鳴だとしても迫力のない声。女性のように両頬を左右の手で覆い、優は踵を返して部屋から飛び出していく。
あれは何、あれはなんだ。あれはおかしい。僕は異常なものを見たんだ。
科学の知識を持ち合わせていない優だが、それでもあの静かな渦の異様さは直感で理解できた。
胸の深奥から煙のようにどす黒い恐怖がせり上がってきて、優は必死に廊下を走る。向かう先はドーベルマンが待ち受けているはずの、玄関ドアの裏側。
ドーベルマンに咬まれたってかまわない。。とにかく、ここから出なきゃーー
一心不乱に玄関ドアへたどり着き、優は同年代の女子にも劣る腕力でドアノブを押す。開かない。鍵を見る。かかっていない。強く押す。何度繰り返してもドアは動かない。
直後、背後で大きな何かが蠢く気配を感じ、優は反射的に後ろを振り返る。変わらない廊下がそこにあり、変わったものがそこにあった。
人間のものに似た手が十二本。だがその指先には湾曲した短い爪があり、指の腹と手の平にあたる部分には猫や犬の肉球のようなものがある。
爪と肉球以外の全てがもっさりとした毛に覆われていて、毛の色は白、黒、灰、茶、何色かの混合。
左右六本ずつのうちの二対の手が、玄関ドアの上部、採光窓の枠に爪をかけていた。玄関ドアを開けようとする優を邪魔するかのように。
あまりに鮮明で異常な光景を前にした優は文字どおりに腰を抜かし、渦と向かい合ったままで玄関タイルの上にすとんと尻を落とす。その直後、何かを探すかのように宙を掴んでいた八本の手が一斉に動き、優の両腕を掴んだ。
優は眼前の光景をスローモーションで再生した動画のように感じていた。CGじゃない、現実だと認識しながらも、これは自分の身に起きていることじゃない、優はそう考えていた。
優はそれが命の危機に瀕した際の本能的な逃避行動だという自覚を持たない。抵抗も忘れ、微かな悲鳴もあげずに渦の中へと引きずり込まれていった。