おくびょうもの(1)
塔に入ってから十数分後、優はマコハルと、使者として遣わされた七歳くらいの少女と共にゴンドラの上にいた。ハルと少女は仲が良いらしく、キャッキャッウフフとじゃれあっている。
優は、塔の最上階行きの錆びて軋むゴンドラの上で、優が持ってると危ないからとバットを引き受けたマコから毛玉についての説明を受けていた。
柔らかい毛に覆われているから毛玉と呼ばれていること、優が言うところの鼻が短いタイプは“跳型”、長いタイプは“走型”と区別されていること。
跳型は跳躍力に優れ、機敏。走型は足が速く、力が強い。だがマコたちの持つ毛玉についての知識は浅く、毛玉たちがどこから来たのか、いつから存在するのかも知り得ていないらしかった。
毛玉たちは人間と同じく各地に散らばり、人間たちを襲う。例外もあるが、ほとんどの土地では人間のほうが劣勢に追い込まれ、多くが塔やそれに準ずる建物で集団生活をしているらしい。
「……あの、どうして毛玉は人間を襲うんですか?」
「んー、それもわからないんだよー。土地はいくらでもあるんだから、干渉しないで共存することも出来るはずなのにねー。人間を食べるわけでもないしー」
「……あ、でも、歴史とかを見ていけば、どうしてこうなったかも……」
「歴史? なにそれー?」
マコの反応に優は面食らっていた。元の世界とこの世界では共通点が多い。日本語も通じるし、使われている文字も和洋折衷で優が慣れ親しんだものばかり。
服装こそ見慣れないローブだが、マコハルやシノヅカに、カズミと使者の少女もそう、優が会った人たちは例外なく日本人の外見と名前。それなのに、歴史という言葉が通じないなんて。
「あの……歴史って、人間がいつ頃から存在していて、これまでにどんな出来事があったのかとか……そういうものを古い順にまとめたものです」
「なんだそれ。何のためにそんなことするの?」
拙くはあれど、要点はそれなりに押さえられている説明だったが、マコハルは要旨を全く理解できないようだった。
この世界には歴史という概念がない。つまりは自分たちがいつから存在しているのかを知らないということで、マコハルはそれを当然だと言った。
昔のことなんて、誰も気にしない。大切なのは、これから先のことなんだな。
ハルはそんなふうに言うが、優はこう思っていた。誰も知ろうとしないだけで、実は毛玉たちとの過去に決定的な何かがあったんじゃないかと。そうでもなければ、あんなふうに血眼になって襲うだろうか。
改めて優は実感する。ここは元の世界とは違う、異世界なんだと。
急に押し黙った優に困ったのか、マコハルはお互いが持つ笑い話を始めた。内容は二人がこの塔にたどり着く前、旅をしていたころの失敗話。
カズミは何度も聞いたよーと抗議、冷めた目でマコハルを眺めていて、肝心の優は二人の話を全く聞いていなかった。
ミケはこの世界に来てるのかな。ミケが引き取られた家にあの渦があったんだから、来ていてもおかしくないよね……
この世界に犬や猫がいないんだとしたら、ミケがこの塔に受け入れられているとは思えないし……まだ街のどこかにいるかも。捜さないとーー誰か、この塔からミケを見た人はいないのかな。
話し終えて気まずい顔になったマコハルに質問するべく優が口を開いたのと同時、優たちを乗せた三十八番ゴンドラが急停止。衝撃でバランスを崩し、優はハルの足下へ転んでしまった。
「だいじょぶ?」
ハルが足を揃えて屈むと、優の目にハルの下着が。慌てて目を閉じた優だったが、目に焼き付いてしまったようで、下着の形が元の世界で一般的に使われているものと同じだと認識してしまう。
「お、どしたん?」
猛烈に恥ずかしくなってゴンドラの底板に顔を伏せた優へ、ハルが不思議そうに言う。マコはその様子をやおら楽しげに眺めていたが、上を見上げてから真顔になって言った。
「オンボロゴンドラが止まっちゃったけねー、けどまあいいやー。仲良く階段でいきますかー」
ゴンドラの手すりを踏み越え、マコは二メートルほど下にあるゴンドラの乗降用の足場にひらりと飛び降りた。