おくびょうもの(2)
塔の構造はそれほど複雑ではなく、何十もの階層に分かれた各フロアの天井の中央を貫く半透明の筒の内側を四十機のゴンドラが昇降している。
マコが飛び降りたのはフロアごとにある発着場のような足場で、カズミを前抱きしたハルもそれに続いた。
「ユタカー、大丈夫だから、早く降りなよー」
躊躇する優をマコが急かす。二メートルは決して飛び降れない段差ではないが、優には簡単なことではなかった。
ここでは痛みを感じないみたいだけど、それとこれとは話が別。痛いだろうから怖いんじゃなくて、高いところから降りること自体が怖いと。
「ほい、頑張って!」
「あたしでもできるよーユタカ、男でしょ! がんばれぇ」
勇気の出ない優をハルとカズミが励ますが、優は不満を抱いていた。あたしでもできるなんて、あの女の子は抱えられていたじゃないか。
そのうちに、マコが焦れたような顔になってきていた。それでも決心のつかない優を急かすかのように、故障で止まっていたゴンドラが急に動き始める。
そのまま目的地の最上階まで乗っていけばいいものを、パニックになった優は慌ててゴンドラからジャンプ、
「おー?」
飛び降りたのが意外だったのか、優は驚いた様子のマコの隣へ着地。やはり痛みはなく、足を挫きもしなかった。
「ひっ、おっ……お待たせしました」
「ぷっーー」
冷や水を浴びせられたような顔の優を見て、ハルは笑いを堪えている。いや、吹き出していた。
たかだか二メートルくらいの高さから降りたくらいで、と笑われたと思い、優は臆病な自分を恥じて目を伏せる。
塔の内壁を巻くように造られた、手すりつきで幅が広い螺旋階段を上るうちに、優にも周りを見る余裕が出てきた。
先細りする東京タワーやスカイツリーとは違い、この塔は水筒のように寸胴だ。壁側に螺旋階段があり、内側に各フロアの床。中央をゴンドラが貫く。
塔の三分の一を過ぎたあたりから不必要に思えるほど数多くの窓が内壁に埋め込まれていて、差し込む蒼い月光が塔内を幻想的に照らしている。
丸い形のフロアには数十個のテーブルが無造作に置いてあった。天板の上には使い古されてクシャッとなったトランプやチェス、将棋や囲碁、ダイヤモンドゲームなどのいわゆるテーブルゲームが散乱し、フロアの床にはフラフープや竹馬などの遊具が。
優はその事実に強く驚いた。どれもが
ノスタルジックなものを好む優の父親と遊んだ経験のあるグッズばかり。
かなり使いこまれているから、ずっと昔に誰かが街から持ち込んだのかな……と優は首をひねる。それとも、この世界にもああいう遊び道具を造る会社みたいなものがあるんだろうか、と。
加えて、どのフロアも完全な無人だった。どうして誰もいないんだろうと不安げな顔の優に説明を始めたハルによれば、この時間の塔民たちは塔の屋上で食事をしているらしい。毎晩の恒例行事で、全員参加なんだと。
食事と聞き、優は気づいた。そういえば、お腹が空いてない。これだけの異様な状況に放り込まれたんだから、それも不思議じゃないんだけど……?
だが、優の違和感はそれだけじゃなかった。トイレは昼休みに行ったきりだけど、尿意を感じていない。その違和感を顕すように、眼下のフロアにはトイレと思しきものがなかった。
「……あの、ハルさん。聞いてもいいですか?」
「ん? いいよん」
「みなさん、トイレ……お手洗いはどうしているんですか?」
ハルは優が予想したとおりの反応を見せた。トイレとかお手洗いってなあに?
「……あ、そうですか……いえ、なんでもありません」
「ふーん。にしてもユタカはたまに不思議なことを言うんだね?」
上手く応える言葉を見つけられず、優は軽く頷いただけで会話を切った。
……やっぱり、痛みや疲れを感じないことと繋がっているんだ。汗とか、たぶん涙も出ないようになってる。どのフロアにもベッドが無かったし、お風呂も見あたらなかった。
自分の体は、どうなったんだろう。思い返せば、こっち側に来た直後だけ痛みを感じたけど、今はない。それはどういうことなんだろうーー
ミケもこんな状態なのかな。ミケを見つけられたとしても、元の世界に帰れるのかな……向こうで体は戻るのかな。
考えれば考えるほどに気が塞ぐが、考えないようにもできない。いっそのこと、階段で疲れてくれたら気が紛れるかもしれないのに、疲れない。
上るにつれ、何も置かれていないフロアが目立つようになってきた。
「塔が高すぎて、余ってるんだな」
優を窺うように言うハルに軽く頷き、優は無言で足を動かし続ける。
疲労を感じない優の思考は、長く続く螺旋階段の最上段まで辿り着いたときにも明瞭なままだった。