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エメラルドタブレット(2)

「……ミケ、ミケー」


 どうしようもなく情けない自分にできるのはミケを探し続けることだけだった。ミケの名を呼ぶその声は霧のように薄いが、優にとってはこれが精一杯。

 犬よりも優れている猫の聴力なら聞こえるはず、優はそう信じ、ミケの名を呼びながら路地を進んでいく。

 ため息を吐きながら庭に大きな噴水のある家の角を曲がった先で、優はふと斜めを見上げて足を止めた。

 一階が駐車場になっている三階建ての家のベランダから、五十歳くらいの女性が優を見下ろしている。 

 なんだろう、あの人……優は目を合わさないように俯いたままで家の前を通過しようとしたが、


「ちょっと、そこのボク!」


 明らかに自分に向けられているとわかる声で呼び止められ、止まらざるを得なかった。


「……はい」


 ベランダまでは数メートル。この距離でも届くかどうか怪しい声で応えた優が強張った顔を上げると、女性はそこで待っていて、と声をかけた。 

 少しも知らない人だ、なんの用だろう。何度も家の前を通っていることを注意されるかも……

 優が逃げ出したい衝動に怯えるうちに、女性は門の前に姿を移していた。


「最近、いつもこれくらい時間にここを通ってるよね。確か一昨日かな……来たとき、ミケ、って聞こえたけど、それって、犬とか猫の名前?」

 

 今は優しく微笑んでいるけど、このあとに怒られるかもしれない。オトナの機嫌は山の天気のようにすぐ変わってしまうから。

 そう思うと優の心はしぼんでしまうが、ミケの名前が出た以上は問いに対して正直に応えるしかなかった。


「やっぱりそうなんだ……言いにくいんだけど、そのミケちゃんって、白と茶色に焦げ茶色?」


 自分の足を見下ろしていた優が、慣れ親しんだ三色に勢いよく顔を上げる。途端に女性は眉根に皺を寄せ、なんとも申し訳なさげな顔で優の目を覗き込み、言った。


「あの子、ノラじゃなかったんだね……」

「それ、ミケです! ミケはどこにいるんですか!?」


 目を輝かせ始めた優とは対照的に、女性の顔には陰りが見える。その表情に比例するかのごとく、女性はどこか湿った声で応えた。


「ごめんね……道路脇でうずくまってたの。そこの大通りを少し行ったところに、お店が集まってる場所があるでしょ? 奥のほうにブンブンていうペットショップがあるんだけど、良かれと思ってそこに預けてきちゃった」

「あ! あ、あ、あの、ミケは、ミケはケガとか……大丈夫でしたか? そこのペットショップの人たちが預かってくれてるんですねっ?」  


 体にハートマークがあるとか、ごはんーと鳴くとか。マグロを美味い美味いと鳴きながら食べるとか。ミケにはそういった特徴はないし、三毛猫の雌は日本じゅうどこにでもいる。

 現段階でミケと断定できる要素が少ないことは優も理解していたが、ようやく目の前を照らした細い光に、優の小さな心と細い両足は期待に震え出さずにはいられなかった。


「ケガはしてなかったと思うけど。ごめんねぇ……なんだか、すごく汚れてたから……飼い猫だなんて思わなくて」

「いえ、ああ、あのっ、あ、ありがとうございました!」

「っ? あっ……」


 駆け出した優に驚いた様子の女性が小さく声を漏らしたが、すでに風を切って走る優の耳には届かなかった。

 国道十八号線の歩道はつい数ヶ月前に全面拡張されたばかり。身長百六十センチ、体重四十四キロの小柄な優が歩行者の間をぬって走るにはじゅうぶんに事足りる広さだ。

 全力疾走を嫌う優がここまで力を振り絞って走るのは何年ぶりだろう。二年前に学校の帰り道で不審なオジサンに声をかけられたとき以来かもしれない。

 信号が変わる前に、と駆け込んだ交差点を渡る途中にウエストポーチから舞い落ちた数枚のチラシにも気づかず、優は国道十八号線沿いにあるショッピングモールの敷地内を駆ける。

 安くて、品ぞろえが良い。鮮度もそこそこ。近隣住民の食を担う大型スーパーのオオタヤと、ここ数年の万引き被害増に苦しむ掛川書店の間を奥に進み、かけだしのアーティストが数人を相手に自分の存在をアピールするイベントホールを抜けた先に、全国チェーンのペットショップ、ブンブンがある。

 優はブンブンの自動ドアの前で膝を手につきながら呼吸を整える。それから深く息を吸い込み、ドアマットを勢いよく踏んだ。

 ガ、ガーッとつまるような音をたてて開いたドアの先で、背中にBunBunと書かれた緑色のジャンバーを着た若い女性店員が屈んでいる。

 女性店員はレジ前の網に掛けられた台紙商品の補充をしているようで、優に気づき、その小さな顔を見上げた。女性店員と目が合い、優に鋭い緊張がはしる。


「いらっしゃいませー」


 おや? という顔をした女性店員に会釈し、優はその脇を運動会の行進のようなぎこちない動きで通過してしまう。

 店内を探し回ったり、レジで忙しそうにしている店員に勇気を出して声をかける必要のない位置に店員がいる。

 都合が良いシチュエーションであるはずだが、臆病な優は心の準備を終えられずに、ふらふらと店内を歩いては入り口の女性店員を何度かチラ見する。

 挙動不審な優からなにかを感じ取ったのか、女性店員は優に近づき、背中から声をかけた。


「お使いか何かですか? 商品の場所はわかる?」

 

 冷たい汗が、足を止めた優の背骨をなぞるように滑り落ちていく。どうしよう。どんなふうに説明するか、まだまとまっていないのに。


「どうしたの?」


 不審に思われているんだと気づき、優は緊張で足を震わせながら踵を返す。営業用かどうかには関係なく、えくぼがチャーミングな女性店員の笑顔に少しだけ気持ちを落ち着かせた優は、恐々とウエストポーチからチラシを取り出した。


「……あっ」


 事情を察したのだろう、女性店員はチラシから目を離して首を伸ばし、店の奥を覗き込んだ。そのまま何かを考えるように動きを止め、優の小さな手を掴んで店の奥について来るように促す。

 女性店員は大学生くらいの年頃に見えるが、優からすればじゅうぶんに大人。自分よりも大きく柔らかい手に手を握られ、優の体温が一気に上がる。

 合わせて、女性店員の行動の意味を考えたとき、優の胸には大きな期待が生まれていた。

 きっとこの先にミケがいるんだ。ここはペットショップだから、動物好きなスタッフの人たちが世話をしてくれていたんだ。ミケは大丈夫なんだ!

 促されるままに事務室のドアを通ると、そこは乱雑に段ボールが積まれた八畳ほどの部屋。置かれたテーブルのイスには女性店員と同じジャンバーを着た、恰幅のよい中年男性が座っていた。


「店長、すみません。この子、この間の三毛猫の飼い主みたいなんです」

「……ええ?」


 やや長い沈黙のあと、店長と呼ばれた中年男性は明らかにそれとわかる迷惑顔で優を一瞥する。その様子にすくみ上がった優が思わず俯くと、店長は大きな舌打ちをしてから優を睨みつけた。


「あー。アイツか。一応預かったはいいけど、懐かないヤツでなー、成猫だし、まったく売り物にならんから、いつもの高松ジイさんに渡したよ。てかなんだボク、今ごろ捜しにきたの? 確か、もう一週間くらい前のことだよ?」


 大人に強く睨まれたこと、何よりも会えると思っていたミケが誰かに引き取られたことを知り、ショックを受けた優の手指から体温が引いていく。


「ボクさあ、ずいぶん、無責任じゃない?」

「いえあ、あっ……あの、捜して……たんです……」

「ええ? どこを捜してたの? どうせこの近くに住んでるんでしょ? ペット

ショップに預けられてるかもとか、思いつかなかった?」


 必死に絞り出した言葉に攻めを被され、優には返す言葉が残っていなかった。店長の鋭い視線から逃れたくて、急激に背中が丸まっていく。


「店長、ちょっと……」

「いいんだよ、そもそも、大切なら自分の傍から離すんじゃないよ。第一さ、見つけたとしてもケージすら持ってないじゃんか。どうやって連れ帰るんだよ? こういう飼い主がいるからノラが減らないんだって」


 困惑顔になった女性店員の制止も意に介さなかった店長だが、優がさめざめと泣いていることに気づいたのか、決まりが悪そうにひとつ咳払いをした。


「ーーとにかく、ここにはいないから」


 立ち去るようにと右手をひらひらと振り、店長はテーブルに広げたスポーツ新聞に目を落とす。まだ幼い優にも、明確な拒絶だと理解できる行動だった。

 優は泣きながら部屋を飛び出し、店内を突っ切り、駐車場を駆ける。


「ねえ! 待って、待って!」


 背中のほうから追いすがる声が先ほどの女性店員のものだと気づき、優は足を止めて振り返った。人形を思わせる優のくりっとした目から頬にかけての範囲を、透明な筋が伝っている。


「あ、足、すごく速いんだね……びっくりした……」


 女性店員は膝に手をついて呼吸を荒げながら、苦しそうに言葉を紡ぐ。


「そっ、その猫ちゃんがもらわれた先なら、わかるから……高松さんって……は

あーっ、今、何かでメモできる?」

  

 涙の膜で覆われた優の瞳孔が大きく開いていく。優は慌ててズボンのポケットからカンタンケータイを取り出し、メモ機能を起動。不慣れな手つきでテンキーをポチポチ押しながら自分が告げた住所を一生懸命に打ち込む優の姿を見て、可愛らしく思ったのか、表情を和らげた女性店員が優へ言葉をかける。


「けほっ……あ、のね。そのお爺さん、月に何度か来るんだよね。引き取れる犬か猫はいないかって。三丁目のほうの、国道から見える四階建ての有名な豪邸に住んでる人だから、お金に余裕があってすごく動物が好きなのかな。優しい感じの人だから、事情を話せば、猫ちゃん、返してくれると思うけど」


 書き留めた住所を見てもどの辺りにあるのかを掴めなかったが、国道から見える四階建ての豪邸は優も知っている有名な家だった。この近辺で暮らす人で、あの家を知らない人は多くないだろう。

 それでも優は几帳面に住所を打ち込んだ。何度も何度も頭を下げてから駆け出そうとする優に、女性店員から頑張ってね、と声がかかる。

 優はやおらに恥ずかしくなり、目を逸らしてから最後にもういちど頭を下げ、歩けば三十分ほどの距離を走る。

 優が通り過ぎた大谷町第三公園の公衆トイレの壁に掛けられた時計が、十七時五十分を指していた。


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